ニーチェは語らない。言語化することで失われる自己とは何か。
今回のnoteでは、
「あえて言語化しないことも大切だ。」
という主張をしてみたいと思う。言語化という営みが神聖視される現代で、そこからこぼれ落ちてしまうものの可能性を探していく。
フランソワ・ヌーデルマン著の『ピアノを弾く哲学者』を手引きに。
言語化を求められる現代人
「言語化しろ!」
「一旦言葉にしてノートに書いてみましょう。」
昨今はこんな調子で何かと言語化が求められる。自分が何者であって、何を考えているかの言語化が求められる。
証拠にAmazonでも言語化にまつわる書籍で溢れている。
こう書くと、「何だか窮屈な世の中になったな…」と思う人もいるかもしれない。そんな読者に共感したいのも山々だが、、、
隠すまでもなく、僕は生粋の言語化大好き族だ。noteなんてプラットフォームにいる人間は漏れなく同族であろう。僕みたいな人種は自分の考えを言語化することで、モルヒネの50倍くらいのドーパミンが分泌されているに違いない。
実際、言語化は豊かな営みだ。
「言葉」は社会と自分が繋がるためのものだ。「コップ」という言葉は私以外に人間がいなければ別に必要のない言葉だ。「そこのコップ取って」と他者にお願いするために「コップ」という言葉が存在する。
鋭い人は、「それとって」でも伝わるケースがあるのではないか?とツッコむかもしれない。しかしそれは例えば家族など特定の関係性のみ適用可能だ。誰でも伝わるわけではない。コップの隣のお皿をとってしまうかもしれない。しかし「コップ」は、少なくとも日本においては共通了解を得ている概念であり、私の中のコップのイメージと、社会のコップのイメージでズレが発生することはないに等しい。
あるいは「嬉しい」や「悲しい」といった形容詞も同様である。他者がいないのであれば、社会がないのであれば、わざわざ感情を言葉にする必要などない。ただその名もなき感情を味わうだけで良いのだ。
つまり「言語化」とは、"私"のうちにあるものと"社会"を繋げる行為だと言えそうだ。
そして大抵は言語化したら文字にし、文章にする。そこまでくると言わば私を社会に、歴史に刻もうとする行為とすら言えそうだ。言葉にし、それを表に出すことで私は社会に刻印され、歴史に残るのだ。
言語化が仕事の哲学者
世の中には哲学者という職業がある。彼らは言語化の魔術師だ。なんでも厳密に言語化する。一つの言葉の定義を定義するために、1冊の書籍の半分を使うことさえある。(だから大抵の哲学書で挫折する。)
さて、あなたは哲学者と聞いて最初に思い浮かぶ人は誰だろうか。
当てよう。
それはニーチェだ!
当たっているはずだ。なんせタイトルに「ニーチェ」と入っているのだから。
脱線したが、ニーチェは日本では特に有名な哲学者だろう。名言集とかも結構売れてそうだ。
自分の言語が社会に受け入れられるという事は、社会からの承認を強く感じる瞬間であり、ニーチェはその思想、言葉によって、後世に名を残したいと思っていた1人であった。
「俺の思想は100年後、1000年後に自分の作品のための記念碑が建てられることになるだろうと」
という言葉を友人に送ってるくらいだ。自分の思想を残すことに糸目がない人だ。
ニーチェが言語化しなかったもの
そんな言語化万歳と思っていた時に『ピアノを弾く哲学者』をに出会った。そして、ニーチェにも自分の言葉で残さなかった事柄があることを知った。それがピアノについてだ。
実はニーチェは、ピアノに関してプロ並みの実力を持っていた。哲学者ではなく、プロのピアニストを目指していたくらいだ。そしてこの刺激的な名言をは音楽たちの間でよく知られているらしい。
言ってしまえば「No Music, No Life」的なことだが、「誤謬」という訳が粋だ。
しかし、ニーチェは音楽論を論じることはあっても自分の音楽家人生については論文も著作も残していない。自分がどんな音楽を奏でるのかについても全く語りを残さなかった。僕だったら「OOを表現するために、こういった時代背景を踏まえて、こんな演奏をしている。この演奏は歴史的にこんな意味がある、僕の人生にとってこんな意味がある。」など言語化してしまいたくなる。
よって本書は、ニーチェの周辺人物からの情報や、状況証拠などをもとに、「ニーチェにとってのピアノとはなんだったのか」を著者のフランソワ・ヌーデルマンが語り直す、という形で綴られる。
つまり
「ニーチェが語らなかったものを他者が語るとはどんな意味があるのか」
という問いに向き合わされてしまったのだ。
ニーチェは孤独だった
さて、ヌーデルマンはニーチェとピアノについてどのように語ったのか。
この一節がどのような意味があるのかを考えるためには、ニーチェの人生について知る必要がある。
実はニーチェは生涯孤独な人生を歩んだと言っても過言ではない。まず哲学界からは生前評価されていなかった。没後になってようやく彼の思想に時代が追いつき評価されるようになったのだ。そのため無職の期間もかなりあった。また恋人にも恵まれていない。好きな人と三角関係になるも振られてしまう。最後は発狂し、孤独な病床生活で人生の幕を下ろすことになる。
ニーチェに寄り添いっていたのは妹くらいだった。
様々なニーチェ本でもこの孤独さは多く語られている。簡単に詳しく知りたい人は『まんがでわかるニーチェ』がおすすめだ。
そしてもう一つ注目すべきは、ニーチェがピアノを愛していたことも比較的有名であったことだ。特にピアニストワーグナーとの出会いや関わりは、彼の哲学にも大きな影響を与えている。わざわざワーグナーを絶賛するために論文を書くくらいだった。(しかしワーグナーを酷評する論文を書いたことをきっかけに犬猿になり、関係が立たれる。ニーチェは人間関係よりも思想を重視していたため、孤独だった。)
そんなニーチェは日常的にピアノを弾いていたが、誰も「ニーチェにとってのピアノとは何なのか」を論じた人はいなかった。それは、ニーチェ自身がピアノについて語らなかったため参考資料が少なかった事も起因している。
ヌーデルマンの仕事
本人からの語りがない中で、周囲の人の証言や、状況証拠といった断片的な残り香を掬い上げ、ニーチェとピアノの関係性を語り直したのが、『ピアノを弾く哲学者』を執筆したヌーデルマンなのである。
つまりあくまでヌーデルマンの主観的な想像である。
部屋に1人孤独に引きこもっていたり、あらゆる他者との対話拒みつつも、ニーチェの部屋には必ずピアノがあった。そしてほぼ毎日、ピアノを演奏し、それも譜読み演奏と、即興演奏と、作曲が混じったような演奏であった。
この様子に対して、ヌーデルマンはこのように語り直したのである。
ヌーデルマンは、ニーチェに友人家族を授けたのだ。
ピアノを弾くことは、好きな作曲家たちがその場に立ち現れることにあり、それとともにある生活、空間、場そのもののを家族と表現し、彼を孤独から掬い上げたのだ。
彼の演奏スタイル、つまりただ譜面通りに弾くでもなく、ただ自作の音楽を弾くでもなく、それらが融合したような即興的な演奏スタイルからショパンやシューマンを彼の友人にした。
もしヌーデルマンがこのように語り直さなかったら、ニーチェは天涯孤独で音楽からも見放された同情対象となった哲学者のままだった。(ニーチェは音楽家としては成功しなかった。)
ヌーデルマンが本書で至った仕事とは、ニーチェの一見孤独な人生に対して、新しい一面、すなわちニーチェの分人性を描くことにあった。
自分に関する真実とは、どうやったら見つかるのか
さて、ニーチェは実際孤独だったのか、孤独じゃなかったのか、あなたはどう考えるか。
「それはニーチェに聞いてみないとわからない。」
くれぐれもこのように考えないで欲しいというが本記事の結論だ。なぜなら僕は、「果たしてその人の語ったことが、その人にとっての真実の全てなのか?」という問いを投げかけたいからだ。
僕の大好きなアーティストのRADWIMPSの「謎謎」という曲の歌詞にこんな一節がある。
自分が嫌いだという「君」に対して、「君」はまだ内側からしか自分を見てないという。
そして、それは「君」の要素の半分に過ぎないのだから、決めつけるなと。もう半分である外から見てた僕の話も聞いてよ、と語りかける歌詞である。
この続きもめちゃくちゃ良い歌詞なのでぜひ聞いてほしい。
自分が語る自分とは、自分にまつわる真実の半分に過ぎない、いやもしかすると半分にも満たないのかもしれない。
ニーチェはきっと孤独であったのだろう。そして、孤独じゃなかったのだろう。人は自分のうちから見た、自分が語ることで見つかる自分と、外から見た他者が語ることで見つかる自分がいるのだ。
そしてそこに優劣はなく、どちらも紛れもない、本当の自分なのである。そういった意味で、ヌーデルマンはニーチェに一つの真実を与えた、素晴らしい仕事をしてくれたと思う。
「あえて語らない」を意識してみる。
しかし多くの常識では、本人による語りの方が優先される。仮に、ニーチェが生前に「自分にとってのピアノとは何か」を語っていたとしたら、他者が語ろうとする余白は少なくなるだろう。ヌーデルマンもその語りを参考にして語るだろう。つまりヌーデルマンが与えたこの真実は、ニーチェが語らなかったから生まれたものであると考えられないだろうか。
自己について言語化すればするほど、他者が語る隙間がなくなってくる。それはつまり、自己についての真実の一部の発見から遠のく行為でもある。
自分についての真実を自分からの視点でしか見ることができないことは、自意識による囚われた状態であり、他の意識、つまり他者との関係性の中で「自己」と言うものが形成されいてる感覚を忘却してしまう。
あらゆる自己を発見し、向き合うためにも、「あえて語らない」と言う事も必要になってくると言えるのではないだろうか。
言語化好きな僕にとって耳が痛い話ではあるが、大切なことに気づかされた読書体験だった。
PS.ピアノ好き、哲学好きの人はちょっと難しいがぜひ本書を読んでみて頂きたい。ヌーデルマンの素晴らしい仕事を通して、ニーチェ、サルトル、ロランバルトの三者がピアノを通して世界とどう対話していたのかを覗いてほしい。
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