何故たった一度切りの人生を「数学の証明」という無駄なことに割くのか。
本日の積読本
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
数学者とは一体何をしているのか。
数字や英語なのか何語なのかよくわからない記号羅列と睨めっこしている人たち。僕はそんなイメージだった。きっと賢い人たちなんだろう。
おそらく読者の中には、学生時代点Pに踊らされ、「数学」と聞くだけで蕁麻疹が出るような人もいるだろう。そんなあなたからすれば数学者など霊妙な存在に見えているかもしれない。
ところで、悪いがそんな読者と僕とには明確な違いがある。高校生の頃は数学や物理学に惹かれていた。バスケ部だったこともあり、シュートする時のボールの軌道を数式に起こしたり、センター試験までの残り日数を算出する数式を編み出したりして遊んでた。
そんな僕でも、数学者は奇々怪界な存在だ。一日中数式と戯れあって何の役に立つというのだ。数学界で衝撃的な発見があったとて、日常は変わらない。そんな一見無価値な事柄に人生を費やすなんてどうかしている。
もちろん、数学の発展が、物理や工学の世界に影響を与え、それが昨今のテクノロジーの発展に寄与していることは知っているので全てが無駄だと思っていたわけではない。
しかしあまりに間接的すぎる。数学上のとある発見が数世紀の時を経てようやっと応用されるといった話も聞く。高校3年生の頃苦しめられた微分積分は17世紀ごろに生まれたが、それが工学の世界で応用されるようになったのは19世紀ごろだ。社会の役に立つまでの時間が長すぎやしないか。
つまり「数学」自体は発展させるべき側面の理解はあったが、それに向き合う数学者の精神への理解は到底できなかった。
こうして僕は、高校を卒業して大学へ行かず、ベンチャー企業やスタートアップで働き、「すぐに役に立つこと」に熱中すべきだ、という数学者とは対極とも言える環境で過ごしていた。
こんな僕に目を醒させてくれたのがサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』だ。
ようこそ、数学の世界へ
本書を読んで僕は涙を流すことになってしまった。無駄に思えていた数学者たちの生き様に。そしてそんな数学者たちに生き様に生かされている数学の美しさに。「数学」に自我があれば、さぞ幸せ者だろうとさえ思えた。
本書では、そんな数学者の命の奇跡を「フェルマーの最終定理」という3世紀以上の時を経て最近ようやく証明された命題を切り口に語ってくれた。それに翻弄されてしまった、あるいは魅了されてしまった様々な生がそこにはあった。
1分でわかるフェルマーの最終定理
最初に、あなたが今後フェルマーの最終定理に関して少しでも語れるように、軽くこの定理の説明をしよう。「ド文系でも理解できる内容」というところがこの定理の魅力でもある。
上の図を見て理解できた人は飛ばしてもらって構わない。ここからはちょっとよくわからない人向けに解説する。
まずこの式は小学1年生でも理解できる。
さて、この式を中学数学をサボってない人だったら理解できる内容に変形してみよう。
これを綺麗に治すと、
これを一般化すると、
こうなる。
つまり、「「何かの2乗」と「何かの2乗」を足すと「何かの2乗」になる」これを満たす何かは存在する。ここまでは理解できるであろう。
「あー、なんか覚えてるかも。」
こう思った読者の直感は正しい。これは中学校で三角定規を使いながら習うピタゴラスの定理(もしくは三平方の定理)だ。三角定規の斜めで一番長い辺の長さを求めるときに使うやつだ。
フェルマーの最終定理では一見簡単そうに見えるこの式が発端となる。フェルマーはこの式は"二乗だから"成り立つのだというのだ。つまり、三乗以上は絶対に式が成立しないと言い出した。
これがフェルマーの最終定理だ。
nが3以上だとこの式を成立させるための整数a,b,cは存在しない、というとてもシンプルな定理。
フェルマーの最終定理の問題
果たしてこれの何が難しいのか。
証明が難しいのだ。幽霊、宇宙人が存在しないということを証明することが難しいの同様、何かが存在しないことを証明するのは骨の折れる作業となる。
フェルマーは意地悪なことに、「証明する方法はわかっているが、それを書くには余白がないので、書けない」とだけメモを残して亡くなった。
この証明がどれだけ難しいことなのかについてはE・T・ベルという偉大な数学者が教えてくれる。
これが全体像だ。さて、これで皆さんもフェルマーの最終定理の話題になったときドヤ顔で参加できる。
証明しないと気が済まない人たち。
数学の「⚪︎⚪︎性」の発見
もうお気づきかもしれないが、フェルマーの最終定理は、古代ギリシャの最古の数学者と呼ばれるピュタゴラスから始まる。彼こそが数学の礎となった人だ。理系で彼を知らない人がいたら、モグリだ。
ピュタゴラスの定理は、実は彼より千年も前に中国人やバビロニア人に利用されていたらしい。ポイントは、あくまで利用されていただけに留まっていたということだ。
そんな状況で、ピュタゴラスは「全ての直角三角形において、適用される!」と最初に証明したのだ。
ではどうやって証明したのか?全ての直角三角形を調べ上げたのか?それは不可能である。無限にあるからだ。
そこで使ったのが数学だ。数学を使えば、全てを調べ上げることなく、「全てのパターンで成り立ちます!」と主張することができる。そしてこの主張が覆されることはない。天地がひっくり返っても、夏に雪が降っても、殺人が合法化されても、絶対に直角三角形はピュタゴラスの定理に従うのだ。
「数学なら完璧な証明ができる」
いや、数学者はこういうだろう。
「数学でしか完璧な証明はできない。」
物理や化学といった科学も完璧な証明はできない。科学的な証明はあくまで統計学的な結果に過ぎず、観察にも誤差が生まれる。「合っている可能性は99.9%だ」とは言えても、「100%合ってる」と豪語できるのは数学だけなのだ。
数学の持つこの「完壁性」が、多くの人生を引き寄せたのだ。
と同時に恐れられた。
当時の完壁性とは神だ。数学が完壁だという主張は神への冒涜だとして迫害された歴史もある。実際にピュタゴラスとその弟子たちのコミュニティである「ピュタゴラス集団」はほとんどが燃やされたり殺されたりした。
しかし人類は「数学を使えば完壁に証明できる」ということを知ってしまった。知ってしまったら後戻りできないという性質が人類にはある。タバコの味のように。
ご冗談でしょうフェルマーさん
フェルマーも、後戻りできなくなってしまった人のひとりだ。それに彼は真に証明に心を奪われてしまったといってもいいだろう。彼は名声よりも証明を優先したからだ。
彼は生涯で重要である数学理論を数多発見した。公表すれば、富も名声も得られたはずだ。しかしほとんどをそうしなかった。
それは公表すると色々と面倒な仕事が増えるからだ。名声に現を抜かす暇があれば、他の証明や理論発見に時間を使いたい。名声を得るための証明ではなく、証明したから証明し、証明によってのみ満足することができるのだ。
そんな気質からか、彼の中で証明の計算式がイメージできればそれを皆が理解できるように丁寧にまとめたり残しておくことはしなかった。故にかなり嫌われていたらしい。
フェルマーの最終定理も例に漏れず、雑にメモに残されており、没後発見された。このメモの切れ端が、多くの数学者の人生を狂わせることになる。
数学しすぎて失明したオイラー
まず大きな一歩を踏み出したのが、18世紀の奇才数学者レオンハルト・オイラーだ。彼の天才ぶりはこう表現される。
例えばオイラーは、新しい数の概念を発見するという実績を残している。それは今、我々が「虚数」と読んでいるものだ。「i」と表記される。高校2年で習うのでもしかしたら聞き馴染みがない人もいるかもしれない。
そしてこの虚数を使ってフェルマーの残した難問に立ち向かおうとしたのだった。その挑戦はうまく行った。
フェルマーの最終定理では「nが2より大きい整数は全て」という条件がついていたが、「nが3の時は」という条件付きで証明することができたのだ。
とんとん拍子かと思ったが、そうは問屋が下さなかった。どうしてもそれをnが3以外の場合に適用することができなかった。
それでも諦めず、続けた。
そしてそのストレスから20代という若さで片目視力を失った。ただこんなこと彼にとっては取るに足らない。むしろ気が散らなくて良いとさえいっている。
その50年以上、戦い続けたが健闘虚しく、最期を迎えた。
19世紀にフェニミズムは浸透していない
オイラーが残した第一歩のバトンは簡単には引き継がれなかった。それは女性差別による才能の収奪である。
その才能を持った女性こそソフィー・ジェルマンだ。後に「nが5の時は」というこれまた条件付きではあるが証明を成功することになる。さらにそれに影響を受けたガブリエル・ラメが「nが7の時は」という条件付きで成功する。大変偉大な功績だが、その道のりは数学との戦いだけではなく、既成権威との戦いもあり、簡単ではなかった。
論文の名前を知り合いの男性研究者から借りて公表するなどもしたそうだ。そして最後までその実績は世間に認められることはなかった。
死んだ友との共作。
しばらく、バトンのリレーが第三走者に渡ることはなかった。数多の数学の権威が挑んできたがことごとく敗れてきた。そして少し諦めムードが漂ってきた中、その風穴を開けたのは驚くべきことに、2人の日本人だった。
1人は谷山といい、1人は志村という。2人は図書館で出会った。きっかけはとある数学の難問を解くのに必要だった、論文だ。2人とも全く同じ論文を、全く同時期に探していたのだ。よくドラマで見かける本を手に取るタイミングが重なり運命の出会いを果たす男女のようだ。
それから2人は意気投合し、楕円にまつわる難問に取り掛かっていた。その証明は、順風満帆に進んでいるかに見えた。
しかし事件が起こる。谷山の自殺だ。まだ31という若さだ。諸説あるが、将来に対する自信喪失が原因らしい。婚約前だったということもあり、その婚約者も彼を追ってしまった。
志村は直前までやり取りしたのにその前兆に気づけなかったことを無念に、谷山の意思を引き継ぐかのように証明に命を注いだ。
そしてついに楕円にまつわるとある予想を発表する。それが「谷山=志村予想」だ。簡潔に言えば、「楕円とはこういった性質がある」と予想したのだ。あくまで証明ではないところがポイントだ。
この予想の発表は数学界を驚かせた。この予想が証明されれば、数学界に様々な変化がもたらされるからだ。皆が証明に夢中になった。
しかし驚きはこれだけではなかった。もし「谷山=志村予想」が証明されたら、なんとフェルマーの最終定理も自動的に証明されることがわかったのだ。
谷山の死は無念ではあったが、決して無駄ではなかった。志村が確かにバトンを引き継ぎ、次に繋いだのだ。
アンカーにバトンが渡る時。
とはいえ、「谷山=志村予想」の証明も簡単には行かなかった。発表されてから30年以上がたっても誰も歯が立たなかったのだ。当時第一線で活躍していた数学者ジョン・コーツはこう残している。
しかしアンドリュー・ワイルズは執着し、諦めなかった。彼がアンカーだ。
彼はこの問題に関係のない研究からは一切手を引き、社交を捨て引きこもった。その期間約8年。8年間、朝から晩までフェルマーの最終定理のことだけを考え過ごしてきた。8年前と言えば僕はまだ高校生だ。高校生から今まで、例えどんなに好きなゲームがあったとしても、それだけをやり続けるのはしんどすぎる。
そしてついてに、彼はアンカーとしての役目を果たした。谷村=志村予想の証明に成功したのだ。その論文のページ数は百ページに及んだ。
こうして、紀元前のピュタゴラスから始まり、フェルマーがメモを残してから三世紀以上にも渡る戦いは幕を閉じた。
フェルマーの最終定理を証明して何の意味があるのか?
正直、フェルマーの最終定理が証明されても特段何かの役に立つというわけではないらしい。もちろん、数学の世界では大きな前進であるがiPhoneの登場に比べれば実生活への影響はほとんどない。
本書ではG・H・ハーディの言葉が引用されていた。
それなのに、
ピュタゴラスは同胞を殺されてまで、
フェルマーは名声を捨ててまで、
オイラーは失明してまで、
ジェルマンは権威と戦ってまで、
志村は友人を失ってまで、
アンドリューは私生活を捨ててまで、
あらゆるものを犠牲にしてまで向き合う価値が本当にあったのだろうか。何が彼らを突き動かしたというのか。
一つに彼らは何を証明しようとしているのかという視点がある。定理が正しいことを証明するという営みの先にあるものは何なのか。
それは「世界は美しいに違いない」という信念の証明なのではないだろうか。
数学は一見混沌に見える世界を繋いでくれる。無限に存在する直角三角形を、ピュタゴラスの定理は一つに繋げた。複雑に見える世界、バラバラに見える世界をシンプルに記述することで、美しさを証明する。
そう考えると、数学は人類の希望になるかもしれない。世界は複雑で混沌に満ちている。いまだに世界各地で戦争があり、陰謀論が飛び交い、利権政治が蔓延り、格差、環境問題など問題は山積みだ。しかし数学は教えてくれる。世界は至ってシンプルで美しいのだと。
確かに経済の役には立ちつらいのかもしれない。社会の豊かさに貢献しているかもわかりつらい。しかし、少なくとも、「世界は美しいに違いない」という信念を持ち、その証明に生涯を捧げる人がいるという事実は我々を勇気づけるのではないか。
実際に証明できるかどかは置いといて、証明に人生を捧げる存在があることは希望になるのではないだろうか。
何故たった一度切りの人生を「数学の証明」という無駄なことに割くのか。
本書を読んだだけで数学者を語るなど烏滸がましいにも程があるが、今の僕はこの問いにこう応答する。
何故かはわからない。
しかし、我々が、そして未来の世代が、
この世は生きるに値する美しい世界であると実感し続けるために、今後も証明し続けてもらいたい。くれぐれもお身体をお大事に。
※便宜上、本記事では終始「フェルマーの最終定理」と記載していますが、
証明されていない定理のことを厳密には「予想」と呼ばれています。
すなわち、証明されるまでは「フェルマーの最終予想」と呼ぶのが正しいです。
※数学は無駄で役に立たないと書きましたが、あくまで僕の直感的な感覚であり、実際はかなり役に立っている部分もあると思います。機会があれば「実はこんなところで数学が役に立っていた!」みたいな記事を書きたいです。僕の勉強不足で不快な思いをされた方がいらっしゃったらご指導ご鞭撻をお願いしたいです。
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ちなみに著者のサイモン・シンは天才的なまでに面白く飽きない文章を書く作家である。数学アレルギーの人でも全く問題ない。もっと数学者の世界をのぞいて見たい人はぜひポチッと。
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トイドクー問いから始まる読書ラジオー
では日々過ごしていく中でふと出るはてなを読書を通じて向き合ってみようという番組です。
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