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【Essay】言葉を学ぶ。それは凡人による<凡庸>への抵抗。

ある芸術家を前に、自分はどこまでも〈凡人〉だと思うことがある。

彼の書く文章は単調だ。恐ろしく静かなのだ。一見、誰でも書けてしまえそうな文章の中に、その行間に、〈才能〉が顔をちらつかせる。

その作家はインタビューの中でこう答えていた。

自分は作家になりたくて作家になったわけではない。学校を卒業して何をしたらいいかわからないから書き物をしていた。気が付けばそれが本になり、賞を取っていた。

小説家になりたいという幼い頃の夢をどこかに潜めている自分と勝手に比べてしまう。

言葉を使った表現だけではない。

彼がカメラを手に取ったとき、ファインダーに収められた風景が意味を持つようになる。街中にあるただの公園も、芝生の枯れた河川敷も、錆切った鉄階段も、薄汚れたモルタルの壁も、彼がシャッターを絞った途端に、何かを語り始める。四角いフレームに切り取られた世界の静けさが、一人歩き出すのだ。同じ世界を見ているはずなのに、なぜこうも違った見方ができるのだろうか。

ひょんなことで知り合いになった、親ほども歳の離れたタイ人の作家。自分を彼と比較することそのものがあまりに自己中心的で、あまりにも部に合わないのはわかっている。

ただ、その才能を前に、その眼差しに触れながら、どこまでも自身の凡庸さを突きつけられる。

***

〈凡庸〉と言えば、かつて日記にこんな一言を書き記していたことがある。

〈凡庸〉であることの不安よりも、〈秀逸〉であることの孤独の方が、自分には身近に感じられる。

人と違ういうことに、ある種の孤独を抱いていた。同時に人と同じであることを是とする不文律に、どこまでも抗おうとしていた。赤信号、みんなで渡れば、怖くない。いや、それは違う。赤信号をみんなで渡れば、怖くものがなくなるのではない。全員一緒に死ぬのみだ。

でも、独りでいることがそのまま〈秀逸〉であるとは限らない。

人と違うところに〈秀逸〉さを見出そうとして自分の〈凡庸〉さを塗り替えようとする。結局は、人と違うことを〈秀逸〉とみる考え方そのものがもはや〈凡庸〉なのだ。

この一文を記したときの自分は、何を勘違いしていたのだろう。どこまでも自己中心的な自分の自惚れを今更顧みる。そして、自分の書く文章に「自分」という二文字が現れる頻度を顧みる。

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ある社会学者はこう言った。

「東京の高層ビルが伸びていく様は、この街の階層格差を皮肉っている」

かつて、バンコクの路地裏を見つめながら〈天使の都クルン・テープ〉を皮肉ったことがある。あのとき、モノレールの窓から見える摩天楼には、希望が溢れているようだった。でも駅を出て、客待ちのタクシー運転手とクラクションに満ちた路地に入ると、空が狭く見えるのだ。

天使といえば、この前観た王家衛ウォン・カーウァイの映画のタイトルは『天使の涙/堕落天使Fallen Angels』。香港のインターシティばかりを映す映画だが、ラストシーンは二人乗りのバイクが長いトンネルを抜けた後、高層ビルの間の細い空を見上げるというものだったっけ。

あの時、自分はバンコクをどのような眼差しを注いでいたのだろう。やはり、「格差が開いている」という個人的な印象を抱いていたのか。国際協力をしたい。恵まれた者の驕りから、そんなことを考えていた頃だった。

思い返せば、「成長しているが格差が開いている」という言葉そのものが使い古されている決まり文句だ。いかにも凡人の眼差しだ。〈格差〉という言葉を使って、自分は目の前にいる人の何を見てきたのだろうか。

何を知っていたのだろうか。

そう言えば最近読んだ小説で、「GIZEN」と書かれたチャリティー広告がモチーフになっていた。「JIZEN」の書き損じなのだろうか。それともお酒のジンを「GIN」と書くように、「GIZEN」と書いてもいいのだろうか。そもそもこれは〈慈善〉か〈偽善〉なのか。〈慈善〉とは実は〈偽善〉で、あるいは〈偽善〉も〈慈善〉なのか。かつての自分の眼差しも、〈GIZEN〉だったのか。

初めてバンコクに足を踏み入れた十八のときから、自分は変わったのだろうか。

少なくともタイ語ができるようになったのと、ものを見る目が養われたというのはあるかもしれない。同じ風景を眺めながらも、見えているものは全く異なっている。

街角で話されているヒソヒソ話にだって耳を傾けられる。街頭演説する政治家の蘊蓄だって理解できる。一昨日、友人に誘われて行ったマッサージ店でも、自分の足をほぐす女性と話をした。言葉が理解できれば、のっぺりとした風景に奥行きが生まれる。この奥行きこそが、五年間の学びのささやかで一番実りのある成果だったのかもしれない。

言葉を通して、目に見えない世界を捉えようとする。

言葉を学んで、人が、そして自分が知り得ない世界を垣間見ようとする。

それが凡人による、凡人なりの〈凡庸〉さへの抵抗だ。

…という、いかにも凡人な文章を書いて、自分の〈凡庸〉さを固めていく。


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