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曖昧なボーダー:南方熊楠とわたし(後編)インナーチャイルド乗っ取り事件

前回の記事の続き。言語化しにくい自分の体験を言語化する試み。

「対象と同一化したままでは、狂人となってしまう」「自我の消滅に恐怖する」「他者と近すぎず遠すぎない、適当な距離にとどまれない」、こんな熊楠は今でいう「統合失調症」に近いのでは、と書かれている。(*後述)

わたし自身は、統合失調症っぽい部分もありそうな「うつ病」だったことがある(うつ病の治療は受けていた)。そのことと関係あると思うけれど、自身の特殊な体験のうち、最も大きなものを「インナーチャイルド乗っ取り事件」と呼んでいる。2007年当時はインナーチャイルドを知らず、現象の意味を理解できなかったが「まあそういうこともある」と受け入れていた。

一応、自分自身に起こったことを追求・分析しようと試みたが、多重人格でもなく、分裂症でもない。別に、病名がついたからどうってこともないし、病院に診断を求めたりもしなかった。そんな体験を、15年以上前のことだけれど、とりあえず書いてみる。分析はあとで(できる範囲で)。この世のどこかに同じ体験をした人がいたら、話してみたい。まだ会ったことがない。

うつ病が悪化、歩けなくなり家にこもる

20代後半、うつを繰り返していた時期で初回の発症から約2年後。わたしは子宮内膜症でもあり、それが最初に鬱になったきっかけだった。3月初旬のある日、生理痛に耐えられず薬を飲んだら、うっかりボルタレンだった。母が術後にもらった薬で、生理痛で使う鎮痛剤ではない。あまりに強過ぎた。翌朝、仕事に行こうとしたら歩けなくなり、ろれつが廻らず、あごが弱って食べられなくなった。うつ病で同じ状態になったことはあるので、この時のトリガーは薬だと思う。それまでの精神状態は「中」程度の鬱だった。

そして翌日から動けなくなり、しばらく家に籠もって休まざるをえない。当時は一人暮らしで、わずかな友人の助けは得ていたけれど、一人の時はトイレに行くにも家の中で這って移動していた。寝てばかりいることもできず暇なので、数日前のホームパーティーの飾りの残りで、切り紙をして遊んでいた。その時から、突然わたしは子どもみたいになった。ボルタレンショックの2-3日後。

自我の消滅に恐怖する

実家の母に送るメールは絵の記号(スタンプ)ばかりが並び、文字は全くない暗号状態(わたしなりの意味は、ちゃんとある)。壁にはベタベタと紙類や写真を貼り、そこにも意味づけをした。嫌いだとか許せない人を思い出し、なぜか1人ずつ許してあげた。枯れそうなパキラの鉢植えに自分のフリースを着せ、ぬいぐるみを近くにおいて励ました。ありったけのアクセサリーもつけてやった。

大人の自分は行動をコントロールできないが、意識の外側(のようなイメージ)で、子どもがやることを全部わかっている。「あーあ、そんなことしちゃって、ちゃんとご飯くらい食べようね」「そろそろ風呂はいろうよ」、とか思っている。つまり頭あるいは体の中に、2人同時に存在している。自分を外側から見る幽体離脱的な視点ではなく、自分自身の内側に2人いる

「対象と同一化したままでは、狂人となってしまう」「自我の消滅に恐怖する」「他者と近すぎず遠すぎない、適当な距離にとどまれない」

「南方熊楠の見た夢 パサージュに立つ者」唐澤太輔 著、勉誠出版

「南方熊楠の見た夢」で、著者は何度もこのように熊楠を表現している。わたしはまさに、こうなっていたと思う。対象と同一化、というのがちょっと変形的だけど、「子どもの自分が分離して他者のように現れ、本体が乗っ取られた」というのが近い。大人としての自我はあるけれど、支配されてしまって思うようにならない。いつか今までの自分は消えるのだろうか、もう元には戻れないかもしれないという恐怖はあった。

当時、「子ども」人格が自分であると確信があったわけではない。かといってテレビで見たことがある多重人格者のように、全く別人の設定でもなかった。それにしても、狂人だ。何度も家に来て、助けてくれていた友人との関係もおかしくなった。

インナーチャイルドだった

数年後、インナーチャイルドのことを知って納得した。
あの時のわたしは、顕在意識と潜在意識の世界が逆転していた。起きている時は第2人格(インナーチャイルド)優位で、寝ているときが第1人格つまり通常の自分。大人の判断で何かしないといけない時は、子どもを寝かしつけ(潜在意識と体は寝ている)、顕在意識が優勢になったところで(ややこしいけど、とにかく逆!)夢遊病のように無理やり動いて食事や家事などをしていた。これを大人のわたしは「意識的」にやるようになっていた。

そもそも不眠の症状がひどかったため、努力の末に子どもだけを寝かせることができるようになった(たぶん催眠術のようなもの)。子どもは、ほっといたら何も食べないので、6Pチーズ1個だけの日もある。ろくに歩けないのに、寝た体を動かしたら変な負荷がかかって酷い筋肉痛になった。熊楠も夢遊病を体験しており、幽体離脱もしている。

当時の記録を、この夢遊病状態の時に書いたことがある。寝かせたはずの子どもが出てきて、絵とか簡単な字を描いたりもした。字を見ても3歳〜5歳児くらいだったと思う(字も変わる)。こういうのをしばらく保管していたが、見ても辛いだけだから1年後くらいに捨てた。

だけど、深い海の底に沈んで鎖に繋がれているわたしを、兄が助けに来てくれるイメージを絵に描いたことは覚えている。牛飼い(酪農)の家で育ち、両親は常に仕事で忙しいので、小さい頃は兄といつも一緒だった。歩いていける一番近い家も1Kmくらい先。自宅のある牧場と広い敷地がすべて、わたしたちの遊び場。通路の両側に牛がずらりと並んだ牛舎と、わらや牧草が積まれたところ、牧草地、そして山。そんな子どもの記憶が、兄に助けを求めたのかもしれない。実際は兄に何も相談していないし、こんな事件があったことすら兄は知らない。

基本的に、当時の子(わたし)は楽しくひたすら遊んでいて、怒ったり泣いたりはしなかった。発明したり、工作してキャッキャしていた。お風呂に入れば湯船で人間洗濯機になる。自分は天才!と常に思う、圧倒的な楽天主義(すばらしいよね・・・)。その人間洗濯機で、部屋にかかった布類をカーテンから何から全部ひっぺがし、狂ったように洗った。全自動洗濯機あるのに笑

そのうち、一人暮らしの一軒家は魔界と化した。玄関は魔術的に装飾し、人形やぬいぐるみが総出のお迎え。しかもテーブルに花なども異様にアバンギャルドな感じで飾った。紫とピンクと黒みたいな世界。そんなことの全てに理由はちゃんとあるけれど忘れてしまった。魔除けだったような? 
見舞いに来てくれた時、玄関を見てすぐに帰らなかった友人を尊敬する。

子どものすることには全て本人にとっては意味がある。「子どもみたいに自由奔放に表現できるアーティストは、子ども部分の出し方を自由自在にできているんだ!」と、大人の自分は思った。天才と紙一重でもあり、ボーダーが曖昧だが、狂人と言われる人はバランスが取れず偏りがあるのかもしれない。そこらへん大人のわたしは冷静に観察し、発見して楽しんでもいた。大学時代は心理学専攻も候補に入っていて(実際は人間科学に進んだけれど)、いくつか授業も取っていたので「自分が患者の側になってみて分かることもあるもんな」と思った。

2週間くらい経って足が動くようになり、子ども出現率が多少減ってきた頃、バスや電車を乗り継いで遠路はるばる実家に帰った。わたしは8割がた子どもで、両親はびっくりしていた。絵文字だけの怪メールではなく文章は送れていたが、30近い娘の中身がいきなり3歳児、よくて5歳。しかも状態がコロコロ変わる。足はまだ弱く、ちょっと疲れると歩けなくなるし、料理も椅子に座ってやっていた。          

1週間ほどで京都に帰り、発症後3週間くらいで日常に戻っていった。さらに1ヶ月ほど休んで、友人の紹介で働き始めた。

事故で死にかけ、自分に向き合う

それから1年半後。家族の問題で、極度のストレスを抱えた暮らしがやっと日常に戻る直前、仕事帰りに交通事故にあう。昏睡状態で、事故前後の記憶は5−6時間喪失したまま。それでも10日間ほどで退院できた。処置は額の裂傷を5針縫われ、その抜糸。頭も体も、そこらじゅう痛かった。退院後も理解不能なほど身体は重症で、事故当時の状況を知り、診断名を調べるほどに、死んでもおかしくなかったと分かる。脳挫傷・急性硬膜下血腫・後部頭蓋骨骨折。もちろんそれ以外の(診断すらしてもらえなかった)打撲も捻挫も山ほどあった。傷病手当をもらいながら休職していたけれど、退院当時に言われた「全治1ヶ月」は、大嘘だった。別の大学病院でセカンドオピニオンをもらい、後遺症が出る可能性は低いと言ってもらえた(脳挫傷は、あと少しずれていたら言語野がやられていたらしい)。もろもろのショックで鬱が再発し、事故の4ヶ月後に「集中治療」を宣言して、兄のいる石垣島へ行った。

1ヶ月だけのつもりだったけど、結局そのまま住むことにした。今度こそ逃げずに、自分と向き合わざるを得ない状況に追い込んだ。両親、特に共依存のあった母とは、距離を置きたくて離れた(兄とも一緒には住んでいない)。事故も試練であり乗り越えるべき課題なのだと覚悟して、様々な人たちの助けを借りながら、身体も精神も自分自身を徹底的に治療した。西洋医学には、ほぼお世話になっていない。紹介してもらった鍼灸治療院に通いながら1年くらいかけて断薬して、認知療法も勉強して、うつ病を治した。キネシオロジー歯医者にも行った(この頃、あごが外れまくっていた話は投稿済みです)。1年半の療養後、ようやくバイトを始めた。

石垣島には環境そのものに癒しの力があった上、さまざまなヒーラーがいた。偶然出会ったり、紹介されたり、自分で見つけたりして色んな体験をした。本を読んで、自分で取り組むワークもやってみた。もちろん、辛くて泣きわめくことも何度もあった。

ここでようやく出てくるのだけど・・・その頃、インナーチャイルドと対話するセラピーを受け、子どもの自分の訴えをひたすら聞いた。あらゆる抑圧に苦しんでいて、結局は全て自分自身による抑圧だった。それはもう恐ろしいほどに。自分にかけた「呪い」に近い。それは最終的に自分にしか解けないと、わたしは思った(人の助けは借りられるけれど)。

インナーチャイルドは喚き散らし、怒り、泣き、わたし自身(大人)に対してたくさん暴言も吐いた。「おまえがそんなだから、こっちは困るんだよ!思ってること言えよ!人の顔色ばっかり伺いやがって、バーカバーカ」etc。もう、本当に申し訳なくて平謝り。

そこまで苦しいから、チャイルドが出てきたんだろう。最初の時は、いきなり出たまま引っ込んでくれなくなったけど、出してあげることが必要だった。そのきっかけが紙を使った手遊びだったのだと思う(集中して潜在意識状態になったためにスイッチが切り替わった)。

もう一つはここ数年で数秘術を学んで知ったこと。自分が数秘「3」の性質を持ち、それは「子どもの天真爛漫さ」で表現される。押さえつけたら、ものすごく病むのだろう。今はよくわかる。

人体の不思議展∞宇宙の大不思議

これは壮大な、自分自身を使った人体実験のようだった。医者と看護師と患者を1人で全部やってるよ(ブラックジャックみたいな天才だな!)と、狂人真っ最中の自分は布団の中で思っていた。遠方だろうが遠慮せず家族に面倒を見てもらえばよかったのに、当時は人に頼れない性質が強く、そんなこと全く考えもしなかった。入院しなかったのは正解、薬漬けになって The End。

南方熊楠も不思議な体験をたくさんしている。そんなことは全く知らずに熊楠を好きになったけど(神社合祀反対運動のことなどで)、惹かれるわけだと納得した。

不思議なことの全てを知り尽くさなくてもいいと思うし、知ってみたいとも思う。そんな人間の傲慢さや苦悩や矛盾した感情すら、宇宙の大不思議にすべて包含されている∞ 

終わりは始まり!いい夢を。

*インナーチャイルドについては、こちらにも書いています。自覚はしていたものの、きちんと向き合いきれず奥底に残っていた悲しみ。40年ほどの沈黙をようやく破って解放されたのが、実は今年の春。事故のトラウマが完全に消えたのも同じ頃。本当に「終わった」から、公開できると思ったのかもしれません。


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