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投票率と選挙候補者の相関性:2024年都知事選の「市民性」

2024年、都知事選がはじまり小池百合子氏が8年連続をさらに続けるのか
または他の候補者が出てくるのか
本命でいえば、現職の続投であることは明白なのだけど、それもある意味悪夢の続きであることは否定はできないわけで……

自分たちがよいと思う状態に何ひとつなっていないのに、それを選び続けるという愚行はまるで負けこんでいるギャンブラーのようで目をあてられないのです。
これではダメだとわかっているのに、何かを変えようとしない。
次は大丈夫かもしれない、いや、次なら……、そのまた次……
まるでどこかのギャンブル漫画の主人公が落ちぶれている姿に酷似しているのです。漫画と異なっている点は漫画ならば救いがあり、這い上がる、一発逆転というものがあるかもしれません。しかし、現実ではそれを期待できないというところが救えないのです

では、この世界を社会を変えていこうということで声を高らかにあげて言われるのは、「若者もみんな選挙にいこう」選挙に行けば変わる。投票率が変われば変わるはず。
これを言われてきましたが、過去の都知事選を例に見て考えてみましょう。

都知事選の候補者とその投票率に相関性は?そして、その相関とよい社会というものにつながっていくのかというとデータをみても言えないことは明らかです。

投票率が上がれば民意の総意でより良い人が選ばれるはずである。
候補者が多数であれば選択肢が増えるためにより良い人を選ぶ競争が生まれより良い人が選ばれるはずである。

どちらも虚しく空を切り、その両方にも相関を示すものではないというのはデータをみれば明らかです。


より良い代表の存在とはどのように定義をすればいいのか
それは多数決において人気が取れる人間ではなく、どんな人間にもこの人なら任せてみよう、この人が引っ張ってくれるならと何か期待をさせてくれる人、力が湧いてくるような人が代表になるべきではないかと『僕』は考えています。
政治、仕組みとはどんなに小数であっても掬い上げて補助をする。
結果の平等ではなく、機械の均等を環境として整える在り方がふさわしいのではないかと考えるのです。

そういう人間の母数を上げるということは、国にいる人間が国民から市民になる必要があり、それを監視できるような状態またはよりよい成熟と豊かさを追えることがよいのではないかと考えるのです。

それがいまの社会にはないと『僕』は思っています。
では、その社会が悪かといいますと、それができない社会であり人間の集団ではこのような理想・思想もまた無意味なのです。

明日のパンですら、いえいまの飢えを満たすためのパンにすら困っている人間がそういうことを考えられるわけではありません。
そして、あからさまに飢えている人間の前でパンはおろか、御馳走をあからさまに見せつけるように食べていたとしたらその嫉妬の狂いは暴力や狂乱になり何か行動を起こしたとしても不思議ではありません。
また、そのような立場ではなく満たされたものが娯楽としての暴力などを発動する場合もあるのです。
つまりはこの理由はどうあれこれらを最小限にできるならば排除できる社会というものが望まれるのではないでしょうか。

そのとき、自分たちが「こうありたい」という思想や想いができ、それを体現しようとする人間に託せるような社会であり、国であってほしいと願う次第です

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