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【エッセイ】 カルテ −表現における両性具有性について− 有門萌子

こんにちは。詩誌La Vague(ラ・ヴァーグ)です。
今回から何週間かにわたって、メンバーの詩作にまつわるエッセイをお届けします。第三弾は有門萌子さんです。

もっと気軽ななにかを書く予定だったのに、先日たまたま手にとった本に、茨木のり子と吉原幸子の対談が収録されており、その中のある箇所がどうしても頭から離れず副題のようなテーマを掲げてしまった。

あらかじめ述べさせてもらうと、気がかりの種というかこの身に常駐先を決めてしまった病のような問いは「表現とはなんなのか」ということである。日常生活のなかでお皿を洗っているときや歯磨きをしているとき、ふとこの問いが鎌首をもたげてなんとも言えない視線を寄越す。ほら、これを書いている今もこっちをみている。


”表現者はみんな両性具有的”

きっかけとなった対談は文藝別冊のKAWADE夢ムック『茨木のり子 没後10年「言の葉」のちから』に収録されていた。

吉原幸子が晩年の茨木のり子の自宅へ訪問し対談したものである。サブタイトルは「傷こそが真珠の核」となっている。

吉原 茨木さんはどちらなんですか? 詩の中で言う男性的要素、女性的要素って言うこととは別に、夫を含めすべての他者との関係で。やっぱり神経細かい方でいらっしゃるのかな。
茨木 細かいでしょうねえ。でももう、女とか男とかってあんまり興味ないの。私は自分ではやっぱり、両性具有みたいな感じがしますね。あんまり好きな言葉じゃないけど。
吉原 それは私にもありますけれども。
茨木 の筈ですよ。いつも思うんだけれど、表現をしようとする人は自然に両性具有的になると思う。女の人はちょっと男性的なところが出てきちゃうし、男の場合はやっぱりちょっと女を含む、それがほのかな艶(えん)につながるのだし……変幻自在でなくちゃ。音楽家や画家をみてても、そう感じることありますねえ。

『茨木のり子 没後10年「言の葉」のちから』より抜粋
文藝別冊のKAWADE夢ムック
(河出書房新社)

ほかにも紹介したい箇所がたくさんある面白い対談だったのだけれど、そのどれをも差し置いて、この引用箇所の茨木のり子の発言部分“表現をしようとする人は自然に両性具有的になると思う”と言う箇所を読んで以来、なにか得体のしれないものに罹患してしまった。発熱こそしていないものの体のどこか、精神のどこかに主張をはじめた異物感。一度その違和を感じてしまうと平気なふりをしていても目にみえないわだかまりを意識してしまう。

表現者として第一線を走ってきた詩人の後期の言葉であるだけに重みがあり、原因不明に加えてどんな薬が効くのかもわからないまま現在に至る。ちなみにこの対談はもともと現代詩誌「ラ・メール」十四号(1986年9月)に掲載されていたものだった。

なにがそんなに引っかかったのだろう。
いったい表現者は両性具有的なのか。

制作者つまり表現者が人間である以上、この世に誕生した瞬間の肉体的には男女どちらかの身体を備えていることを一応の基盤として考えてみると、片方の性から出発しているものがもう片方の性の質を得る(ことがある)という理解もひとつできる。

性別を超えた表現者というのはいつの時代にもいたように思われるけれども、ネット社会の加速化にともない性別の公表を控えたりアンドロジナスであることを公言しているアーティストの数も増えてきたように感じる。さらに内面的な性自認の多様性も表立ってきた昨今において、一部の表現者が両性性を獲得しているようにも見える。
表現をしようとする人間が両性的なのかどうかということももちろん興味深いテーマだが、ここでまず問題にしたいのは生み出された制作物から漂ってくる男性性あるいは女性性あるいは両性性、つまり表現そのものの両性性についてである。

表現という特質上「表現されたモノ」が「表現した者」の存在をうわまわるということは往々にしてあるだろうし、むしろそのような作品・制作物が数多く後世に継がれてきているのではないだろうか。その場合、表現者が持つ肉体の性・精神の性よりも表現または芸術そのものが両性性を含んでいるがために、芸術の媒体である表現者が結果として両性性を備えることになるのではということを考えてみたい。

表現の過程で獲得されるもの

芸術というものの両性性

さきに表現または芸術そのものが両性性を含んでいると書いたが、そうなのだろうか。多岐に渡る芸術分野の一部として「絵画」「文芸」「音楽」などが挙げられるが、確かにそれぞれの最小単位のところでは性差はないように思われる。それぞれみていきたい。

例えば「絵画」なら色や線そのものには雌雄の区別はない。それでも明るい色・暗い色・力強い線・やわらかい線などの違いはあるため、それらを効果的に組み合わせて構成されたイメージには男性性・女性性の連想を引き起こされることもあるだろう。けれどもやはり単色・ひとつの線・ひとつの筆触の部分だけを切り取れば男性も女性も無い。

「文芸」つまり「言葉」はどうだろう。同じようにひらがなひとつ、またはアルファベットをひとつ取ってみてもそこに雌雄は無い。しかしそれらの単体文字がひとたび連なり意味を獲得してしまえば、たちまち人間社会的に付加された判断の範疇にその身を収めてしまう。女性名詞と男性名詞の区別があり単語によって冠詞が変わる言葉を持つフランス語などにもそれは顕著である。

(ちなみに、われらがLa Vague(ラ・ヴァーグ)はVagueが波という女性名詞のため冠詞はLa(ラ)をつける。男性名詞ならLe(ル)。複数形だとLes(レ)をつける。おびただしい数の名詞それぞれが女性名詞なのか男性名詞なのかを見分ける方があるのかと思いきや「覚えるしかないよ!」とフランス語の先生より。)

イギリスの批評家ウォルター・ペイターをして「すべての芸術は音楽に向かって高まる」と言わしめた「音楽」はどうだろう。やはり音符そのもの、メロディそれ自体に雌雄は無い。

ここで両性性をとりあげるにあたって雌雄という区別を用いているのは、自然界で生殖し繁殖するための性差の部分を強調したかったからである。ここでみてきたとおり、芸術の最小単位の部分では性差のない無性状態のように思われるのにそれが表現され形作られた時にどこからか性差が立ち現れ、男性的・女性的・両性具有的だと見て・読んで・感じてしまうというところに人間と芸術の深淵な絆なのか溝なのか、ただごとではない関係性を感じる。また、そうであればこそ芸術において孕むことができるのは「意味」だけなのではないかとも思う。

そして人間が芸術を得るにあたり、大きな手がかりとなるものにもまた雌雄の区別がない。

「芸術は不安の抑制になる」といったのはウィリアム・モリスだが(『民衆の藝術』中橋一夫・訳/岩波文庫)、まさしく不安にも性はない。不安のほかにも悲しみ・喜び・怒りに代表される「感情」そのものもまた両性性を備えたものである。

雌雄のない「絵画」「文芸」「音楽」などの芸術と、肉体的に雌雄の区別のある人間との狭間にある「感情」。
この図を考えるとき「感情」に雌雄はないといっておきながら芸術と人間のあいだで「感情」が引き裂かれているように思われるのはやはり私が肉体をもった人間だからなのだろうか。

自然のなかの芸術

そもそも芸術とは、自然のなかに元々あるものを人が抽出したものではなかったか。当然、大自然には有性のものもあれば無性のものもある。花や生き物には雌雄があり、光や水や風には無い。ここでは便宜上、無い、と言い切ってしまうけれどもしかしたらまだ知らないだけかもしれない。

雌雄も無性も混合の大自然に人間が手を伸ばしてきた歴史がある。それは芸術や科学技術の変遷のことでもある。それは性というかたちをもって生まれてきた存在が、その位置から自然という大いなるもの・無性も有性も含めたものに手を伸ばす行為のことだった。人間の手によって芸術として象られた時点で、元・自然は性(男性性・女性性・両性性)の気配をまとってしまうのではないか。

「芸術の使命は自然を模写することではない、自然を表現することだ。君はいやしい筆耕ではない、詩人なんだ。」

バルザック『知られざる傑作』
水野亮・訳
(岩波文庫)

この発言をしたのは小説『知られざる傑作』のなかの老画家フレンホーフェルであり、画家に向けての言葉である。なるほど芸術の使命は自然を表現することなのかと思ったところで、人間に表現されてしまったが最後、それはもはや自然そのものではないともいえる。

しかし人間は、そうして得られた(自然を表現した)芸術作品のなかに確かに人智を超えたものを発見したり、一種の"感じ"を得ることができるという成功体験も積み重ねてきた。そうでなくしてどうしてこれほどまでに多くの芸術作品が今に至るまで遺されているだろう。

だからこそ手を伸ばす行為をやめられない。
いったい表現者たちが追い求めているものはなんなのか。

両性を超えていけるか

アンドロギュノス、ヘルマフロディトス、セラフィタ/セラフィトゥス、オーランドー、両性神バフォメット等、男女の性差を超えたもの、両性具有的なものは完全形態として天上に通ずるものと認知されることも多かった。その天上とはつまり人智を超えた大自然のことでもあった。
性を超えたところ、人間を超えたところ、言い換えれば両性性または無性を獲得したところに現出するものに人は芸術を感じるのではないだろうか。古今東西の表現者たちが求めた芸術の結実と、表現物における両性性の獲得は決して無縁ではないように思われる。

芸術と表現の境目

ここでまたまた発作的な症状がいち表現者としての私に発生する。表現するからには芸術を目指したいという深層心理が働いてか、冒頭から表現または芸術と表記してきたけれど、どうだろう。ここにきて決して並列できるものではないように感じる。
表現はそのまま芸術になるのかならないのか。両者の違いとは何か。さまざまな論が予想される問いだけれど、ここでは表現のなかでも極めて純度の高いものを指して芸術と位置づけたい。といいながらも「純度の高い表現ってなんだ」と私のなかの病原菌が圧をかけてくる。あるのだ、表現のなかでも純度の高低が。

しかし私はひとつの効薬を手に入れた。それはこれまで見てきた”両性性の獲得もしくは超越”が表現の純度を高めるのに与している可能性である。

ここでふと、悪魔の甘美なささやきが脳裏をかすめる。”両性性の獲得もしくは超越”は芸術に近づいていることへのひとつの目印になり得るか。芸術に至る過程において表現者は付属的に両性性を獲得しているといえるのであれば、逆の道は辿れないのか。すなわち、表現者が"両生性を獲得もしくは超越"する過程において芸術を得ることはできないのか。書いておきながらこの問いは本末転倒であり、安易な答えを出そうものなら芸術そのものがすばやく姿を隠してしまうだろうことだけはなんとなく感じとれる。

話を戻すと、芸術か否かの基準は曖昧である。なにかの表現物を「これが芸術だ」と提示されて「まさしくそうだ」と感じるかどうかは個人による。また、他人には伝わらなくても自分が「これはすごい芸術だ」と思うこともある。さらにややこしいことには、境目の判断は個人によるのだけれども、万人に芸術性を感受させる表現物が存在することも事実である。

人が何に対して芸術を感じるのかということについて”両性性の獲得もしくは超越”の可能性を挙げた。ここではひとつの基準として”超越”と称したい。それでは”超越”とは具体的にどのような状態を示すのだろうか。

表現物における”超越”

芸術のあるところに”超越”ありと仮定して表現物と表現者に分類してみてみたい。というのも、人間が創りだす芸術の発生段階を考えると、まず表現者に何かしらの作用があり、行動を経て表現物があらわれ、人々の目に晒されるというステップがあるからだ。例えばゴッホの「星月夜」を例に挙げてみると、ゴッホがフランスのオーヴェル=シュル=オワーズにてカンヴァスに向かった時間があり、一枚の絵画が出来上がり、時を経て私たちの目の前に現れるという段階を経ている。

この場合、現在の我々が目にすることのできる完成された絵画「星月夜」に”超越”を感じるだろうか。
言い換えるとこの表現物は”両性性の獲得もしくは超越”を成しているのだろうか。私にとってはその答えがYESのため例に挙げているのだけれど、その根拠についてはまだ漠然としか答えられない。

芸術鑑賞のみに視点をあてると表現物が”超越”しているものなのか否かが論点だが、表現者が制作の段階で”両性性の獲得もしくは超越”を成しているのかというのがいっそう気になるところである。フィンセント・ファン・ゴッホ本人の制作段階の感覚を尋ねたいところではあるが既に故人であり、またそれにかこつけた私の研究不足も白状しなければならない。

表現者の制作段階における”超越”

それでも表現者の制作段階における”超越”の例はどこかにないだろうかと探してみて、『トニオ・クレーゲル』に行き当たった。トオマス・マンの青春の記念碑でもあり自画像でもある本書は「芸術vs実人生」「芸術家vs俗人」という問題が提起されている。主人公トニオは文学の芸術的才能に恵まれながらも芸術的なものを必要としない世間の人々にも憧れを抱き苦悩する。
以下にトニオが画家である女友達リザベタに、”真正の率直な芸術家”について話した部分を抜粋する。

感情というものは、暖かな誠実な感情は、いつも陳腐で役に立たないもので、芸術的なのはただ、われわれの損なわれた、われわれの技術的な神経組織が感じる焦躁と、冷たい忘我だけなのです。われわれは超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ、その人間的なことを演じてもてあそんだり、効果をもって趣味をもって表現したりすることはできもしないし、またてんからそんなことをしてみる気にさえもならないわけです。文体や形式や表現なんぞの天分というものがすでに、人間的なことに対するこの冷やかな贅沢な関係を、いや、ある人間的な貧しさと寂寥とを前提としています。何しろ健全な強壮な感情というものは、何といっても無趣味なものですからね。芸術家は人間になったら、そして感じ始めたら、たちまちもうおしまいだ。

トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』より抜粋
実吉捷郎・訳(岩波文庫)

抜粋部分だけではやや偏りの気が感じられるものの、本文中のわれわれ(つまり芸術家)は”超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ”表現したりすることはできない、と述べられている箇所に注目したい。
人間的な部分を”超越”することが表現ひいては芸術につながる。これまで言及していた”両性性の獲得もしくは超越”も”超人間的でまた非人間的なところ”に含まれることと思う。小説のなかの人物の発言だけれども、作家トオマス・マンの自伝的性質を踏まえれば実作者の実感を伴った言葉だと受け取ってもいいだろうか。

また、ヴァージニア・ウルフの幻想伝奇小説『オーランドー』に"両性性の獲得もしくは超越"により芸術を得たエピソードが記されている。主人公オーランドーは少年時代からあたためていた詩の草稿を(400年の時を経つつ)30歳で性転換し女性になって結婚したのちに詩集『樫の木』を完成させ賞賛を得た。男性の時代にたびたび詩作にとりかかるも完成したのは女性になってから、つまり両性を経てからというところに芸術作品の出現における"超越"の必然性を感じる。『オーランドー』の姉妹本といわれる『自分だけの部屋』の中でウルフは「偉大なる精神は両性具備である」というコールリッジの言もひきながら両性具備の精神について分析していることにも注目したい。

今回は取り上げることはできていないけれど、歌や舞踏などは芸術性の発生段階にタイムラグが少ない分野だといえる。聴衆が芸術を感じているとき、表現者には何が起こっているのか興味の引かれるところである。さらにはもっとつぶさに、たとえば詩という分野に限定して、どのような部分に両性具有的あるいは超越的なものを感じるのか、また表現者はどのように作品の完成を迎えるのかといった点も今後の研究課題として挙げておきたい。

詩とバイオリンとあの感覚

表現物と表現者における"超越"を表現の純度を高めるひとつの可能性としてみてみたけれど、なんだか偉大なる故人の発言ばかり引用してしまったこともあり、いまいち実感を掴めていないのが正直なところでもある。

冒頭の茨木のり子の言葉が「表現をしようとする人は」で始まっていたので思わずわがごとのように胸に響くものがあったのだけれど、こうしていま考えてみるともしかするとそれは巨匠における話のことで、にわかものの私とはなんら関係のない話だったのかもしれない。それでも持ち前の勘違いスキルを発動して響いた胸の底に問えば「とある感覚」とのつながりがうっすら感じられた気がするので、個人的な一例で心許ないけれども、生身のいち表現者として経過報告を兼ねて恥をしのんで付記しておきたい。

「表現をしようとする人は」の言葉にどこかピンとかポンとかハッとかムッとかするところがある場合、なんとなくわかってもらえる「あの感覚」なのではないかとも思う。

それは私の場合、三十歳になってからはじめた詩とバイオリンを通じて顕著に現れた。
この二つをはじめるきっかけはいろいろあったのだけれど、実際にやってみてその共通項の多さに驚かされた。どちらも初心者からはじまった詩作とバイオリンは「文芸」と「音楽」なのでジャンルも体と頭の使い方も全く違った。
現在一年半ほど経ったところでその道を極めるにはまるで至っていないのだが、取り組んでみてその二つのあいだに大きな共通項を体感することができた。それは”これだ!という感覚"を求めるということである。

楽器の女王とも呼ばれるバイオリンはいい音を出すのがとてつもなく難しい。四本ある弦のどの部分を抑えれば望む音が出るのかもわからないうえに、ギターのようにフレットがあればいいのにつるっとした指板には目印もない。バイオリンの弦の上では音がグラデーションになっていて、初心者の私が出せたのは音楽になる前の剥き出しの音(雑音)ばかりだった。
それでもなんとか求める音が出るポイントを探し、練習を重ね、たまにうまく弾けると文字通り骨が震えた。それは言葉では言いあらわせない衝撃的な感覚だった。この"これだ!という感覚"を得られた演奏の時には先生の笑顔と共に合格シールがもらえるので、ますますこの感覚を求めて弓を構えている。

詩作でもそれはごくたまにあった。日々の生活のなかで、頭の中あるいは白紙の上でみつけられる”これだ!という感覚"。一瞬で全身に貫かれる閃光のようなひらめき。どうしてもそれを追わずにはいられなくなるような抗えない魅力をもったもの。捉えようとした端から消えていくその感じをうまく言葉で表現できたりできなかったりをくり返している。
詩作の場合はいまのところ、自分なりに考えてうまく形に落とせたと思ったものは出来がイマイチで、考えはじめるまでもなく完成してしまったもののほうが出来が良いことのほうが多い気がする。特に先生から合格シールがもらえたりはしない分野だけれど、あの感覚が表現のひとつの道標になっているところは同じである。

あの感覚、の只中にいるときは、ただ自然界におけるいち動物としてだけ存在しているような気がする。その瞬間が過ぎ去り、はっと気がつくとその感覚はすっかり消え失せ、たしかに何かがあったような名残だけが残っている。
あの感覚、があるところ、そこは女であるとか男であるとかを超えて自然ひいては宇宙の一部であることを感じられる場所だった。あの感覚を味わいたくてバイオリンを弾いたり詩を書こうとしているところがある。

おそらくこの”これだ!という感覚"は、表現の入り口のところで多くの人が味わえるものなのかもしれない。いわゆる創造の喜びのひとつだと思うのだが、プロであれアマチュアであれ表現者としてこの”これだ!という感覚"、”自分ではないどこかからくる不思議な感じ"を体験したことがある人も少なくないのではないだろうか。「表現をしようとする人」は、とくに。

あ、ここまでつらつらと書いてきて、またしても病状が悪化した。

"これだ!という感覚"はたしかに"超越"に通じているものかもしれない。表現者としてそれに触れることができるのはよろこびだ。しかし表現者として”超越”らしきものを運よく垣間見ることができたとしても、それを表現物に落とし込めるかどうか、はまた別のことでありそこに芸術か否かの境目があるのではないか……と、ようやく快方に向かってきたかに思われた例の病がまた猛威をふるいはじめたのであわてて筆を擱いて床につこうと思う。”芸術なんかでなくたって表現できるならまーそれでええやん”と大きな文字で書かれた布団である。……たしかこの前までは"高みへ"とかなんとか書いてあったはずなのにおかしいな……。
ああ、布団の中で目を閉じるとなにかが足早に去っていく音が聞こえる。あれは芸術か、それとも表現の息の根をとめようと目論む死神か。いずれにせよここには病に侵された身しか残らない。

読者のみなさまには大変申し訳ないけれども、なんだか全部が気のせいだったような感じがしている。身のうちの表現菌が活動を始めてしまったひとりの人間の病床のたわ言だったかもしれない。おそらく悪化する一方だろうがもう寝ることにする。幸か不幸か、完治の見込みはない。


参考図書は以下にまとめています。

※有門萌子さんが詩「両性哀類」を寄稿された詩誌La Vague vol.0はこちらで購入できます。


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