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記憶を辿る60

『 丁稚奉公 』

父は山城を手伝う前、大阪の繊維問屋で丁稚奉公をしていたそうだ。
小さい頃から、ことあるごとに話を聞いていた私は、何をするにも修行は必要だと考える癖がついてしまっており、ラーメン屋を志した時には製麺所からでなければいけない、和食の道に行くなら皿洗いからしなければいけないという根性が骨の髄まで染み渡っていた。
そんな時に投げかけられた元芸妓の言葉には目が覚めた。

「何してんのってクレープ肌着作ってるんやん」
「なにそれ? サカエのクレープとはまた違うのん?」

当時は寺町六角と新京極の間にダイエー系列の”サカエ”というスーパーがあり、近所の連中は皆ここで買い物をしている場所だった。その店の京極側には食べるクレープ屋さんがあり、これがまた人気だったのだ。
この元芸妓は、それとわざと間違えることでお猪口ってきたのである。

補足すると、彼女は天涯孤独で生まれ育ち、その世界に入った理由も貪欲に”生きる”を突き詰めた人だったから、悪ぶる余裕を持ったボンボン風情の私を強烈に卑下していたのだと思う。
手数の少ないハードパンチャーだった。

“隣の芝は青く見える”という言葉は秀逸だと思う。
彼女のような境遇から見ると、周りにいる大凡の人が至れり尽くせり状態に映っていただろう。そして皆が羨む友人の資産家はこう言う。

「お金なんて使えてなんぼやし」

現金を掴んだとしても家柄は買えず、買えたとしても宮家や世界の王家には繋がらず。こういう心の状況に終わりはない。目の前の状況に最善を尽くしているという思い込む事で安心感を得ている側面も否めない。綺麗事で済まされない人間の性、煩悩は果てしなく続いていく。

小さい頃からしていた電話番や、玄関前に堆く積まれたクレープ生地、ガチャコンガチャコンと裁断台が聞こえる家の2階。これらは家業の一片でしかなく、自分の置いていたプライドの場所を燻られた私は、家のことを何も知らないことにも気づいていく。
同時期の友人達は、どんどんと自身のやり甲斐を見つけてく中、先輩からは”俺やったらこうするけど?””こうしたら?”という様々な意見を聞き、何かの答えを出そうと必死だった。
当時は少なかったセレクトショップを開業しようかと目論んだり、モテない男子に彼女ができるようなサービス(服屋やデート先の飲食からもマージンを貰うw)を始めようとしたり、NYで見たスープ屋を始めようとしたり、母の実家の家業だったクリーニング業を手伝い、これからは高齢者に向けた宅配サービスにするんだと勝手に意気込んだり。
これら全て空想の世界で終わった話ばかりで、思い出すとキリがないが、夢の世界では食べることは出来ないから飲食業の皿洗いからウェイター、弁当の配達や携帯電話の営業など色々とやってみた。


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