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[無料] 2024年-第0部

  本記事に興味を持っていただきありがとうございます。限定記事がどのような内容か是非知っていただきたいと思い、お試しで読んでいただけるよう本記事をご用意いたしました。ここでは多くは語らず、早速本編を見ていくことにします。是非お楽しみください!


本編

  2024年-第0部の本記事は、今まで3人が「閉鎖的」に行ってきた議論をまさに凝縮したような内容です。3人での議論がどのような内容で、またその裏側にはどのような気持ち・モチベーションがあるのか。今までの議論の中で育まれた「体系」を知れる!と期待していただいた方。申し訳ございません。「体系」とは真逆の「荒地」状態です。カオスそのもの。この「荒地」には「苦悩」が滲み出ています。

「畑作ってみる?」
「いやいや、家建てた方が良くない?」
「建てるとしても、どうやって?」

本当にこのくらいの感覚だと思ってください。あまりに荒地すぎて何をしましょうって感じです。自由度が高すぎる。しかし、こんな時に頼りになるのは自分たちの根拠のない感覚です。改めて源流に立ち返り、「どんなこと表現したいの?」、「どんな世界観?」、それなら「どんな方針で進めてみる?」。このようなイメージです。まずは、そのイメージを言語化した文章(第1章)を見た上で、より詳細に立ち入った文章を2つ(第2章、第3章)見ていきます。「荒地」は目の前にあるが、自由度が高すぎてとっつきにくい、そこで「一旦方針を立ててみよう。」、これが第1章。そして第2章は、より具体的に踏み入り、「一旦、荒地にこんな場所作ってみる?」の文章です。先に述べておくと、第2章は少し専門的内容に立ち入り、難解な文章です。第3章は、さらに踏み込んで「場所ができたのは良いけど、そこで何する?」に関してです。

「荒地のままでは不便だから何か作ろうよ。」
「何か作るにしても方針決めないと。」
「じゃあ公園作ってみる?」
「公園できたけど何する?サッカー?野球?」

この関係性を念頭に置いて読んでいただけると、より理解しやすく、共感していただけるかと思います。

第1章 生命から始める哲理数学・四則和算 -方針-

ポール・セザンヌ 【カーテン、水差し、そして果物鉢
第1章の「象徴」として。

  物理学や化学、生物学など自然科学の学問構造としてよく語られるのは、哲学や数学が基盤を成し、その上に物理学、化学、生物学といった自然科学が乗っかる形である (この構造は以降の説明がしやすいよう提示しました。もちろん異論も認めます。)。そのため、現代までに成立してきた哲学や数学を基礎に発達してきた自然科学の諸学問は、その基盤の哲学や数学によって、ある種の「ルール」が規定されていると言える。自然科学の実験方法として一般的な対照実験が例として挙げられよう。対照実験とは、2つの実験系を用意し、それらの実験系の間で1つだけ条件を変え実験を行う手法である。仮に、2つの実験系の間で結果に違いが生じた場合に、最初の条件の違いが実験結果の違いの原因である、と推論するのだ。CMで見かけた調味料を普段の料理に加えてみて美味しくなったら、その調味料が美味しくなった原因だ!また買おう!と当然のように推論するであろう (厳密な例ではないが…)。これは哲学や数学の分野と密接な論理学という分野で確立された推論方法で、物事を「間違えることなく」推論できるよう我々人類の祖先が形式化したものである。ちなみに、先ほど挙げたような因果関係による推論方法は、あの有名な哲学者アリストテレスらが生きた古代ギリシアの時代あたりに初めて体系化されたと言われており、行ったこと (ギリシア-東京間はフルマラソン230回分)も会ったこと (アリストテレスらが生きた時代は紀元前4世紀、2170歳と推定されている屋久杉でさえも生まれてない、、)もないような偉人らの叡智が、今を生きる我々の思考に脈々と受け継がれているこの奇跡や感動を共有したい、、。とにかく、このぐらい哲学や数学は、当然すぎて気付かないぐらい、深い深いところに潜り込んでいて、それらが諸学問の基礎を成しており、実は日々の生活の中にさえ漏れ出していることを感じてもらえたかと思う。そして、我々が扱うのは、まさにこの基盤となる哲学や数学の領域であり、どのような態度でそれらと向き合うのか、そこが我々の探究の入り口となる。
  近代西洋科学の上に成り立つ文明社会に生きる我々現代人は、近代科学の礎を築いたと言われる17世紀、またはそれ以降の哲学者や数学者の影響を強く受けている。最も有名な例はデカルトであろう。彼の「我思う、故に我あり」はあまりにも有名であり、その言葉の真髄を無視したままワードのみが独立し浮遊しているほどである。その後、カントらによってその系譜が続くこととなる。ここでは彼らの哲学の詳細な解説は行わないが、彼らによって自然や物質世界といった客体の側と、それを眺める意識や心といった主体の側の境界が明確に引かれた歴史がある。この主と客の境界が明確に引かれることで、今日の「観察」の概念がより顕在化し、そこから観察に基づく近代科学が花開き、文明も発展した。だからこそ、彼らは近代科学、並びに現代の文明国家を、思考の側面から支えた偉人と言われるのだ。しかし、我々は彼らを絶対視し全肯定する態度は取らない。彼らの思考は、心や意識を独立した存在や機能体として定義するため、どこか「無機質」な匂いがするのだ。どこまで科学が発展しようと、「そこ」に我々はいない。そんな違和感が発端となり今週の思考は始まった。
  では、どのようにしてこの問題と向き合うか。今回注目したのは「生命」である。先ほど述べた近代科学に対して我々が感じる無機質な欠乏感、その根源的原因には我々が生命に対して目を背けてきたからではないか、そう考えてみた。冒頭に、哲学や数学が基盤を成して、その上で物理学、化学、そして生物学が発展してきたと述べたが、生命から見直すこの試みは、生物学や生命理論から改めて哲学や数学を捉え直すという、従来のものとは全く逆のアプローチを意味する。または、循環構造とも言えるかもしれない。では、その生命と哲学の接着点はどこになるのだろうか。まさにここで苦しんでいる。そもそも、生命って「在る」の?生命って「何」なの?ここが全くわからない。そこで、ある先人らの思想を参考にしつつ考察を進めてみた。生命をある種のシステムとして理解しようという試みの中で、「オートポイエーシス」という概念が提唱されている。これはチリの学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって作られた造語で、元はギリシャ語のauto (自己)とpoiesis (創出)に由来する。生命とは、自らによって自己と非自己 (=環境)を区別し続け、自己同一性を絶えず生成するシステムである、そう主張した概念であり、さらにヴァレラは認知や意識の領域にこれを応用しようとした。お!と思った。これを最初に目にした時、何かが繋がる感覚があったのだ。それは何かを思考する際に感じていた謎の距離感で、フッサールの「志向性」という概念に近い (同じ?)感覚との連結である。フッサールは、意識の性質として志向性という概念を提唱し、意識が働いている時には「何かに向かっている」と説いた。我々は、これを意識の「何かに向かわざるを得なさ」と解釈している。というより、元々そんなことを疑問に抱いていたのだ。この感覚をフッサールの概念を借りて、改めて「志向性」と呼ぶことにするが、もしかすると、この志向性は、オートポイエーシスという生命システムから導かれる、意識を持った生命にとって不可避の性質なのか?そんな問いが浮かんだのだ。オートポイエーシスと志向性、この間を繋ぐにはより詳細な説明を要するが、まだ言葉にしにくい感覚がある。ただ、「境界」という概念が鍵となることは何となく予想できる。そして「境界」と聞くと、四則和算を知っている人であれば切算が頭に浮かぶのではないか。cutとは、何かに対して切れ目を入れる操作のことであるから、「切れ目」を「境界」と理解すればわかっていただけるか思う。生命のシステム論として導入されたオートポイエーシスという概念は、ヴァレラによって認知科学の領域へと発展したが、その操作を演算子で表現するならば「cut」そのものではないか、そしてそれと同時に志向性という意識の持つ性質が立ち現れてくるのか、そんな手探りの状況である。
  哲学や数学、自然科学を扱う前に我々はあくまで生命であり、身体を持っている。生命である以上、生命としての運命性を引き受ける必要があるのではないか。その足掛かりとなるのが「境界」であり、「cut」ではないか。あああ、、生命って何だろう?この不可思議な現象やシステムを、一体どう理解すればいいのか?そんな入り口から今回は思考を進めてみた。生命って何だろう。。。。。。。


  どうだったでしょうか。あまりに自由度の高い「荒野」・「荒地」を開拓する際の大まかな指針を提示した文章です。近代科学という大洋の底まで潜ってみると、「あれ?無機質に感じる。」、「もっと生命らしくあるべきでは?」、そんな無根拠な感覚を起点として、一旦「生命から考え直してみない?」と提案しているのです。しかし、生命って不思議なもので。そう簡単にはわからない。より詳細な考察が必要になりそうです。そして、もう少し具体的に、「じゃあ、こんな場所作ってみる?」に関して書かれたのが次章です。哲理数学・四則和算は空間的・立体的 (幾何学的)なイメージで語られることが多く、演算や計算を行う「場」として、拡張リーマンモデルが提唱されています。野球をするには荒地のままではやりにくいので、ベースを置いて、線を引いて、平らにして、、、と野球に適した「場」を設計しますよね。それと同じように、哲理数学・四則和算も、その演算・計算に適した「場」を設計する必要があるのです。では、実際にその「場」を設計する際の様子を見ていきましょう。

第2章 新たな「場」の考察・提案 -場-

Bateau-Lavoir

  拡張リーマン球モデルの基礎付けは未だ充分に確立されたものとは言い難く、特に裏リーマン球をいかに考えるかという課題に直面している。そこで、拡張リーマン球モデルとは独立に、数学的に同等と期待する別のモデルとして多重円盤の境界という概念を用いたアイデアを検討している。数学的に同等であるとは、例えば量子力学における行列力学と波動力学の関係が典型例を与えている。すなわち、拡張リーマン球モデルとは別の定式化(表現)を提案することで、われわれが究明している現象を別の角度から考察することが可能になると考えている。
  さらに、ここで提案する新モデル(境界Frontierの頭文字を取って「モデルF」と名付ける)により、4次元以上の高次元切算(High Dimensional Cut Operation )を研究したいと考えている。切算の高次元化は重算の研究に不可欠なものであると構想しており、例えば4次元切算の計算式を展開するとき、『重ねる』動作を行う”場“は4次元(複素2次元)の空間、特に二重円盤で考えるのが自然なのではないだろうか。この場合は、拡張リーマン球モデルで言えば、リーマン球と逆リーマン球を各々の裏リーマン球を含めて重ねている状況に相当する。二重円盤の境界の詳しい内容について興味があれば、適当な参考書を見て頂きたい(例えば、山口博史:複素関数)。

※ここまで読んで、「?」が浮かんだ方が多いかと思います(問題ない方は次に進んでください)。ただ、冒頭からの例になぞらえて言うと、「既にある公園だと野球しにくいかも。一旦、別の公園作ってみる?」という感覚です。後半部分に立て続けに登場する、数学嫌いにはアレルギー症状が出るようなワードに関しては興味のある方のみ深ぼっていただければと思います。一番伝えたいのは、「別の公園を作ろう」と考えた動機について書かれた続きの文章です。

  モデルFのモチベーションを挙げる。主なねらいは、四則和算の幾何的表現である拡張リーマン球モデルの理解に自分たちも苦戦をしており、なんとか別の側面から理解することはできないだろうか?と考えた点にある。特に、裏リーマン球は(実)三次元のように考えられているが、二重円板の境界に(実)三次元の領域が現れて、かつ(実)二次元の領域と和集合で結ばれる形で「共存」する構造になっているので、うまく拡張リーマン球モデルを言い換えることができるのではないか?と考えたが、これだと光吉球をどう考えたらよいか?という疑問は残る。また、反界変換の考察も疑問のまま残されている。ただ、従来は拡張リーマン球モデルを、一変数複素関数をベースに考えられてきたのに対して、今回は二変数複素関数をベースに考えるのはどうか?という新しい視点を投げかけたものと言える。このような試みは今後も折りを見て継続的に取り組んでいきたいと考えている。


  はい。あれ?こっちも意味わからん。ただ、実際のところ議論している3人も「よくわからない」のです。この内容を議論しているとき、ホワイトボードの前で3人全員が首を傾げ沈黙が続く様子がそれを物語っています。少し数学の専門的な内容に立ち入りましたが、実際に3人も手探りの状況です。あまりに手探りの状況だと伝えるのが難しいのですが、これもまた<生の思考>です。できるだけ”リアル”の様子をお伝えしようと思い記述してみました。より詳細な議論が進展し整理でき始めれば、伝えやすくなるかと思います。あの時の文章はこれを伝えたかったのか、といつか思ってもらえるよう精進して参ります。
  そして最後に、より具体例な話に入っていきます。「公園で実際にどんなことする?」といったイメージです。哲理数学・四則和算について話を聞いたことのある方であれば、耳にしたことがあるかもしれません。今回は特に「裏算」、「重算」という演算(行為)に焦点を当て、具体例を交えながら解説や考察をしております。

第3章 哲理数学・四則和算の新たな演算子 -行為-

Pablo Picasso, Self-Portrait

  既存の数学には「足し算」「引き算」「掛け算」「割り算」の4つの演算子が登場する。皆さんも小学校で習い、その4つの演算(行為)をベースに、問題を解いたり、仕事に活かしたりしてこられたかと思う。あまりに小さい頃に教わった内容であるため、「演算」そのものについて考えることも疑うこともほとんどしないはずだ。いや、その必要性に駆られる場面が普通はない。しかし、ここで改めて「演算」や「演算子」とはそもそも何なのか考えてみたい。ある「対象」に対し何かしらの「演算」を行うと、何か「結果」が与えられる。

1 (+ 2) = 3

この式において、「対象」は「1」に、「演算」は「(+2)」に、「結果」は「3」に対応する。「1」という状態に対して、「(+2)」という行為を行うことで「3」という状態に変化している。そのため、「演算」とは「状況を変化させる行為」くらいにイメージしていただけたらと思う (厳密には「+0」「×1」など前後の状況を変化させない演算もある)。目の前に「ボール」がある。そのボールを「蹴る」と「サッカー」になるし、「打つ」と「野球」になる。「空気を抜く」と「ぺちゃんこ」になるし、「刺す」と「破裂」する。このように「演算(行為)」って意外と多様なのだ。
  そして、哲理数学・四則和算には「切算」「動算」「重算」「裏算」の、新たな4つの演算子が追加されている。「追加するなんてやっていいの?」と普通は思うはずだ。しかし、先ほどのボールの例を見ていただければ分かるように、意外と「行為」って多種多様。本来はもっと自由なはずなのに、教科書で習った「+」「−」「×」「÷」のみしか「行為」を教わっていないから、狭い世界に閉じ込められているのかも?「蹴る」しか知らなかったら、そりゃ「サッカー」しかできないよね、けど、「投げる」のもありじゃない?「野球」しようよ?みたいな感覚だ。「意外と演算子を追加することは悪くないかも」って思えてきませんか?
  ざっくりと「演算子そのもの」についてと、「新たな演算子を追加する」という試みについて確認した上で、それらの新たな演算子の中身の内容に移っていく。哲理数学・四則和算について話を聞いたことのある方で、「切算」「動算」までは分かるかも、と感じている方が多いのではないだろうか。切算は、「分ける」「切る」行為。どこに切れ目を入れるか、である。

1 cut 2 = 0.5 + 0.5
2 cut 2 = 1.1 + 0.9

そして、切算における切れ目を自由に動かす。これが動算。ここまではイメージしやすい。難敵は「裏算」と「重算」だろう。僕たちも完全に腑に落ちた感覚はまだ得られていない。そこで、難敵の「裏算」と「重算」に関する理解を深めるべく、具体例からのアプローチを試みた。裏算・重算の具体例として、光吉先生からアナログ時計が挙げられている。アナログ時計は、長針や短針、秒針といった独立して円を描いて回っていたものを同一円盤上に重ねたものである。それぞれを重ねるにあたって、長針や短針、秒針のそれぞれの「質」というものは針の動く挙動自体であり個別性を保っている。この長針や短針、秒針それぞれが持つ個別の性質こそがinvと呼ばれる。では、それぞれがばらばらに動いているかと言われれば、そうではない。それぞれの針は、1から12が記された共通の円盤状で自らの個性(inv)を表現している。この個別の性質を持ったもの同士を、1つに束ねているものをrevと呼ぶ。長針や短針、秒針といった複数のものを「裏算」するとinvとrevが算出されそのrevによって長針や短針、秒針といった個別のもの = invを束ねつつ、それぞれの個性は消さない。まさにアナログ時計。これが「重算」だ。四則演算のみでこれは表現できない。先ほどの1 + 2 = 3の式において、「3」という「結果」に、元の「1」や「2」の個性は反映されていない。一方、「アナログ時計」という「結果」に、演算 (裏算・重算) 前の「長針」や「短針」、「秒針」の各々の個性も反映されていることが分かる。これが既存の演算子との違いである。
  しかしながら、現在はイメージでの理解に留まっている。このイメージをより代数学の分野と接近させていきたい。今回は光吉先生のパワポの解説で終わってしまったが、より立ち入った考察を次回以降の限定記事でしていこうと思う。今回の文章で裏算や重算のイメージを皆さんに共有できたのであれば嬉しく思う。


最後に

  いかがだったでしょうか。0本目の記事ということで、現在までに僕たちが「どのような背景で何を議論しているのか」の解説に近くなってしまったかもしれないです。メンバーシップの限定記事では、より<生の思考><生の感情> : まさに「いま」考えていること・感じていることを共有しています。本記事の続きにあたる初回限定記事2024年5月-第1部」も既に公開済みです (途中まではどなたでも無料で読むことができます)。

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哲理数学・四則和算の理論そのものに共感していただける方や、理論を構築する過程自体、またはその構築過程の裏側に潜む背景・気持ちに興味を持っていただける方、是非ご参加ください。もちろん、哲学や数学とは今まで距離を置いてきた方も大歓迎です。専門性を超えた自由な領域で気持ちを共有したいです。

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参考文献

H.R.Maturana, F.J.Valera (1980). Autopoiesis and Cognition : The Realization of the Living. Springer. (H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ 河本英夫(訳) (1981). オートポイエーシス : 生命システムとは何か. 国文社) 

下西風澄 (2015). 生命と意識の行為論 : フランシスコ・ヴァレラのエナクティブ主義と現象学 情報学研究 : 学環 : 東京大学大学院情報学環紀要 89, 83-97.

蒼村. "【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか". 創造法編集社. 2023-01, https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/#i-9 , (参照2024-03-16)

山口博史 (2003). 複素関数 朝倉書店

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