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謙遜の真の意味

こんにちは。
心に火を燈す経営パートナー、共燈コーチルタントです。

自分の周りはありがたいことに
活躍されている方や人徳者が多いのです。
ですが、
最近ちょっと卑屈な考えになることが
多かったなあと振り返って、
思ったことを書いてみたいと思います。

自信を喪失してネガティブモードにいる時、
森信三先生のある言葉が目に入ってきました。

真に謙遜ということは、その人が内に確固たるものを持っていなくてはできないことではないかということです。言い換えれば、人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜にもなり得ると思うのです。
(略)
すなわち相手が目下であるからとて調子に乗らず、また相手が目上なればとて、常に相手との正しい身分関係において、まさにあるべきように、我が身を処するということであります。

修身教授録『謙遜と卑屈』

なるほど。
信念をもって自己確立していなければ
自分の力量をわきまえて
相手を立てるようなことは
本当の意味でできない
ということでしょう。

自分が自信喪失にあるときは、
3D(でも、だって、どうせ)が
口をついてしまいます。
相手に対して必要以上に期待してがっかりしたり
どうせ自分じゃダメなんだと、
だいぶ卑屈ですね。

そういう時は
自分と相手を比較して卑屈になっているから
素直に相手から学ぼうという姿勢になれず
相手を立ててるつもりでも
謙遜とは言えないのですね。

それで「謙虚」という言葉が思い浮かびました。
広辞苑には、

謙虚とは「つましく控えめなさま。おごりたかぶらず素直なさま。」
謙遜とは、「相手に遠慮して、自分の能力や価値、言動などをわざと低く評価すること。自慢したり高ぶったりせず、控えめであること。」

とあります。

あれ、自分が目指しているのは謙虚な姿勢じゃないかと。

本にはさらに深い示唆が書かれていました。

どうも謙遜と言う徳は、私の考えでは、元来対人的なところにその本質はなくて、その人がどれほど真理とか道というものと、取り組んでいるか否かによるものだと思います。

修身教授録『謙遜と卑屈』

結局自分が捉われているのは、
人との比較だということに気づきました

謙虚な姿勢であれ
謙遜の姿勢であれ
対人的な視野の中でとらえていました。

そうではなく、
自己を律し自分の信念を問い続けることが
本当に目指したい姿勢に到達するのだ

思いました。

そう思うと、
今まで自分が捉われていた卑屈な考えが
ちっぽけなものに思えてきます。

成長のヒントが得られるのは
ありがたいことですね。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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