フランス退屈日記♯4: ボン・ボヤージュ
#4、今回はフランスはあまり関係ない。今回休みの達人であるフランス人に倣って2週間のバカンス(休暇)を取った。最初にオーストリア、次にチェコとポーランド。なぜこんな変なタイミングかというと、ちょうど日本から数人の友人がヨーロッパ旅行に来ていたからで、「どうせなら会いたい」という話になったからだ。
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パリから夜行バスに乗ってドイツを経由(遂に経由だけで国を踏む)し、オーストリアの西、ザルツブルクという街で一日を過ごした。モーツァルトの出身地や映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として有名だが、これと言って特別な思い出はない。傘を持っていなかった僕は雨に降られながら街を歩き回り、その後自分以外全員女性のホステル(こんなことは初めて)でポテトチップスと水で夜を越した。というのも旅の最初は毎回財布の紐が緩み使いすぎて後悔するというのが常だからであり、今回も例に漏れず無駄遣いを重ねてしまった(ように思う)。というよりオーアストリアは観光費が相当高い(ように思う)。
そして翌日は朝早く出発し、ハルシュタットに向かった。ハルシュタットは湖畔にある小高い山々に代表される自然が美しい町であり、ここで自分は友人たちと会う約束をしていた。70’sの日本のニューミュージックやアメリカンフォーク、ロックなどを聴きながら、少しずつ移り変わる景色に心躍らせる。これほど心地良い瞬間も他にない。まだ世界が繋がりすぎていなかったあの頃、あの人たちはどんな気持ちで旅に出、言葉や人や景色に出会ったのか。
今回の旅の行き先を決める時、私たちが大いに調べ悩んだのを思い出すと、それがとてもつまらないことに感じてきた。僕たちの世代は些か遠回りを嫌いすぎている。僕自身も出来るだけ抗おうとはしているが、そう簡単に一度入った沼からは出られない。
そんなことを考えているうちに電車が止まった。船に乗り込み対岸へ渡っている時、既視感があった。誰もあれは隠岐の景色を想起せずにはいられないだろう。アプリでバスのチケットを購入し、今回の宿泊先に向かう。こういった簡潔化もまた旅の楽しみをひとつ奪っている。宿について一眠りすると、続々と友人が集まってきた。5ヶ月ぶり、落ち着かなかった。
スーパーに行って買い出しをしたなら始まるのはいつも通りのトマトパスタ作り(僕たちはこれ以外の食べ物を知らない)で、誰かがUNOがあることに気づくとそこからは止まらなかった。なんなら夜を明かした始末だ。5ヶ月もあれば音楽の趣味の一つや二つも変わるものだし、知らない彼らがそこにいる。翌日の朝、1人が遅れて到着した。彼女はバスの中に荷物を全て忘れ、何も持っていなかった。これで今回の旅を共にする6人が揃った。
景色を楽しみ、酒を呑み、煙草を吸い、話し続け、飽きたら寝た。楽しかった。僕は久しぶりに会った恥ずかしさを隠すかのように荒々しい口調で大きく話していた。たまに触れた友人たちの些細な変化には首を振った。そんなこんなで気づけばあっという間に4日が過ぎた。体調を崩す奴もいた。僕は町で出会ったフランス人と話したり、パスタを食べたり、パスタを食べた。たまには山々や星々を楽しみ、「これがバカンスか」などと思っていた。写真は思ったほど撮らなかった。
6人はその後、それぞれウィーンに向かった。誰も計画的にチケットなど取っていない。1人は「旅の予定が決まりきるのは嫌だ」と言うが、取るのが遅くなればなるほどチケットは高くなるので、同意はできない。金がない。本当に金がないわけではない。こんな贅沢な旅をいつまで続けられるだろうか。これで正解だろうか。そんなことを考えてもすぐに忘れてしまうだろうに。ウィーンは芸術の都!といつかのテレビで見た。あの頃は自分が訪れる可能性をこれっぽっちも考えていなかった。19年間日本から出たことがなかった自分には夢のように感じられたからだ。しかしどうだ、この6ヶ月で6カ国。………。大きな宮殿にも簡単には驚きはしない。
ウィーンは金がかかった。数ある美術館(ナポレオンや接吻、エゴン・シーレ)音楽公演、食。カツレツとポテトは美味かった。ハルシュタットで出会ったフランス人の青年とも再開して呑んだりもした。世界一住み易いと言われるこの街でもし暮らしたら、どんな人間になってしまうのだろうか!いや住みたくはないな。落ち着いた街の雰囲気とは裏腹、旅の疲れか少しの違和感に敏感であるのか、僕の気持ちは逆立っていた。
そんなウィーン最後の夜、僕たちはみんなでクラブに行った。かなり期待していた。が、踊ってみたが疲れが酷くなるだけだった。しかし隣を見れば友人たちは初めて会った奴らと楽しそうに酒をひっかけながら絡んでいる。僕はきまりが悪くなり、早々にクラブを抜け出した。こういう、自分がうまく行っていない時に簡単に拗ね始める癖は子供の頃から変わっていない。1つ前のnoteがそのときのだ。全く恥ずかしい人間で仕方がない。次の日僕らはウィーンを出た。そのうち2人は其々の帰路に着き、僕は勝手に気まずい空気を感じながら別れのハグをした。何も変わらない自分と変わっていく友人たちに焦りを感じた。情けない。
4人になった僕らはチェコはプラハへ。ウィーンの街並みが淡白に感じるほどに美しい街であった。煌びやかとも少し違う、美しさ。ずっといたら疲れてしまうであろう美しさ。食も過去一。しかしそんな街にも暗い歴史があることを最初に訪れた共産主義博物館で目の当たりにし、様々な出来事が見え隠れするこの街に一層心が躍った。そこで生きていたのは僕らと同じ若者であった。
ここに来て、東欧に来たとい感覚をやっとにして掴み始め、空は曇っていたが気持ちは高揚した。またプラハ城に近づくに連れて観光客も増えていき、街の全体像も見えてきた。色々な人がいる。東京がさらにグローバル化したら何が変わっていくだろう。旅をするたびに考える日本とそこにある原風景。日本人としての自分。島国で育った自分。最後は旅中で一番良くできたトマトパスタで締めくくった。またさらに2人と別れ、男2人でポーランドに向かった。
ポーランド(平原の国)という名前の通り、東欧らしい景色が続く、ポーランドの古都クラクフに着いたのは夜遅くだった。市内へ到着した後、腹が減ったのでマクドへ。なんということだろうか!安い!フランスの2分の1、いやもっと安い。感動した。2日半の滞在で3回ビックマックを食べた。これはフランスに帰って食べれるような代物ではない。バスの疲れにやられた僕らは電気を煌々とつけたまま眠りについた。
目覚めると自分の鼓動が少し早いことに気がついた。ポーランドに来た目的は他でもない、アウシュビッツ強制収容所を見にいくことだった。午前は世界で初めて登録された世界遺産の街をゆっくりと回り、ドーナツなどを食べながらゆっくり過ごした。この旅でいくつ世界遺産を見ただろうか。もう有り難みはない。午後、バスに乗って1時間半ほど、着いたのは静かな町だった。相変わらず空は暗い上、静かだった。ガイドは高額だったので売店で日本語の解説本を書い、ゆっくり回る。ただただそこにあった事実を見つめ歩いていく。
友人が言った「これが何になるのか」。僕らはそれの飲み込み方を知らなかった。今思い出すだけでも少し頭が痛む。思っていたより多くの時間が過ぎ、第二収容所まで行く時間はなかったが、あったとしても行っただろうか。また赴くことになるだろうが、それはいつになるかまだ分からない。今はまだ、傍に置いた箱からたまに取り出してみることしかできなそうな感情。何とも心を使うバカンスにしてしまったことだろうか。帰りのバスで僕らはその浅ましさに少し気づきながらダウンロードしたお笑い番組を見て笑った。
宿に帰った後は夕食に出かけたが、一軒目は現金のみの支払いだったため店を変えた。チェコとポーランドでは換金をせずカードだけで乗り切った。せっかく行った国の通貨のことも知らずに帰ってきてしまったと後悔している。まあいい。ポーランドの食事はどこも安く量が多かったので19歳の青年2人にとってこんなに嬉しいことはなかった。
「美味い飯を食ったあとは煙草が美味い」とのことなので、試す。なるほど、悪くはないが自分で買う日は当分来そうにない。あんなに煙草の煙で咳き込んでいた自分がいつの間に吸えるようになったのだろうか。そんなことを考えているうちに尾崎の歌に出てきた「一本の煙草を吸いつくすまでにどれくらい時を無駄にできるか賭けよう」という詞を思い出した。いつまでこんな時間が続くのか気になったのか。19歳の自分は知る由もない。
尾崎繋がりであるnoteの記事を思い出した。それはある坊さんが尾崎について書いたもので、とても的を得ていたというか、ここまで尾崎をしっかり聴いている人を久しく見ていなかったから驚いたのだった。そこには「人間には年齢による規範や、美徳があり、私はそれによって生まれる摩擦が好ましい。皆歳をとれば、社会との協調やを一層モノにしていく。彼らから見れば尾崎の言っていることはただの我儘だ。尾崎も歳をとればつまらないことを言っただろうが、それでも26歳で若さを保ったまま死んでいった彼の好ましさが…」といった内容だった気がする。すごく浅く書いてしまったのでリンクを貼っておく。
この話を隣で2本目を吸っている友人に持ちかけた。すると彼が言った「そういうことについて最近よく考える」。そこから話がどういった展開をしたか正確には覚えていないのだけど、
どこかで僕が彼にこう言った「年齢に適切な規範があるとする、では今の僕たちは若さゆえの尖り(社会への不平不満やどこにも行けない衝動のようなもの)を提示すべきということになる。でも、”そんな若さよりも本当に大切なのは愛や穏やかな心が必要じゃないのか”と思ったりする時もあるんだ。それでも今は尖りが必要なのかな?」
彼が答えた「分からないけど、そうやって考えられているうちがいいんだ。それが若さの圧倒的な自由さだから。迷いながら、そこに選択の余地があることがまず素晴らしい」。
僕「確かにそうかも。まぁでもここで結論が出たように思えても明日にはまた迷ってるけど」。
彼「でもこれが歴史になっていくわけで、先人たちも自分たちが歴史(過去)になると思って生きてなかったよ、きっと」。
僕「それぞれに葛藤があって、自分の過去を否定してでももっと良いものを創りたい、変えたいと進んでいく。僕らにとってそれが敗北でも、全体通して見たら、未来の彼らにとっては勝利の歴史に見えたりするのかもしれない」。
彼「だからまずその一瞬一瞬で勝利を狙っていくしかない。その歳の規範、今はこの衝動を武器にして勝利を狙う。(中略)後からそのときの自分のことを”敗北だ”と感じても、死に際に通して見れば勝利の歴史だ。要するに俺らは一生勝ち続ける」。
「ははは」。「確定勝利」!
この辺りからお互いにずっと笑いながら意味の分からない言葉を喋り続けた。恐らく「葛藤を持ち続けたまま瞬間に全てを賭けて生死を繰り返せば、それが歴史になるのだから、足掻き続けるしかない」という結論だったのだろう。明日には「だから何だ。そんな答えでは今この瞬間に悩んでいる僕は何も救われない」と思っていそうだが、それでいいのだろう。やはり自身の句読点の付け方が大事になってきそうだ。そう考えるとシンガーたちの圧倒的好ましさだ。僕が彼らにこんなにも惹かれているのは…。
例えば小山田壮平の歌の移り変わり方はこの話にピッタリではないか。『andymori』,『AL』を経たソロの今の楽曲は偽りのない説得力がある。これは彼が瞬間で生死を繰り返してきた結果なんだろう。上がandymori時代の楽曲、下がソロ。どちらも素晴らしい魅力があるが、彼の歌は歳を重ねるほど優しくなっているし、それは彼の歴史あってこそだと思う。この日も僕たちは電気をつけたままの明るい部屋で眠りに落ちた。
翌日、ついに彼とも別れて1人になった僕は、最後の目的地である映画『シンドラーのリスト』の工場を訪れ、飛行機でポーランドを発った。荷物が意外にも重く、チェックインで無駄な金を徴収されたが無事にパリへと帰ってきたので良しとした。空港で時間を潰し、早朝の人混みを抜け、ルーアンの家に帰ってきた時の感動は、隠岐から実家に帰った時のものと似ていた。
自分の中でフランスがそういった立ち位置になりつつあることに驚き、そこには嬉しさもあった。明日からはまた仏語の勉強に励み、もう少し経ったらまたカメラを手にするであろう。
こんなに色んなことを書けるのなら旅も悪くないかもしれない。
次はどこだろう。
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