尾崎豊の話
「人は1◯歳の時に聴いていた曲を聴き続ける」と、サブスクリプションの音楽配信が一般的になって、しばらくしてから耳にするようになった。これは確かにそうだろう。自身をふりかえって言い訳のできない思いがします。
私の10代は、それこそ、10になってほどなくして、初めて聴くこととなったアルバムから大学に入るまでの間、常に尾崎豊の曲がプレイリストにありました。我ながら、なんとまぁ夢中になったものだと感心するほどです。中二病が早かったので、ポータブルのCDプレイヤーを持参して鬼ごっこの公園へ向かうことさえあった。「ふつう人のいる時に音楽聴かないだろ」と友人から苦言を呈されたことには今だに赤面する思いだ。
そんなこんなで10代のほとんどは尾崎豊の曲に彩られたものとなりました。しかし、尾崎豊のファンだと公言することには恥ずかしい思いがあって、あまり人前でわざわざ言うことはなかった。というのも、私自身「尾崎ファン」にあまりよいイメージがないためだ。
当時の、いわゆる尾崎ファンに初めて出会ったのは、中学生の時だった。ファンイベントに参加した際、そこで出会った方々には失礼ながら、実際にとてつもなく嫌らしい思いがしたのでした。
なぜそうだと思ったのか、今となってみればよく思い出せないけれど、とにかく年老いた尾崎ファンのみっともなさに辟易したことだけが強く記憶に残っている。ほとんどを想像に頼ってしまうならば、あれはおそらく、老人が若者の真似をすることから生まれる見苦しさだろう。しばしば世間で尾崎とそのファンが嘲笑の的となることにも、さもありなんという思いだった。
どうでもいいことに話がそれてしまった。このような経緯もあって、これまであまり話題に出すことがなかった尾崎豊だった。2chの尾崎豊スレに誰かが書いた「尾崎を理解するからこそ尾崎から離れてゆくのが本当のファン」だという言葉に影響され、距離を取るようになりしばらく経ったのでした。あまりに坐禅の邪魔だったために、歌を聴くことがすっかりなかった期間も長かった。
その上で今あらためて思うのが、尾崎豊という存在の圧倒的な好ましさだ。これはもちろん冒頭の通り大いに贔屓目をもった話だが、その私情を抜きにしても、全ての大人にとって見直すべき要素があると思う。
私は、他人同士が同じ世界で異なる規範を維持することに美しさを感じる癖がある。一面均質であるくらいならば、いっそ摩擦を起こした消滅を見たい。
異なった規範を持ちやすい性質のなかには民族や性別があるだろう。しかし最も面白いのはやはり年齢だ。年齢においては、人は誰でも自分自身の中で全く異なった規範(の記憶)を維持することができるので。もちろん他と同様に年齢の異なる他者同士の規範が共生する様も観察できる。
このあいだ、生シイタケを料理した際にしみじみと、あぁ、なんて美味しいものだろう、と思った。それと同時に、「小さな頃には嫌いな食材の代表であったシイタケを、その美味しさを当時の私自身に話したならば、オバケを見るような目を向けられるだろうな」と考えたのでした。仮にも同じ人間でありながら、時を隔てただけのことで、これほどまでに、少なくとも感覚の上では、分かり合えないことがあるのだなぁと、むしろそちらにしみじみとしてしまった。幼い私に言わせれば、「歳を取ることで、なんてつまらないことを、人は言うようになってしまうのだろう」と、失望と隔絶の感を心底からあらわにすることと思う。
当時はシイタケへの好意のせいで世界が悪くなるとさえ(彼からしたら当然のことだが)考えていたし、現在の私はといえばシイタケを嫌いなわけが一つも思い出せない。彼にとって、そのわかり合えなさは絶望そのものだが、私にとっては美しい希望に他ならない。人は共に生きるのにも関わらず、これほどまでに異なる規範を持てるのですから。
そしてそのような大人の目に、彼らはよりいっそう失望と孤独を深めてゆくでしょう。そして「共に生きるかどうかを決めるのは俺であってお前ではない。」と、若者はいつでもすぐに崖っぷちに立ちたがる。
尾崎豊も長生きをすればつまらないことを言っただろう。社会への失望と孤独を書くことはなくなり、社会への提言と協調を歌うのだろう。「生きていればいつかいいことがあるさ」と、心底から歌えるようになったならば26歳で死ぬこともなかっただろう。シイタケを味わいながら、ふとそう考えると、やはり年齢には年齢ごとの規範が保たれるべきだと思った。また、世代間である程度の摩擦が起こることは、むしろ好ましいことでさえあるなと、うなずく思いがいたしました。
尾崎の死が良いことだというわけではないが、死ななければならなかったほどに強固な、若さという結晶を残した尾崎豊は、今でも輝いて見える。
有名な曲のほとんどを10代で作り、「大人」になれずに死んだ尾崎豊の感情は、世代を超えて同じ年頃の若者達に共感を持って支持された。それは歳をとればとるほど共感のできないものになってゆきました。
それもそのはずです。大人から見れば彼が歌っているのは、経験不足が故のわがままと、未熟が故の繊細さに過ぎない。自身のわがままのために勝手に社会に失望し、過ぎた繊細さによって勝手に孤独になってゆく様は、嘲笑の対象になって然るべきと思います。
しかし、「自分勝手になってはならない」と当然の規範を保つ我々大人は、果たしてどこまでの自己犠牲を受け入れる気なのだろうか。またそれによっていかなる価値を目指しているのだったか。
当時の私はシイタケを皿の端によけながら、こう言うことでしょう。「経験のせいで判断が鈍重に、老衰のせいで感覚が鈍麻したあなた方のように、何が大事なことかさえもわからなくなってしまうのならば、早く死ぬ方がよっぽどマシですね。」と。
このくらいの対立でも見ていて面白いものだけれども、やはり美しくなるのは彼らが互いの価値を認める時ですね。それがどういう形になるべきか決まった結果は想像できないが、きっと十人十色のものだろう。
子供はいつでも世界に引きずりこまれた側ですから、大人の責任は彼らが異なる規範に賛同せずとも、認めるまでは確かに引きずりまわすことだと思います。彼らの失望と孤独に歩み寄り、相互の理解を得るために、まずは大人が若者の規範を思い出すべきだ。
社会に失望しがちな若者の、その高潔な展望は、年老いた視点から見る世界には存在しないでしょう。孤独に震える感性なしには、取り組む気にさえならない問題も人生には多い。
誰だって生きることなど元よりうっすらと嫌いなのだ。シイタケを食べさせられるたびに、なぜ頼んでもいないのに生きてゆかなければならないのかと、頭を抱えたものです。そんな中で若者があえて大人達の仲間にならなければいけないとしたら、せめて若者の仕事を認めることからはじめなければならない。
若者と大人という二者の対立で言葉を使ってはきたが、本来ならばその対立を超えた人生の歩み方を人は見出すべきだと思う。これまでの話は全てあなた自身一人だけを登場人物としてもいい話です。子供の頃の記憶がある人はたくさんいることと思いますが、昔の自分を無かったことにしたいような大人もかなりいるようです。どこかで聞いたような話題になりますが、「本当の大人」というならば、「自分は若者とは違う」といいたいかのような大人ではないはずだ。
歴史を見ても若者には若者にしかできなかった仕事が、老人には老人がすべき仕事が、確かにあっただろう。年齢で分かれることが多いとはいえ、どんな人間でもその美徳悪徳には、若者性と老人性が複雑に絡み合ってはいないだろうか。あなたが若者の頃の自身を認めることなしに、彼らから大人のあなたが認められることもないでしょう。幼いあなたから認められることのない大人のあなたは、一体なにを目指しているのですか。
老人達と若者達が、世代間の対話を経ることで互いに異なる規範を認め合うことが集団として起こることはないだろうし、そうなってしまってはつまらない。しかし、どんな人間であっても、他者はともかく、若者としての自分自身をひとまず可能な限り認める努力は必要だろう。思春期のような苦しみを伴うこととはいえ、それは一般的な意味でも「大人」になるために必要なことではなかったか。それなしに年齢だけを重ねた老人は、鋭い判断や感覚を失ってゆくだけでなく、「年齢」という性質によって異なる規範に二度と立ち向かうことができなくなってしまうだろう。老人が社会を作っていた時代ならばいざ知らず、これから先は若者が社会を作ってゆくことも増えるのだ。共に生きるかどうかを選ぶのは若者であることには変わりないが、それが全く違う意味を持つことにもなり得るような気がしませんか。異なる規範に歩み寄れることのない存在が社会から排斥されるのは好きではありませんが、それが子供でなく老人ならば世論が後押しすることも時間の問題だという気がする。
そんなことをつらつらと考えており、その度に尾崎豊が聴きたくなる。そしてその好ましさもいっそう身に染みる。もう感覚として理解できるとはいえないが、彼のような若者を認めることの愉悦は、死なずに生きた人間の特権なのだ。
こと、坐禅をするならば人は今ここを生きる視点と永遠を生きる視点を共にもたなければならない。というよりも、それらが同じことなのだと気がつくはずだ。若者と老人の対立は兎角、いずれかに偏りをもって文句を言い合うこととなる。自分自身の中のみでさえ、そんな意見の対立を昇華できない愚かな我々は、やはり坐禅のような若者にとっても老人にとっても、わけのわからない実践を続けてゆくべきだとあらためておもったことです。
年の暮れに際して、おかげさまで名古屋までのバスを楽しく乗れました。皆さま良いお歳をお迎えください。また来年もいっしょに坐りましょう。
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