「 己の中に父性を宿せ (「父性の復権」より) 」2023/07/24

神とは何だろう。
絶対的な存在とは。
私にとって父親は長く絶対的な存在だった。
父親。父性。
絶対的なものの存在の必要性とその崩壊の意味。

そんなことを自分なりに考えていた。
とある近所のブックカフェ、腰を下ろした目線の先丁度に林道義さん著「父性の復権」この一冊が何冊かにまぎれるように置いてあった。

こうしてまた、私は、新しく私の視野を豊かに広げ、揺らぐ幅を広げ、歩みに角度をつけてくれる本に出合ったのだ。

かなり断言的で、画期的だ。
そういうものに自然と惹かれてしまう。力に圧倒されて引っ張られてしまう。そういう危険性もはらんでいるということも自覚しながら、「疑い」の眼も持ちながら読み進めている。

どんな社会も、世代も、良い面があって悪い面もある。
そして「社会」「世代」「親」「宗教」そんなたった一言がどれほどたくさんのものを請けているか。ぎゅっと、簡単に、簡潔に、わかりやすく、まとめて表現してしまいたくなるけれど、わかりやすい断言をそのままそっくり受け取ってしまうのは楽だけど。

辛いニュースが連日のように報道される。
正直、移ろう社会の仕組み・在り方、政治も経済も、「日本は大丈夫なのだろうか?」そう思わずにいられない日々。

私は愚かで未熟だ。実際、事実として良い面なんて見つかりそうもない、もう手遅れでお先真っ暗、最悪な世界なのかもしれない。わからない。

でも私は知っている。ほとんど大抵のものは色んな面を有している。
それはがたがたで愚かな頼りない思想かもしれないけれど、それでも私はそれを静かに信じて、頼って、お守りにするように、すべてのものを見つめていきたい。希望を見出したい。前向きで明るく生きたい。

書籍「父性の復権」は1996年が初版の作品だ。私の生まれる2年前。
確かな裏付けと共に綴られる断言は、的を得ていると感じた。まるで私の弱さを狙い撃ちするかのような言葉たちを受け取って、私はどうしようもなく自分の愚かさとむきあわざろえなくなった。父性の欠如によって現れる特性の多くに私は当てはまっていた。「父性の欠如」のみがその特性の原因でないにせよ、少なからず影響を受けているのだろう。

25歳になってしまった。
もう誰も育てても、律しても、教えてもくれない。
父性の欠如を嘆き、親を責め改めて「父性をくれ」と強いている場合ではない。
自分の中に厳しい父性を持つ人格を宿し、自らを律していかねばならない。

「あなたが一番」と大らかに優しく全てを肯定され包み込まれる母性に守られて生きてきた。それは親のあり方だけでなく、社会の基盤がそうあることをよしとしてきた。
育てる術を母性的な面でしかしらないがゆえに、自分を育てるときにも、母性的にしか介入できていなかったと気づかされた。

全体の中の一人という俯瞰した捉え方。
強いられたものから理不尽さを感じ、それと折り合う術。
決して自己の利益を追うことが全てでなく、「人として」の正しく徳のある生き方をすべきということ。人格や人間性。
モラル。ルール。礼儀。他尊の思考。

私の中の父性によって育まれる部分は未発達だ。弱く頼りなない。幼い。
大きな傾きがあるけれど、まだ少しでも将来があるのなら、きっと手遅れではない。
すぐに育つものではないから、25年かかると見積もってコツコツと育んでいきたい。



宗教についての思索から広がり、はじめて父親という絶対的な存在について考えた文です↓


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