「 私も偉人になりたいです 」中村哲さんの言葉を引いて

伝記や自伝書、立派で眩い人生を歩んだ偉人の本を読むのが好きだったし、今も変わらず好きだ。
でも、年を重ね、ときめきの心と裏腹に、それを読む己の平凡さについて突き付けられるようでどうしようもなく苦しくなってしまう自分がいる。

もちろん、自分を愛しているし、自分の選び取った日々を愛している。心から。
他人に「交換してあげようか?」と問われても「いいえ、このまま私の人生を行くわ」ときっぱりはっきり断れるくらいに自分の人生を気に入っている。
そうあれるように努めてきたから。

それでも、やっぱりあまりに平凡だ。
特別に秀でた魅力を私は全く持ち合わせてはいない。
チクリと心が痛む。

それはまだ自分を諦めきれていないということなのだと思う。
私はまだ私に希望を抱いている。

 
まだまだなんだ。
もっともっといきたいんだ。
このままじゃ物足りない。
もっともっと秀でた存在でありたい。
高望み?現実をみろ?いやいや。
いつまでたっても静かに、密かに、メラメラと燃えている自分の気持ちの存在をいつだって肯定していたい。
肯定するのは自由ですから。メラメラしているのは勝手ですから。
あまりに漠然としているけれど、そういう自分が結構好き。
 
 
中村哲さんの書籍を読んでいた。
(面映ゆいことだが)“偉人”と評される存在に憧れ、
でもどうしようもなくちっぽけな自分にがっかりして、
でもまだ諦めていない、そんな自分に大切なことを語ってくれた。
 
「(なぜ日本ではなくペシャワールに拘るのか、という質問に対して)
一つの縁と言いますかね、私が質問し返すのは、
「じゃあ、あなたは結婚していますか」と。

「なぜ、今の奥さんでないとダメなんですか」と。
「女性は人類の半分いるんですよ」と。
「それは縁でして」と、その通りなんですね。
ある人は縁あって、障害児の教育で働くかもしれない、ある人は日本の離島で働くかもしれない、それと同じように、私もそういう縁で、現地で働いておりまして。
もう、そうとしか言いようがない。」
 
偉人達は「偉人」になろうと努めていたわけでは決してないということ。
凄く当たり前の事なのだけど、懲りずに誤った思考に流れてしまう自分への自戒を込めて。
縁に運ばれて自分が行き着いた場所で、全力を尽くすことが偉人を偉人たらしめる部品になる。
 
 
一隅(いちぐう)を照らす」という言葉も教わった。
「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」という言葉。

一隅とは、片すみや自分のいる場所。

一人ひとりが自分のいる場所で一隅を照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がよくなるという意味だという。
どこかの片すみでも、小さな事でも、一つひとつ真面目に行う。
今の自分にできることを一生懸命やる。
そうやって一人一人が灯す小さな光がやがて大きな光となる。


 
「別に私に立派な思想があったわけじゃないんですね。
「セロ弾きのゴーシュ」というのがありますね、宮沢賢治の童話で。
お前はセロが下手だから練習しろと言われたゴーシュという人が、一生懸命練習していると、狸が来たり、野ネズミが来たりして、「子供を直してくれ」だの、色々雑用を作るわけですね。
しかし、「まあ、こんな大事なときに」と思うけれど「ちょっとしてやらんと悪いかな」ということで。
そして上手になって行くわけですね。
そして学長に褒められたという話がありますが、それに近いでしょうね。」

やはり「行動」なのだとハッとする。
考え事が好きで、ぐるぐると思いを巡らせ頭でっかちになってしまう私は気を付けたいところ。

そして思うのは、多くの人の目に届く大きな何かを、全体を、全てを大きく変えてしまいたいとそんなことを思ってしまうけれど、私が手を加えることができるのは今目の前にある“細部”でしかないということ。
細部に思いを込める、それしかできないということ。
数えきれないほどの細部を一つ一つ積み上げることによって途方もない全体という印象を抱かせるということ。
忘れずにいたいこと。


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