「 「信仰」が私に馴染んだ /現代文明論講義ーニヒリズムをめぐる京大生との対話ー 」

宗教や信仰について凄く興味がある。
熱心な信仰を持っている人が共通して持つ、その朗らかで凛とした佇まいに憧れを抱く。
それは「信仰」があるが故なのか、それとも「信仰」に関わらずその人がもともと有していたものなのか。
どれくらい「信仰」というものがその人のあり方に介入しているのかが気になる。
特定の強い「信仰」というものを持っていない自分は果たしてそこへ近づくことができるのか、そんな問いを抱いてきた。

最近手に取った書籍の中で、新しい宗教・信仰についての考え方に出会ったので、ここに書き残していきたい。

宗教への信仰の有無にかかわらず、生死について思いを馳せることはあると思う。
私自身も生きていることが苦手であまりにつらく、なぜ自分は生きているのか?、もう死んでしまいたい、という考えが沸き上がってきたことがあった。
その思いと向き合う中で、自分なりにで深く、深く、「生死」について思考を巡らせてきた。

現代の社会では今まで絶対的であったはずの「神」という存在が崩れ、宗教の力が弱まってきているという。
“「神が殺しはいけない」としているから”ではもう納得できない。
死ぬも生きるも殺すも生かすも「自由」という権利があるじゃないか、という考えに至る。

私も正直「神」というものにしっくりこず、それをなしにして生死観をなるべく考えていきたいと思っていた。

「社会というものが成立する背後には死者がいる。
その背後の死者に対して、我々はどこかで贖罪意識を持たざるを得ない。」

キリスト教・仏教・ヒンドゥー教…特定の宗教がどうに関わらず、死後の世界の捉え方がどうに関わらず、「死」や「死者」について思いを配るということはとても自然なことなのだと気づかされた。それはこの社会に生きていれば思ずと沸き上がる思考であり、そういう思いを冷淡に切り離したり、鈍感に無関心にいるのは愚かすぎる。
気づき、思い深く巡らすことのできる人でありたいと強く思う。

事件や事故が毎日のように報道され私のもとに届く。
考えすぎかもしれないし、偽善的なのかもしれないけれど、
被害者・加害者・その家族・そこから広がる波紋に揺れされる人々に自分を重ねて苦しくなる。
生まれる時間や場所や環境、小さな選択のその一つの小さなズレで、私が彼らの立場になっていた可能性は大いにあり得る。その選択肢の積み重ねによって思考は育まれ、思考によって行動になる。
どんな残酷な事件の加害者も一概に責めれない、と思ってしまう。
ほとんどなにも「自分」と変わらない。
自分も小さなズレでそうなっていたかもしれないし、これから先の未来でそうなってしまう可能性はないと言い切ることはできない。
怖いな、と只々苦しくなる。

「社会がなんらかの形で維持されるためには死者がいるということなんですね。」

「例えば戦争。国を守るためには誰かが死ななけらばならない。その国を守るために死んだ人のおかげで、自分たちはそれなりにいい生活をしている。その死んだ人に対するどうにもならない贖罪意識を、我々は引き受けていくよりほかない。」

「それは別に戦争に限らない。もっと一般化したときに、死者への贖罪に似た畏れが出てくる。それが広い意味での信仰なんですね。ですから、どこかで我々は宗教に救いを求めざるを得ない。逆に言えば、そういう贖罪意識を上手く吸収してくれるような宗教的なものがあれば、我々はいくらか救われる。そして自ら死んでいく人たちもまた、宗教的な救済を求めることによって自分を納得させるよりほかないでしょう。」

「あの時代にい生まれたか、いま生まれたかというのは全くの偶然です。つまりこれは時代を超えたくじ引きなんですね。我々はその意味ではくじ引きで運が善かっただけとも言えるわけです。そうすると我々いま、あのときに死んだ人たちの犠牲の上に生きていることになる。」

この文で特定の宗教を超えた「信仰」というものがすんなりと自分の中に馴染んだ気がした。
宗教の考え方がどうこう、「神」がどうこうのその前に、時代を超えて時を飛び超えて、自分に代わって「死者」となった多くの人々の存在によって今の私の「生」がある。その考え方はすんなりと馴染んだ。

その順番が「私」になるまで、精一杯生きたい、そう思う。
「信仰」というのは絶対的な「神」へではなく、「死者」へ向けたものと考えるのはどうだろうか。

順繰り巡ってくる「死」。
文には“贖罪意識を上手く吸収してくれるような”とあるけれど、それを真っさらになかったことにはできないし、そうしてはいけないような気がした。贖罪意識と共に、生きていくべきなのではないかと思う。
自分の代わりに「死」を受け取ってくれたことへ贖罪意識は生まれるけれど、感じる大きさに差はあれど、それは皆平等に振り分けられているのだから。

必ずいつかはやって来て、それは選べないし知りえない、そして逃れなれない。
私より先に「死」を引き受けた人へ捧げるように生きていけたら。


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