学びまとめ・振り返り<偶然と必然は表裏一体かー仏教者の見た世界ー>


 
インドでの基本的な考え方はでは偶然そもそもないと考える。因果の思考、どんな物にも必ず原因があるという考え方がある。行動を意味に持つ「業」(カルマ・カルマン)は死後も残り、未来の事柄の原因として影響を及ぼす。全てはカルマの結果である故、偶然というものはあり得ないとする。
この考え方は未来はもうすでに決まってしまっているという運命論に陥ってしまう、卑屈になってしまう、と言う危険性を孕んでいるが、対して仏教はすでに決まっているのではなく、今の行い次第で未来を変えていくことができるという解釈をする。
 この考え方を採用するにしても捉え方、当てはめ方によって、真逆のような解釈も可能になってしまうような気がした。その設定は自己に委ねられているとしたら、宗教の入り込めない区域もあるのかもしれない。例えば何か悲しく苦しい出来事があったとする。因果応報の思考に当てはめると過去の私の業(今世だけに限らない)に対する結果に過ぎない。それは自分が操作できるものではないが、結果を受け取った上で起こす次の業次第で未来を良い方向へ導くことは可能であるということ。風通しの良い軽やかで、前向きな考え方であるような気がする。
 また、自分では動かせないもの、選択不能なもの、他者からもたらされるものに関しては全て「天命」である、なんらかの結果であると考えると、少し楽になることができるような気がした。
 ただ、現報(現世の行いの報いが現世に現れるもの)だけに限定されないというのは一つ枷になるような気がする。現世のみの記憶しか持たない私にとっては身に覚えがない結果は「偶然」と捉えずにはいられない。現世以外から受け取る結果には必要以上に執着せず、明らかな理不尽さにはいつかの自分の愚かな行いの結果であると捉え、静かに人知れず懺悔しよう。そうすることができたら、それ以上波は生じることはなく事もおさまり一石二鳥なような気がする。
 
「善因楽果悪因苦果」という言葉もあり、原因がないのに「苦」を自ら引き受けることでそれは善因に代わっていくと考え、苦行に励む人々もいる。
 今までの私は「ことを静かに収めたい」という思い、自分の気持ちに余裕がある場合、お互い様いの精神、等によって一見得でない事・損に働く事を引き受けてきたが、未来の自分、もしくはいつかの自分の生まれ変わりが少しでも良い結果を受け取れたら、という密かな願いを込めてその道を混ざすのでもいいかもしれない。損得に必要以上に縛られることのない選択をしていきたい。
 
インドでは「偶然」というものに馴染みがないが、Daivaという天命(運命)を意味する考え方がある。これは偶然と同一のニュアンスが含まれていると考えられ、プルシャという人事・人間の努力と対比され、両者は常に表裏一体であると考えられている。
Daivaは「戯れる・気まぐれ・人為の及ばないところ」等にも関連のある語句であり、運命と気まぐれが同じようなニュアンスを持っているのではと考えられる。
思いがけないことが起こると人事と運命の相克(対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと。)が意識されるのが常であり、ヒンドゥー教ではどちらかというと運命の方が強いとする思考が根強く、インドに馴染む考え方である。ことが上手く進まない時や結果が上手く得られない時には、両者が上手く噛み合っていないことによるものとする。
 
?生起には原因があるとみて
無を超えます。
滅は原因を伴うものであるとみて、
有に近づくことはありません(宝行王生論)
何らかの事が引きおこるには必ず何らかの原因が存在しており、無から引きおこることはなく、
消えるにも原因がある。
(一般的に消え失せる、ほろびる事を意味します。 しかし、原語のnirodha(ニローダ)は制止する、コントロールするという意味の言葉です。 仏教で良くつかわれる「欲望を滅する」とは、欲を無くせ、欲を消しなさい、という意味ではなく、欲をコントロールして良き方向に向けなさいということを指す)
 
戯論(けろん)は心が次々に働きを起こすこと・思いが連鎖するように次々に巡ることを指す仏語である。私たちは外界のものを様々な体の感覚によって自分自身の内側にイメージを描きだす。そこから主に3つの働きが起こる。一つ目はイメージに対して名前を付ける「名言(みょうごん)」という作用、二つ目はイメージを細分化していく「分別」という作用、三つ目はイメージに対してあれこれ考える「尋思(じんし)」であり、これら三つをまとめて「戯論」と言う。戯論は生まれつき備わっている物であり、その心の仕組みが悩み・苦しみの原因であると考える。
手放すために、次々と巡っていく仕組みを持つ戯論のつながりを断ち切る必要があり、その為には外部からイメージが入ってきたタイミングでただ受け取り、それ以上進めない事が重要である。思いを巡らせない事。
 
「大乗仏教」が誰でも成仏できる、誰でも悟りを開くことができると教えられているのに対し、「上座部仏教」は出家して悟りを開いた者だけが救われるとされています。
して存在しているのは、法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗現在、大きな宗派と、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗の13宗派である。156の仏教宗派の中でも代表される「日本八宗」と呼ばれる、天台宗(てんだいしゅう)真言宗(しんごんしゅう)浄土宗(じょうどしゅう)浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)真宗大谷派(しんしゅうおおたには)曹洞宗(そうとうしゅう)臨済宗(りんざいしゅう)日蓮宗(にちれんしゅう)、の八つの宗教があり日本の宗教は全て大乗仏教に含まれる。

 天台宗には次の四つの修行方がある。
①    上座三昧 座って呼吸の観察を行う
②    常行三昧 歩きながら上下する足の動きを瞑想
③     半行半座三昧 半分座る瞑想、半分歩く瞑想
④     非行非座三昧 行う事全てを気づきの対象にする(なんでも修行になるということ)足の不自由な人へも開かれるように東南アジアでは手の動きを観察する修行もあり、それは非行非座三昧に含まれる。
全ての行いに集中することは修行になるというのは心にとめておきたい考え方だと思った。無意味に思えるような事、苦手な事、そういうも全て修行として捉えて観察する目をもって過ごしていきたいと思う。

 
 ♥補完的 足りないものを補うような性質持っている補完するような性質持っている、などの意味表現

「人事を尽くして天命を待つ」
人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる、という意味がある。
これもどうにでも解釈のできる考え方であると思う。逃げの姿勢でも攻めの姿勢にもなれる。
「どちらにウエイトを置くかを状況に合わせていくことで悩みから逃れることができ、安定を得ることができる」という言葉が凄く優しいなと感じた。最終的にバランスを整えるのは自分自身であり、神ももとに生きるとしても主体性からは逃すことはできないということ。

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