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大都市圏からの脱出を図る人々。

コロナによってリモートワークが一部の業種で常態となった今、「住環境」を見直そうとする人々が増えているようです。

 例えば、週に1度か2度の出勤のために高い家賃を払いながら東京という都市圏に住み続けることに明確な意味を見いだせない家族は、実は少なくないのであろうと思います。

 考えてみれば、子育て環境や自身の精神衛生上のバランスを優先した場合、「多少の不便を覚悟して」も、自然を身近に感じることのできる郊外に、改めて居を構えるという決断は、実にまっとうな思考であり、そういった決断によって大都市圏からの脱出を企てている人々がたくさん出現したのです。

 「多少の不便を覚悟して」と言いましたが、私たちは今日まで「便利」をあまりにも追求してきたことを反省する必要があります。衣食住のすべてにおいて「便利」が優先された結果、その「便利な生活」を続けるために必要な高額なコストを捻出するためだけに働いていると言っても過言ではないでしょう。

 今、就学中の子どもを含めた4人家族が、例えば都心のマンションを拠点とした生活を維持するためには、全国のサラリーマンの平均年収である450万円では到底不足するわけですから、都心での生活を維持するということだけをとっても、それは一部の高額所得者の特権となります。

 そして、その生活スタイルに経済格差を認めつつも、ある種の「ステータス性」をもたせながら人々を誘導してきた…、それがメディア戦略であり、そのメディアを活用しながら不動産消費や不動産投資が「善」であるとして、人々に偏った価値観を埋め込み続けてきたのは、間違いなく都市開発を担う大手デベロッパーと、そこに認可を与え続けてきた公的機関なわけです。

 この戦略で東京は都市機能を極限にまで膨張させ、人々が求める「便利」を際限なく実現させてきました。交通や教育、医療、娯楽に至るまで、人々は「すぐ手の届くところ」でそれらの最先端に触れることが可能になったのです。もちろん「高い代償」と引き換えにですが…。

 ところが、そういった動きに「待った!」を宣言した人々が出現し始めました。

 「その発想…、ナンかヘン!」「そこまで無理しなくたっていいんじゃない?」

 「今あるお金で気持ち良く、ストレスなく暮らす…、それで良くない?」

 4~5年前くらいから、そんな発想で転居(というか「小移住」)を決断する若者家族が、私の周囲でちらほらと現れ始めました。冒頭で述べた「コロナによるリモートワークの常態化で…」というのは、そういった動きが一気に加速した要因であっただけのことです。

 そもそも若者家族(ほぼ30代家族)は、いったい都心生活の何に違和感を抱いていたのでしょうか? どうやら「お金」だけの話ではないようなんです。

 前述したように、私たちの生活は「便利」を極限にまで追求し、交通・教育・医療・娯楽等の恩恵を至近で享受することができること…、それが実現された都市圏で生活を送ることをステータスとしてきた…、というか、そういったステータスを埋め込まれて、それが「幸せのカタチ」であることを社会から洗脳されてきました。

 しかし、私たちが信じて疑わなかった都心生活のステータスには私たちが「人間らしく生きるため」の重要な要素が完全に欠落していたのです。

 それが「自然」であることは、誰もが薄々とは感じてはいました。

 しかし、その「自然」とて、「お金で買える」とうそぶいてきていたんです。事実、小さな子どもをもつ若い夫婦は、休日になると家族で山や海に出かけます。その感覚は、ちょうど泳ぐ魚を見学するために「水族館」へ行く…、その感覚と同じです。

 そう、山や海という自然は「見学」の対象でしかなく、自身の体感をもって正しく対峙する対象ではなくなってしまった…。つまりは私たちがとっくに忘れてしまっているところの「自然の別の次元」…、都会育ちには「自然の負の側面」としか思えない、「過酷」や「規則性と不規則性」を、その体をもって感じることができない程度の「見物の対象」にしか自然がなり得ていないことに改めて気づくのです。

 グランピング…、別名「不便でないキャンプ」は、このようにして都会人のコンプレックスとなりつつあった「自然」を商品として販売することに成功した事例です。

 私たちの脳は、洪水のように溢れ湧き出てくる「情報」を無意識のうちに処理しながら、日々アップデートし続けているんです。それをしなければ現代社会では遭難してしまうのではないか…、そいう強迫観念から、それを続けています。

 誰かが言ってました。

 現代人の1日あたりの情報処理量は、江戸時代人の1年分にも相当し、平安時代にまで遡れば、なんと平安時代人の一生分にもなるんだってことです。それほど「脳=頭」はアップデートを続け、進化したかのように思われるのですが…。

 「体はそうはいかない!」と、声を大にして主張しているのが解剖学者の養老孟司氏です。

 「人間の体は太古の昔に獲得したものとほぼ同じ状態におかれている」のであるから、体を通じて脳に与えられる「感覚」は遠い昔のまま…、であると養老先生は指摘します。

 つまり私たちは、当然のことながら未だに「自然と繋がった状態を保っている体」と「強引にデジタル化を余儀なくされAI化していく頭」とが完全に分離したままで人間としての生活を余儀なくされているのです。

 そいうった現代人の、特に都会に生活する人々の「異常」を私たちに知らせてくれているのが…、そう「子ども」なんです。

 その意味で、高校生といえども「子どもの最終段階」である都会人に、至近距離で日々付き合うことができる私の立場は、実はとても重要です。彼らの発する「異常」を正確に感知する責任があるからです。ちなみに彼らの大半は、その「異常」を自覚していないのですから、当然にそれを言語化することはできず、であるからこそ私たちの観察が重要なのです。

 都心でマンションに住まう高校生の特徴(異常?)、その① エアコンの設定温度にやたらと敏感である。窓を開けて自然の風(空気)を教室内に入れ込むことを嫌がる。その② 授業中の発言の声が異常に小さい。お腹から声を出して喋る生徒との音量の差が歴然である。その③ 虫を毛嫌いする。すべての虫を「害」であると思っている節がある。その④ 汚いものを素手で触ることができない。よって道具を使った掃除以外はできない。つまり雑巾を使った拭き掃除を極端に避ける。

 このような「異常のシグナル」は、ほぼ間違いなく「自然欠乏症候群」(養老先生による)からのものであると断言することができます。①③④は、それがそのまま自然界では生きていけない決定的な要因となり得ますが、それらと比べて②の現象は少し複雑なようです。

 つまり「声の音量」は自然に還れば本来のものを取り戻せるのではないかと思われますが、実はそうでもないようなんです。

 蛇足ですが、私は10年間ほどゴルフ部の顧問をしていまして、そのお金のかかる活動をできるだけ部費だけで賄おうとして、休日のゴルフ場で、部員にキャディーをやらせる代わりに午後からは自由にラウンド練習してもいいよ…、という契約の元で練習させていたわけです。

 キャディーの「いろは」ならば、上級生が下級生に教えることができます。しかし「声出し」だけは「教えられません!」と上級生が困った顔で相談にきました。

 「声出し」とは、先行するプレイヤーに危険を知らせるあの「ファー!」ってヤツですが、それが物理的に遠方のプレイヤーに聞こえないとなると、もうこれは安全保障上の大問題なわけです。

 そういった新入部員が毎年のように入ってくるようになりました。で、面談をするんです。

 その結果、そういった「声の出せない生徒」の100%が、マンション住まいでした。

 しかも、ここからは主観が入りますが、たぶん幼少期から「多分にお母さんの手が入った」状態で子育てが為されている…、つまりは過保護状態で育ったわけです。だから何もマンション内で「大声を出す」ことなく、つまりは危険を知らせる必要がない状態で高校生にまでなってきているのだと私は判断したのです。

 それを知った時、私は、「完全に自然界と分断された子どもの実例(大げさですが…)」を認識しないわけにはいきませんでした。ちなみに「声出し」は、その声帯の使い方と声帯そのものを鍛えなければならず、早くても数ヶ月の訓練が必要となりました。

 子どもは、「うるさい!」「騒々しい!」ものであったはずです。それが「自然な状態」であり、それを担保していたのが学校であり地域社会でした。

 幼稚園や学校の「休み時間」に、その園庭や校庭で嬉々として遊ぶ子どもたちを思い出してみてください。もう騒音の中にいる状態です。町中に声が響いているような感じです。

 そういった子どもの「自然」を忌諱したのが、大人がつくった社会です。幼稚園や学校の近くの住宅物件の価値が低いのは、間違いなく「子どもの騒音」のせいです。実際に販売価格は下がるのだといいます。

 そうった「異常」を、今、若い世代の家族が敏感に察知し、都会からの脱出を図っている。そのこと自体はとても健全な傾向ではあります。

 「年収は300万円に下がりますが…、ナニか?」
 「その収入で生活できるところで生活をする…、そしたらそこは『自然』と繋がっていた。ただそれだけのことです。」

 こういった思考に辿り着いたのはとても良いことです。そしてそれを後押しするのが「SDGs」的な考え方であるならば、いろんな問題もあるでしょうが、SDGs…、大歓迎ですね。


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