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戦争を経験した101歳が記者に教えてくれた言葉。そして、偶然の連続が導いた奇跡とは…

「人生は宝物を作る過程です」

これは、戦争を生き抜き、地域の歴史を本に記し続ける101歳の男性からいただいた言葉です。

私の胸に深く残り、思い出すたびにやさしい気持ちになれます。

今回のnoteでは、記者が偶然の連続で101歳の小野寺宏おのでらひろしさんと出会い、さらなる奇跡のような偶然で、約900年の時を経て、平安武士の兄弟の末裔が巡り合うことになった物語をご紹介します。

小野寺宏さん

■ 陸軍士官学校56期生との出会い

こんにちは。大阪社会部の中川玲奈なかがわれなです。

私は大学時代、日本史を専攻していました。

アジア・太平洋戦争に行った戦争経験者の話を聞きたいと思い、入学をきっかけに戦争に行った人を探しました。

その中で戦時のエリート養成校、陸軍士官学校の56期の同期生会の方々と巡り合いました。当時は94歳前後の56期生が市ケ谷に集い、自身の経験を話したり、近況を報告したりしていました。

「陸士卒業後、前線の指揮官として戦場で戦った」
「56期生は卒業生のおよそ半数が戦死している」
「戦後、離散した56期は全国同期会を結成し、高野山に慰霊碑を建てた」

話を聞くうちに、22~23歳で陸軍大尉として終戦を迎えた彼らのことをもっと知りたいと考えました。高齢になっても、遠い人では片道2時間くらいかけて、月1回の同期生会に通う結束の強さも特別に感じました。

陸士56期生の同期生会=2017年

私は経験を聞き取り、卒論にまとめようと思いました。ただ、陸士や当時の社会状況については、別に一次資料に当たらなければなりません。

どこからどう探そうか…と考えていた頃、知人の紹介で戦没者の遺骨収集に参加し、訪れた東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)で、父親が戦死したあるご遺族と出会いました。私は日本近代史を専攻していると話し、ひょんなことから陸士56期の話になりました。すると「私の義父が56期生です」と。世間は狭いものです! 

それから少しして話が進み、ご遺族から56期関連の本を貸していただきました。さらに「同期生が作ってくれた義父の追悼録がない。作った方が仙台にご存命だから連絡してみる」と提案されました。ご遺族が連絡を取ったのが、冒頭の小野寺さんだったのです。

■ 文通、そして記事を書く

2020年の6月のことでした。「あなたが聞き取りをした○○さんと○○さんは、私と同じ中隊や学班でした。両人はもう故人になられました」と始まる手紙から小野寺さんとの文通が始まりました。

小野寺さんは偶然にも、陸軍幼年学校(ここを卒業した人は陸士に進む)の資料集を作っていて、幼年学校や陸士の成立・教育課程に詳しく、私は何度も資料提供やアドバイスをいただき、助けていただきました。

卒論は無事完成。「よくやりました」と温かい言葉が記されたお手紙をいただきました。「卒論はあなたの宝物になりましたね。人生は宝物を作る過程です」

新型コロナウイルスの流行もあり、小野寺さんに実際にお会いしたのは、共同通信に入社し青森支局に赴任した後です。定年前に歴史を大学で学び直し、定年後から地域の歴史などを紡いできた小野寺さんのことを記事に書きました。

(有料記事ですが、以下のリンクからもご覧いただけます)

小野寺さんは約35年間で15冊も自身で本をまとめられました。一番大変だったのは家系図で、家によって系図が違い、何度も「もうやめよう」と思ったそうです。それでも、地域の人にしか残せない歴史があり、記録は人の生きた証しになるという思いから編集を続けてきました。

心に留めるのはたおれてやまず」の言葉。陸軍幼年学校卒業時のアルバムにも書きました。その時の「斃れる」は「戦死」を指しましたが、今は「自分の生涯が閉じた後も…」ということ。書き残した記録は小野寺さんが亡くなった後も残り、後世に必要と思う人が現れれば、自分のまとめた本を参考にしてほしいと願っています。

「私がまとめた本は、私の宝物です」と手紙にありました。

(「鬼滅の刃」の登場人物、煉獄杏寿郎の好きなことわざは「たおれて後已のちやむ」でしたね…)

■ 900年の時を経て

小野寺さんとの偶然はまだ続きます

前述の記事を読んだ大阪の読者から、会社に問い合わせがあったのです。

「小野寺氏と山内氏は昔の兄弟かもしれない」

記事中に、小野寺さんがまとめた1200ページの大著「中世の小野寺氏」を紹介したところ、これを読んだ大阪府豊中市の山内研治やまうちけんじさん(88)がピンときたというのです。山内さんも70歳のから家系の歴史を調べていました。この記事を読んだときはちょうど平安時代にさしかかったところ。思い立って、記事が掲載された新聞社に問い合わせたというのです。

山内研治さん=2022年

詳しい経緯は下の記事にまとめています。


記者を介して山内さんは小野寺さんに手紙を出しました。すると、小野寺さんからは明快な答えが返ってきました。

「小野寺氏の初代・小野寺義寛おのでらぎかんは、山内首藤やまのうちすどう氏の流れをくんでいます。山内首藤俊通としみちの弟とされています

実は、山内家に伝わる系図には、兄弟との表記があったものの、中世に作られた系図集の権威「尊卑分脈そんぴぶんみゃく」にはその記載がなく、はっきり確かめることができずにいました。

山内さんは、小野寺家に伝わる系図に兄弟との記載があり、義寛の推定生まれ年が1124年であることから、俊通と実の兄弟関係であることが確信できたといいます。

小野寺さんの著書「中世の小野寺氏」に載る家系図

2人は文通を始めました。

山内さんも自身の家の歴史を本にしようと、編集を続けています。
「歴史音痴の私が歴史を調べていて、アホと違うかなと思うこともありました。90歳までに完成させ、小野寺さんにも読んでもらいたいと思っています」
「(小野寺さんは)他人とは思えない。遠い昔の子孫がいるというのは、なんとなく心強いです」とほほ笑みます。

山内さんが小野寺さんとの文通で受け取った手紙の数々

私はこんな偶然もあるのだと驚きました。

ネットの記事には「偶然と見えて必然」というコメントも寄せられました。本当にそうだなと感じます。

小野寺さんのことを知り、1年近く文通を続け、記者になってから初めてお会いしました。そして取材を続け、また新たな物語が生まれました。

卒論を書き終わった後、小野寺さんからいただいた手紙にはこのような言葉もありました。

「はじめ、中川さんが卒論を書かれると知り、戦没者の遺骨収集に行かれていることに感謝して協力しようと思いました。
中川さんとの出会いは偶然です。あなたが遺骨収集に行っていなければ。○○さん(ご遺族)と出会わなければ。その方と56期の話をしていなければ。○○さんが追悼録を持っていたら。私にたどり着くことはなかったのです。偶然にも私は幼年学校を調べていて、陸士の資料を持っている。他の56期生にはいない人にぶつかったという「運」です。不思議です。よくやられました。56期のことを書いてくださり、感謝します」

全ては偶然。

私が遺骨収集に参加しなければ、
小野寺さんに出会わなければ、
記者になって小野寺さんを取材しなければ、
山内さんがその記事を読まなければ…

一つでもタイミングがずれていたら、この物語は生まれなかったと思います。

小野寺さんが語る言葉一つ一つが私に響き、「人生は宝物を作る過程」という言葉は私の心に常にあります。つらいことも悲しいこともある人生ですが、自分の宝物はなんだろう。そうやって考え、ふと立ち止まることのできる、自分の羅針盤のような金言です。

小野寺さんと筆者=2023年、仙台市内

中川玲奈(なかがわ・れな)=1997年生まれ、2021年に入社し青森支局を経て、大阪社会部。関西空港を担当しながら警察や行政を取材。趣味の剣道はサボり気味ですが、各地の温泉・日本酒巡りは続けています。

中川記者はこんな記事も書いています。


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