僕たちはまだ月にあなたを思うことができるだろうか 日々風呂日記#26
松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉の 過(す)ぐれや君が、逢はぬ夜(よ)ぞ多き
松の葉にさす月の位置も変わって行き、黄葉(もみじ)のように去って行ったあなたに逢わない夜がずいぶん多くなってしまった。という意味。らしい。赤葉が散るようにあなたがいなくなってしまったということを、月を見て思うこと。
ぼくたちは月を見て何を、誰を思えるだろうか。
和歌
ぼくは和歌が好きだ。昔から国語が割と好きだったけれど、その中でも和歌、基本的には百人一首の授業を聞いた時、とても不思議な気持ちになったのを、割と今でも覚えている。その感覚が何なのかわかったのは割と最近なのだけれど。
風景
和歌は、朝露といったほんとにミクロな世界から、山を越えて月までも達する意識が描かれている。その風景的意識の広がりは、とても豊かでとても美しい、と思う。今は情報の時代になって、手元の小さな世界から世界中という果てしない遠くまでを知ることができるようになった。でも、それは知ること以上に何か実感を持って感じられる豊かさだろうか。
どんな些細なありきたりな風景であっても、ぼくたちは風景を見て何かそこにある視覚的なもの以上に何かを思えるだろうか。時が経つにつれて違う傾きを見せていく月に、あなたとの時間的空間的距離を思えるだろうか。
形式
ぼくは和歌のその風景的な意識の広がりと同じくらい、和歌が5.7.5のとても形式的である事に惹かれている。もちろん変則的な方の詩だって沢山あるけれど、それも基本形があるからこそそれと対比されて現れる崩し的な面白さが多い。
ぼくは形式的なことは、不自由さではなく、自由でありながら共感できることだと思っている。その型の中で無限に想像はある。その上でわかりやすく共感しやすいこと。それは、複雑でわかりやすい、多様な様相を呈している。
歌
さらに和歌は歌だ。時には音楽に乗せて唄われるだろうし、そのまま読む時だって語感によって、それ自体に音の抑揚がある。歌はいい。音という直感的感覚と、詩という意味的世界が重なり合って豊かな世界を作る創造だ。それもまたわかりやすくって、でも複雑な、そんな豊かさに溢れた創作表現だ。
もちろん、小学生中学生の時に国語で和歌を聞いてこんなことを考えたわけではない。けれど、そこに広がる風景的な、地球的な広がりのコスモロジーは直感的に良いなと思っていたんだと思うし、今とあまり変わらない気がする。
今日は曇って月が出ていなかったけれど、和歌を通してぼくは月だってあなただって思うことができるのだ。
今日ののぼせ具合は90%
まだまだ寒いから、体調気をつけましょうね。
それではまた明日。おやすみなさい。
これだって人が作り出した光だけれど、僕らにとってこれが生まれた時からある、ある意味自然であるとすれば
この光を見てあなたを思いたい。月が綺麗ですね、って。
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