花さか天使が教えてくれた「才能」について、20年以上経ったいま僕が思うこと
10人に伝えて2人。
多くて3人が知っている。
「花さか天使テンテンくん」という名作漫画についての個人的な統計データである。
(いや、なぜこんなに伝わらないんだ!90年代を代表する素晴らしい漫画なのに!!)
いかんいかん。寂しさゆえに少し取り乱しそうになったが、本筋から逸れてしまいそうなので、ここでテンテンくんを出したその理由に話を戻そう。
まず、あらすじはこうだ。
そうだ。あやうくテンテンくんについて語って今日のnoteを終えようとしてしまったが、もともとは「才能」について書きたかったのだった。
テンテンくんと出会ったのは小学四年生。きっと私にとって「才能」という言葉をちゃんと意識したのはテンテンくんを読んだときがはじめてだった。
才能は自然とやっちゃうこと
それから「才能」という言葉には人並みに振り回されてきた。
「俺は天才」だと無根拠に思い込んだときもあったし、才能がないと落ち込んだときもあったし、自分の才能ってなんだろうと思った日もあった。ロック・リーが「努力の天才」と言われた時は「努力できることも才能なのか!」と頭の中でコペルニクス的転回があった。
いまは、才能を「その人が自然とやっちゃうこと」と言い換えている。あるいは、頼まれてないのにやっちゃうこと、頑張らなくてもできちゃうことでもいい。
そうするときれいごとを言いたいわけではなく、基本的に才能はみんな持っているというのが前提になる。別に誰かと比較して1番になる必要はないからだ。もう少しだけ、才能について書いてみる。
自由に解き放たれたとき
私が好きなのは、誰かの才能が自由に解き放たれているときだと気づいたのは、社会人を6年ほど経て、つい最近のことである。
その人が本来自然とやっちゃうことがそのまま解放されている瞬間。多くはないがそんなシーンをいくつか見てきた。
インタビューをしながら、聴くことの才能がある人(スキルのように聞こえてしまうが、それ以前に、前述の通り自然とやっちゃう人のこと。あるいは聴くのが好きで、周りからも求められる人)が、望めばその才能を活かしながら食べていける世界を目指している。
そんなふうに大きく構えたことを言っているが、実情はまだ自分一人もおぼつかない状態だ。なので、こんなこと私が言ったところでねぇという気持ちはきっとしばらく付き纏ってくるだろう。
でも、口に出したら何か変わることもある(はず)。まずは思ってること、考えてることを、これからもここで言っていこうと思う。
あらためて。
インタビューで食える人を増やしたい。
その才能がある人が、それを解き放ってほしい。善人として言ってるのではなく、他ならぬ自分自身がただその風景を見てみたいから言っている。ただの自己中な話なのだ。
テンテンくんがいたら、僕に何の才能があるというだろう。分からないままに、不安も連れて、まずはもうちょっと走ってみようと思う。明日は一日休んで(東京へ!)、また来週から頑張ろう。
22/06/25
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