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『だるまさんがころんだ』
ノスタルジーという感情がある。
『なんだか懐かしい』という感覚のことだ。
よく耳にする事はあったが、ああいった感情はもう少し大人になって、年をとってから湧くものだと思っていた。
しかし俺がそれを感じたのは高校生の段階だった。
俺の家までの通学路には小さな古い神社がある。
古いとは言っても、きちんと神主はいて、初詣や七五三などを行っている地域に親しまれている神社だ。よく地区の『子ども会』がそこで催されたりもしていた。
小学生の頃はよく友達と学校帰りにそこで遊んでいた。
神社というものは周りは木々で覆われていることが一般的で、例に漏れずこの神社もそのような造りだ。
そのため、境内で遊べる範囲は階段を上がった拝殿前の狭い範囲だけだった。
その範囲で『鬼ごっこ』や『はないちもんめ』だとか、『だるまさんがころんだ』などをして遊んでいた。
夕暮れ時の帰り道、その神社が夕陽に包まれているのを見て、「そんな小学生時代を過ごしたな」と足を止めた。
夕日の中というのは、なんとなくセンチメンタルな気分になる。無性に懐かしい気持ちがあふれてきた。
「これがノスタルジーってやつか」と一丁前に思っていた。
それで寄り道をして境内に入った。
もう日が沈みかけていたから、俺以外には誰もいなかった。
秋の虫の声だけが鳴く静かな境内を一人でぶらつきながら、「あの頃と変わらないなぁ」と感傷に浸っていたんだ。
……それだけにしておけば良かったんだよなぁ。
その時点で帰っておけば良かったんだ。
その神社には、大きな杉の木がある。もちろん神社には他にも木はあるが、先ほど述べた『拝殿前の遊べる範囲』の一番右端あたりにある。
そのため、右端の杉の木に鬼がへばりつき、他の者は左端からスタートすると直線で『だるまさんがころんだ』が出来るのだ。
俺は杉の木に近づいて、あの頃を思い出しながら、「だるまさんがころんだ」と声に出して振り返った。
境内には俺ひとりだけだったはずだ。
拝殿前に来るには階段を上がってこないといけない。そんなやつはいなかった。
振り返っても、本来は誰もいないはずだ。
それなのに……誰かが立っている。
境内の左端のスタート位置、そこに誰かがいる。
もしかしたら見間違いかもしれない。
俺はもう一度、杉の木に向き直し、今度は何も言わずに振り向いた。
そいつは動かず、そこにただじっと、じっと俺の方を見ていた。
俺はまた杉の木に向き直し、次は「だるまさんがころんだ」と言って振り向いた。
近づいてきている。
そいつは動かない。
じっとこちらを見つめてくる。
だが、最初の位置よりこちらに、俺の方に向かってきているのは明らかだ。
気がつけば俺の足は動かせなくなっていた。動かせるのは上半身だけ。
俺は理解した。
嫌な汗が止まらない。
俺と得体の知れない奴との『だるまさんがころんだ』が開始された。
そして、俺が《鬼の役》だ。
鬼が勝つ条件は、振り向いた瞬間に相手が動いたことを指摘すること。
《だるまさんがころんだ》
この10音を発音する間だけ相手は背後で動くことが出来る。
この10音をどうやって使い、相手が動くのを視界に入れることができるか。
俺とあいつ。
2人しかいないから、相手が近づき、タッチされたら俺の負け。
もし、負けてしまったら……。
緊張感で吐きそうだ。
こんなことは久しぶりだ。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
解放されるには、勝つしかない……。
「だるまさんが、ころんだ!」
俺は出来るだけ「ころんだ」を早口で言ってから即座に振り向く。
更に近づいてきた相手を見る。
しかし、動いてはいない。
うっかり動いたりしないよう、ゆっくりと安定した姿勢で俺の方へ近づいているんだ。
相手との距離は現在5メートル程度だ。
ここまで近づいてきたのではっきりとその姿が見えた。
そいつは全身黒を身に纏い、目を見開いていた。ギョロギョロとした瞳で俺の方を凝視している。身体を動かさないよう、「はぁ……はぁ……」と息を洩らしている。
それから低い声で「……なぁ。おい、なぁ……助けて、くれ……」と話すのが聞こえてきた。
俺は恐怖で叫びそうになるのを必死に抑えた。
何を言っているんだ。
助けてほしいのはこちらの方だ。
「だ……る、まさんがころんだ」
色々工夫して言ってみるが、相手の動く瞬間を捉えることが出来ない。
こいつはもう僅か3メートルほどの位置にまで寄って来てしまっている。
この距離でじりじり近づいてこられたら、ただ時間だけが過ぎていく。
日が沈んでしまう。
暗くなったら視界が悪くなる。
そうなると動いたのを確認するのが難しくなってしまう。
日が完全に落ちる前に、夜が来てしまう前に……こいつに勝たなくてはならない。
どうして『だるまさんがころんだ』には時間制限がないんだ。
早くここから出たい……。
俺は泣きながらそう思った。
冷汗が止まらない。
自分も「はぁ……はぁ……」と肩で息をする。
俺は息を整え、相手に背中を向ける。
もう考えている時間もない。
俺は早口で発音しようとした。
「だ──」
その瞬間、背後でズザッという地面の砂利が飛び散る音が聞こえた。
こいつはあろうことか、走り始めたのだ。
しかしこの距離で走り始めたのはこいつの判断ミスだ。
タッチされる前に振り向けば、必ずこいつは止まった時の反動で身体が揺れる。
それを指摘すれば俺の勝ちだ!
「──るまさんがころんだ!」
そういって勢いよく振り向き、指をさし示した。
「勝った! 俺の勝ちだァ!!」
俺は叫んだ。
やっと解放される!
「え……、ど、どこにいった?」
振り向いた先に、奴の姿はない。
「ど、どこにいったんだ……」
鬼は、相手が動くのを視野に入れていなくてはいけない。
「そ、そんな……」
足元に、生暖かい感触が伝わった。
「おい、何やってんだ」
友人らしき声が聞こえた。
その声にばっと振り向く。
「はぁ……はぁ……」
「どうしたんだ、そんなに……」
「…………怖かった……」
「は?」
「……お、俺、得体の知れないものと《だるまさんがころんだ》をしていた」
「はぁ?」
「境内に入ったら、動けなくなって……知らないうちに《だるまさんがころんだ》をしていたんだ……」
「…………」
鬼気迫る表情に、冗談だと思っていた友人も言葉を失う。
「でも…………勝った」
「え……」
「勝ったんだよォ! 俺は《勝った》んだ!」
泣きながら友人の両肩を《そいつ》は揺さぶっている。
「俺は《タッチ》した! 鬼に勝ったんだ! し、死ぬかと思った……負けていたらどうなっていたんだァ? なぁ、おい!」
「お、落ち着け」
「でも勝った……。助かった……ああ、は、早く……早くここから逃げないと……早くここから逃げないと!」
「おい、待てよ!」
「うわぁぁぁぁ!!」
そう言ってそいつは友人と一緒に走り去ってしまった。
俺は、負けた。
せっかく獲物が来たのに。
次の鬼にできると思ったのに。
地域に親しまれていた神社もすっかりさびれてしまった。
神主どころか管理人もいやしない。
滅多に人は来やしない。
あいつは久々に来た人間だったのに。
俺はいつまで鬼をやればいいんだ。
いつここから出られるんだ。
あの時やめておけば良かった。
あの日、高校の帰り道、興味本位で《ひとりだるまさんがころんだ》なんかしなければ良かった。
あの時も同じようなことが起きた。
俺はその時に負けて、もうずっと鬼の役をやらされている。
もう何十年もここから出られていない。
早く、だれか。
誰か変わってくれよ。
鬼の役を。
誰か、誰か……。
ここから出してくれよ……。
おしまい。
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