夏花

[掌編]


 湿気を含んだ空気が肌にべたりと纏わりつく。
 腕を絡めるカップルや、子どもの手を引く親。沢山の人が目の前を横切り、ざわざわと騒音が耳に響いて離れない。
 ふと甘い香りがしてそちらに目を向けると、クレープの屋台に列ができていた。
 その向かいの屋台では父親が子供に射的を教えている。
 待ち合わせの時間まではあと五分。もう何度も時計を見ては左右を確認している。
 風に乗ってかすかに俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。辺りを見回すが、声の主は見当たらない。
 どうやらまた空耳だったようだ。
 そわそわとしている自分がなんだか恥ずかしくなってくる。
 とんと背中に何かが当たった。誰かにぶつかったのか。
「あ、すみません」
 謝罪をしながら振り返ると、目線よりも少しだけ低い位置に頭の天辺が見える。
 にっこりと満面の笑みを浮かべてこちらを見上げる彼女がそこにいた。
「こんばんは」
 待った?と続ける彼女に、言葉もなく首をぶんぶんと横に振る。
「変かな?」
 視線に気づいた彼女は袖を持ち上げ、自分の姿を見下ろしている。
「そんなことない。似合ってる」
 なんと気の利かない言葉だろう。けれどそれほどに彼女の浴衣姿に見惚れてしまっていた。
 行こうか。そう呟くと、楽し気に前を歩き出す。ずらりと並ぶ屋台を覗きながらいそいそと進んだ先には浜辺が広がっていた。
 途中で買った焼き鳥とジュースを持って、広げたシートに腰を下ろす。
 しばらくすると、すぐにどんと大きな音が心臓を叩いた。
 咲いては散り、咲いては散りする空の花。その明かりのせいだろうか。君の頬が赤らんで見えた気がした。
「綺麗だね」
「うん、そうだね」
 なんて呟いてみるけれど、花の咲く音も輝く大輪も、何も俺の中には入ってこなかった。
 だって、君の声が頭に響くんだ。君の俯き加減な微笑みが視界を独占してしまうんだ。
 どうしよう。
 ありきたりな言葉だけれど、このまま時が止まればいいのに。

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マガジン『世界の欠片』

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