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野仲 ちえ「未来へ届く歌声」

1.透き通るような歌声

私が私を 満たすことで
あなたにあなたに わけてあげる
あなたの心が 満たされたら
あの子の心に 愛が届く
そんな世界を 子供たちに
そんな世界を 子供たちに
繋ごう 繋ごう

透き通るような伸びやかな声が、耳に心地よい。

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野仲ちえ(のなか・ちえ)さんが、歌う歌詞の一部だ。

野仲さんは、これまで続けてきた歌い手としての活動とコーチングを組み合わせ、お客さんとの対話を通じてその思いを世界にひとつだけの歌にして届けるというサービスを始めている。


2.音楽への目覚め

野仲さんは、大阪府堺市で1983年に2人姉妹の次女として生まれた。

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「小さい頃は、とにかくマイペースで、いつものんびりしているとかボーッとしているとか言われていました。でも、一度やり始めると最後までやり遂げなきゃ気が済まない性格で、小学校の図工の時間などは、昼休憩になっているのに自分が納得するまで絵を描き続けていたんです」

野仲さんが通った中学校では、ひとつの小学校だけがそのまま持ち上がりとなっていたため、9年間同じメンバーで学生時代を過ごした。

中学校ではバレー部に所属し、緊張感のない部活だったので、友だちともよく遊んでいたようだ。

高校は堺市にある府立高校へ進学した。

高校でもバレー部に所属したが、ハードな練習についていけなくなり、硬式テニス部を経て、最終的には軟式テニス部へ入部した。

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そんな野仲さんが音楽に興味を抱いたのは高校1年生のときからだ。

姉の影響で音楽が好きになり、姉と一緒に4人組ロックバンド「THE BOOM(ザ・ブーム)」に熱中し、ライブへも足を運ぶようになった。

ライブ会場で手にしたチラシで、そこから他のアーティストのライブに出かけることも多かったようだ。

「THE BOOMのヴォーカル、宮沢和史さんがつくる歌詞に自分の気持ちを投影して、まるで自分がその世界の主人公になった気分でいましたね」と笑う。

父親から譲り受けたギターを弾き始め、将来はミュージシャンになることを夢見ていた。


3.楽しかったはずの音楽だけれど

卒業後は大阪府豊中市にある大阪音楽大学短期大学部へ進み、ポピュラー音楽のヴォーカリストとしての勉強を始めた。

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歌うことが好きで入学したものの、歌唱技術を要求されたり間違いを指摘されたりするなかで、次第に歌うことの楽しさを見失ってしまったようだ。

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そうしたときに逃げ場となっていたのは、高校3年生のとき、友だちと結成していたバンド「そら」だった。

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オリジナル曲を演奏し、2年生の始めまで活動を続けた。

卒業後は、1年間フリーターとして働いていたが、次第に両親から「将来どうするつもりや」と詰問されことを窮屈に感じるようになり、実家を離れて自分の力で自立していくことを決意。

小さいときからペットを飼うなどして動物に親しみを持ってきた野仲さんは、音楽の次に自分が進みたい道を考えたとき、それが動物医療の分野だった。

「当時、飼っていた犬が重い心臓病を患って病院通いをしていたんです。母や姉が看護師として働いて、『医療』を身近に感じていたこともあったのかも知れません」

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翌年から動物看護師を目指して、大阪動物看護学院へ通学。

卒業したあとは、堺市にある個人経営の動物病院へ勤務した。

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4.もうひとつの「音楽」

ちょうど大阪動物看護学院へ通い始めた頃から、再び音楽活動をスタート。

梅田や難波のライブハウスで、オリジナル曲の弾き語りを行うようになったが、そこで目にした関西アンダーグラウンド・シーンに、野仲さんは大きな衝撃を受けたようだ。

「とにかく全てが刺激的でした。ひたすら叫び続けている人や楽器をたくさん並べて叩いている人など音楽に対する表現方法も多様で、そうした不完全な表現が、ひとつの個性として評価されていたんです。綺麗ごとばかりだけじゃなくて、みんな人間の内面の部分まで表現していて、『不完全なものってこんなに魅力的なんや、そしてこんな風に自分を表現していいんや』と気づいたんです」

短大時代には学校で推奨された歌唱法や発声法が求められ、そうした歌い方から外れてしまうことは駄目だとされてきた。

しかし、他の出演者やお客さんから曲や歌声を褒められる機会も増え、目の前には自分の歌声で心を動かされる人がいた。

その事実が、自信へと繋がっていき、一時は失いかけていた歌うことの楽しさを再び取り戻すことができたようだ。

1年ほど経ったとき、トランペット、ドラム、キーボード、ベース、そして野仲さんがギター&ボーカルという形で5人組バンド「アマリ」を結成した。

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トランペットを吹いていた1歳上の男性と恋に落ち、結婚。

バンド活動を休止し、2013年には長男を2016年には次男を出産した。

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5.コーチングとの出合い

次男を出産したあと、子育ての大変さを痛感するようになり、「自分以外にも大変な思いをしているお母さんたちが大勢いるだろうから、今度はその人たちを支援する仕事をしたい」と通信教育で保育士の勉強を始めた。

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そして「子育て支援の仕事に携わりたい」と、13年勤めていた動物病院の仕事も退職。

子育てについて自分なりに調べていくうちに、和久田ミカさんが代表理事を務める「子どものこころのコーチング講座」の存在を知り、大阪で開催された講座を受講した。

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「子育てを機に音楽をもう諦めていたんですが、コーチングで自分の思いを深堀りしていくと、『歌いたくて仕方ない』ということに気づいたんです。『もう一度、音楽をやりたい』、そんな思いが芽生えてきました」

そうした思いに気づくことができ、活動を再会しようと思っていた矢先に新型コロナウイルスが襲来。

緊急事態宣言により自宅待機が求められるなか、子育ての隙間時間に部屋へ閉じこもってアカペラで歌を歌い、それをフェイスブックに投稿したところ、「聴けてよかった」「癒やされた」など大きな反響があった。

自分の歌声を必要としてくれている人の存在を確信した野仲さんは、誰かのために役立てるような歌を歌いたいと、コーチングとオリジナルソングの制作をかけ合わせた活動を開始したというわけだ。

昨年9月には、「子どものこころのコーチング協会」のインストラクターへつくった歌が協会のPR動画のなかに採用されたことで、以降は企業や団体向けのサービスも始めている。


6.未来へ届く歌声

「ママたちは、子どもや家族のためにいつも一生懸命で、自分が本当にやりたいことが分からなくなるんですよね。でも、私のように自分のやりたいことをやることが、結果として人の役に立つことだってあるんです。コーチングの魅力って、その人の本心を引き出すことですから」

コーチングとは、対話を通してその人自身のなかにある気持ちや潜在的な能力に気づかせ、目標を達成するための支援方法のことだ。

一見すると、このコーチングと音楽は異なるもののように思えるが、実はとても類似性が高い。

どちらも視点を変えることで、新たな気づきが起こり、何かを発見したり、そこから新しいアイディアを創造したりすることに繋がる可能性を秘めている。

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そして言葉を伝える観点からすれば、歌うという行為は、より多くの人の間で共有することができるコミュニケーション方法のひとつだ。

誰かに何かを話すことに比べて、誰かに何かを歌うことは、自分のことを開示するという意味でも、その親密度は圧倒的に高い。

そのように考えていくと、歌うということが、どんなに相手の心に深く届けることのできる表現なのか分かるだろう。

ただ言葉で伝えるだけではなく、メロディーに乗せて届けられる心のこもった歌声がある。

そこに僕は野仲さんの相手に対する優しさと思いやりを感じてしまう。

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自分のためだけにつくられた彼女の歌は、きっと僕らの未来を明るいものへと書き換えてくれるはずだ。



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