昔の友人達に会いに行きます

「走らせている人」の話を知っている方もいるだろう。

私もかつて、「走らせている人」の一人だった。

隣県へ向かう電車に乗る時、当時夢中になったゲーム「ドラゴンクエストモンスターズ」の手持ちパーティの彼ら(ミミック、ふゆうじゅ、ゾーマ)に、外の景色を走って貰っていた。
ゲームのシステム上、どのようなモンスターも「すばやさ」をMAX(このゲームでの最大値は511だ)に出来るゲームなので、ごく自然に走ったり跳ねたりさせていた。彼らなら当たり前に出来ることだ(と思い込んでいた)。息も切らさぬ。彼らにとってはアトラクションだ。「電車に乗ってはいけないから」的な理由も作っていたような気がする。

走らせるに限らず、学校なんかでも一緒にいた。いつでも側に現れて貰った。多分、退屈な時に召喚していたのだろう。
言うなれば、思考力を全て彼らの召喚に使っていたのである。絵や漫画も描いていた。

(電車内での行動は「外の景色を眺める」しか知らなかったのです。絶好の召喚環境です)

* * *

さて、前回。私は電車に乗った。
そういえば私は、走らせていなかった。

理由は単純で、「別のことを考えていた」のだ。
では何を考えていたのかというと、「今日の出来事を、どうTwitterでつぶやこうか」などと考えていた。
Twitterというコミュニティへの参加(自分を中心とした交流)」が自然になっていたのだ。

「コミュニティへの参加」の代償に、彼らはいつの間にか消えていた。
私は一人になってしまった。

ある意味、「現実社会への順応」のようなものには成功しているのかもしれない。
私は昔、「現実社会への参加」がとても苦手だった。
コミュニティへの参加や他者との交流というのは、とてもエネルギーのいるものだ
しかしながら、それらが一切ないというのも退屈なもので、彼らを召喚していたのではないかと思う。

その召喚技術は、私の創作能力にも通ずるものなのだろう。
なぜなら、私は今、Twitterや労働が楽しい代わりに、創作に身が入らず困っているのだ。(「職場」も一つのコミュニティだ)

コミュニティへの参加がいけなかったのか?

違う。

一つのゲーム作品もまた、「世界」という名のコミュニティだ
そして本来データだけの存在である彼らに、私は人格を感じていた。彼らはゲーム内でも親しげだった。画面の中から私に「たまにはお肉ちょうだい」などと訴えていた。
先程から「召喚」という語を使っているが、私は「彼らをゲーム上から現実に召喚できる魔法使い」という設定を自分自身に与えていた。
そうして彼らと共に過ごすのも、「交友」というコミュニティだ

私はかつて、それらのコミュニティを、とても楽しんでいた。「現実に存在するコミュニティへの参加」が一切成功しなかったからだ。
それを今、少しずつ順応できるようになったから、現実のコミュニティへ流れていっただけのことだ。
気付けば所属するコミュニティが変わっていただけのことなのだ。

(※ここではリアルとネット、両方を「現実のコミュニティ」ということにしています)
(※一方で「自分のサイト」というコミュニティを持っていたのですが、それはまた別の話)

だけど、安心してほしい。私はこうとも考えている。

ならば、もう一度、彼らに会いに行けばよいのだ
実のところ、キャラクターへの扱いはどこまでも私一人の都合であり、「友人」と呼ぶにはあまりにも利己的で一方的になるが、もう開き直ってしまえ。彼らは私を快く迎えてくれる。私のためなら死んでくれる。そう思え。思いやがれ。そして行け。

私のような者が「本気を出す」なら、外部に気を向けてはならぬ。
いつまでも、どこまでも、自分の世界を育てるがいい。


(ドラクエモンスターズや彼らに限らず。私は物理的には「一人を好む」ということにしているが、参加コミュニティ自体はとても多いのだ)