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魂のパンをつくる人々

品川の商店街の一角にまもなく「草の葉ギャラリー」が誕生するが、私はこのnoteに幾度となく芸術の力を主題にしたエッセイを草している。今また新しいエッセイを植え込み、さらにすでに植え込んだ「なぜ芸術が私たちの住む村や町に必要なのか」をリプレーして、私の思想がこの大地にしみこむまで何度でも再生させていくことにする。圧倒的な世界に立ち向かっていくには、あきらめず、挫折しない魂が必要なのだ。

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 林業試験場の森を散策することが私の日課になっているが、その日の気分で、目黒通りまで足を伸ばし、木村さんの店に入って、ぼんやりと通りを眺めながらコーヒーを飲んだりする。その店に立ち寄るようになったのは、壁面に十四、五点の小ぶりの絵が架けられ、その作品の作者を紹介するような遠慮がちなボードも貼られ、ちょっとした小さな個展の場になっていて、二三週間ごとに変わるその作品を観るためでもあった。ときどきはっとするばかりの絵に出会ったりするのだ。それは木村さんの絵画を鑑賞する目がなかなか高いということなのだろう。

 木村さんはブロードウェイの舞台に立ったダンサーだった。ブロードウェイの舞台に立ったといっても、その他大勢のダンサーで、結局は三流のダンサーだったと謙遜するが、二十三歳のときニューヨークに渡り、四十代に入る直前まで現役のダンサーであったというから、これはもう本物中の本物のダンサーだった。四十代の半ばで日本に戻ってきて、その小さなレストランをもち、その店の壁面を画家たちに提供するようになった。だからその店はどこかニューヨークの匂いがあり、その壁面に飾られる絵も、ニューヨークで鍛えた目によって選択された絵なのだ。

 木村さんが日本に戻ってきたとき、ちょっとした遺産もはいったこともあって、画廊をつくろうと思った。その画廊とは、銀座に点在するようなすでに名を成した画家たちの絵画を売買するような画廊ではなく、無名の画家たちを援護し、彼らの作品を世に送り出すための画廊であった。なんでもニューヨークにはそんな画廊がたくさんあって、そこから若い無名の作家たちは世界にデビューしていく。だからその画廊にはいつも新生の熱気にあふれ、エキサイティングで、そしてそこがまた無名の画家たちの精神的な支柱になっていた。彼女自身があの生き馬の目を抜くばかりのニューヨークで、ダンサーであり続けてきたのは、芸術家を援護しようとするそんな環境で生きていたからで、日本にも無名の芸術家たちを支えるような、そんな場所をつくりたいと思った。

 彼女がそのような思いにさせたのは、もう一つの理由があった。木村さんには兄がいたが、彼が三十歳のなったとき自殺してしまった。画家として世に立とうと苦闘した絵がたくさん残されている。彼は画家だったのだ。残された絵を厳しい目で見るとき、その絵は独自の世界をつくりだした独創の芸術になっていて、それらの絵をその画廊から世に投じて、歴史のなかにとどめておきたいという強い思いもまた秘めていた。そこで日本に戻ってくると、そんな画廊をつくろうと試みたが、どうも日本にはまだそのような画廊ができるような土壌になっていない。そこでレスラトンを開き、その店の壁面によって、まずその土壌づくりをしょうということになった。そんなわけだから、その小さな店の壁はただの壁ではなく、彼女の人生を縫いこめ、さらには画廊づくりという希望へとつなげる壁面だった。

 いまではその選択に困るばかりに、多くの画家たちが作品をもってやってくる。この壁面に展示された絵が、雑誌の編集者や広告クリエーターたちの目にとまり、イラストの仕事を依頼されたり、また新聞やテレビなどに取り上げられたりして、無名の画家たちにとっては、ちょっとした作品発表の砦になりつつある。だからだんだん彼女の目指す画廊づくりが一歩一歩近づいていますねとたずねると、彼女はとんでもないと、ちょっと怒るようにまくしたてた。

「無名の画家たちを元気にさせるのはね、なんといってもその絵が売れるということなの。自分の描いた絵が売れるということが、無名の画家たちにエネルギーを注ぎこむのよ、だからね、あたしがこの壁に絵を飾っているのは、展示するということじゃないの。そりゃもちろんそのことに意味があるわよ、でも本当に芸術家たちを励ますのは、この絵に買い手がつくことなの、あたしのめざす買い手というのはごく普通の人たちなのよ、お花屋さんで、生活の空間をうるおすためにみんなお花を買うじゃない、そんな感覚で、ごく普通の人たちが、無名の画家たちの絵を買っていくという社会になってもらいたいの。そういう社会にならなければ、あたしのつくりたい画廊なんてできないのよ。

 あたしね、一点一点に値段をつけてみたことがあるのよ、八という数字は末広がりでいいから八ってね、八十万円じゃないわよ、そんなにゼロをつけたら普通の人には手をだせない、もちろん八千円じゃないわよ、八千円だなんて、そんな人を馬鹿にしたような値段なんてつけられないわよ、十八万円よ、一点十八万円なの、いつも十点ほど架けるから全部売れたら百八十万円だわね、五点売れたって九十万円になる、でも一点でもいいのよ、一点だけでいいの、画家たちにとって、自分の絵が売れた、十八万円で売れたという喜び、それは画家たちを興奮させるわよ、興奮以上のものを与えるでしようよ、無名の画家さんたちが、画家として生き抜くことのエネルギーのようなものをね。

 たったの十八万よ、十八万がどうして高いの、だれかがよ、このレストランで食事をするごく普通の人がよ、その絵を十八万で買ったということはね、あたしたちと同時代を生きる芸術家を、その十八万で生みだしたということなのよ、これってすごいことじゃない、あたしたちとともに生きる芸術家がここに生まれたのよ、芸術家を生み出す土壌をつくりだすってそういうことなの、グッチやシャネルのバックを、七十万八十万って大金を投じて、ごく普通の人たちがわんさか買っていく時代じゃないの、十八万なんてちっとも高くはないわよ、ごく普通の人たちが買える額でしょう、でも売れないの、一年に売れる点数といったらほんかのわずか、私がやってみたい画廊なんて、とてもこんな社会ではつくれないと思うばかりよ。

 あたしね、つくづくと思うのよ、日本人の絵に対する感覚っていうか見方が幼稚で貧しいって、あちこちに美術館があって、そこで年中いろんな美術展がひらかれていて、たくさんの人間がその絵を見にでかけるけど、それらの絵ってみんな有名な人たちの絵でしょう、一点何億という値がつくような絵ばかりじゃないのよ、それが日本人にとっては絵なのよ、そういうものが絵なのだと錯覚しているのよ、それがすごく幼稚で貧しいって思うの、あたしたちのまわりに画家はたくさんいるのよ、あたしたちといっしょに生きていて、この世は絶望だらけだけど、だからこそ光をもとめてすごい絵を描いている画家たちがほんとうにあたしたちのまわりにたくさんいるのよ。

 でも日本人はぜったいに彼らを認めようとしない、彼らってね、日本人にとって腐ったやつらなのよ、ちっともまともなまじめな仕事をしないで、落書きみたいな絵ばかり描いて、毎日腐ったような生活している。日本人はね、この人たちを画家なんて呼ばないの。腐ったやつらなのよ。冗談じゃないわよ。彼らこそ本当の絵を描いている画家じゃないのよ。絵を描くことによって人間になろうとした。そのことに人生をかけている。そう決意してそのことから逃げ出さずに絵を描いている。彼らを画家って呼ばないで、いったいどいつらを画家って呼ぶわけよ。日本人が彼らを認めないのは、彼らが無名であり、その絵が売れないっていうただのそれだけのことでしょう。そんなこと絵とはなんの関係もないことなのよ。

 日本人はゴッホが大好きだわよね。ゴッホの展覧会があると、どっと人であふれる。みんな感動するわけよ。これこそ本物中の本物の絵だ。ゴッホは偉大な画家だって。日本人の絵に対する感覚というか、鑑賞力っていうものが幼稚で貧しいっていうのはそのことなのよ。彼の絵が展覧会に飾られるようになったから、ゴッホは画家になったわけじゃないでしょう。ゴッホの生活はいつもどん底で、しょっちゅう弟にカネ送ってくれって手紙をだしてたぐうたら人間だったわけよ。それでも絵を描き続けた。だからゴッホは画家になったわけよ。貧乏のどん底生活のなかで、ゴッホは本物の画家になったわけよ。

 日本人はこのことがわかっていないの。そりゃあそんなこと頭ではわかっているわよ。でも結局はわかっていないの。日本人にとって画家っていう人種は、その絵が何百万何千万という値段で売れて、文化勲章をもらうような人が画家なのよ。あたしにいわせたらそういう人種はもう画家とよばないのよ。本物の画家はね、あたしたちの周囲にいるのよ。ゴッホは、あたしたちの隣りで生きているの。あたしたちはそのことをしっかりと知る必要があるのよ。知るということは頭で知るということじゃないのよ。彼らを知るということは、彼らの絵を買ってあげるということよ。彼らが苦闘しながら描いている絵を、ごく普通の人たちが買っていくようになっていくとき、この日本にも芸術が生まれていく土壌ができるはずなのよ。

 あたしが四十代に入る直前まで現役のダンサーであり続けたのは、ニューヨークで生きていたからよ。もし日本で生きてたら、そんなことぜったいにありえなかったわよね。とっくの昔につぶれてた。ニューヨークだから、そんなことができたの。ニューヨークで生きていたから、あたしはダンサーとしての自分を貫くことができたの。あたし、よく兄のことを思うけど、もし兄がニューヨークで生きていたら、あんなふうに自滅をしていくことはなかったかもしれないって。ニューヨークで暮らしていたとしても同じ結末を迎えたかもしれないけど、でもきっとニューヨークでならば、なにか自分のなした仕事を全部否定するような末路ではなかったはずなのよ」

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芸術家が芸術家として存在できる社会を作り出す

 画家という人種は数万人、あるいは数十万人も存在するのに、公的書類の職業欄に画家と書き込む人はそれこそほんの一握りであろう。大半の画家たちはその正体を隠して、会社員とか公務員とか主婦とか無職とか契約社員とか自由業とかサービス業とか書き込む。一点の絵も売れていない。公募展にだって落選ばかり続く。どうして画家と名のれようか。画家と書くことは恥ずかしいことだ。そもそもそんなことにどんな意味があるのか。売れない画家が社会に向かって私は売れない画家です宣言することが。その問題は一人一人が対決する個人的な問題であり、自己の内部でひそかにその意志を持てばいいことではないかと。

 しかしそうではなかった。あなたが画家であるならば、たとえ一点の絵が売れなくとも、たとえ生計を支えている職業が会社員であっても、身分明かす職業欄には画家と書くべきなのだ。画家だけではない。あらゆる分野の芸術家もまた天職として立ち向かっている仕事をその職業欄に書き込むべきなのだ。ダンサーも、俳優も、オペラシンガーも、ドラマーも、イラストレイターも、映画助監督も、美術照明係も、作曲家も、作家も、食べていけないその天職たる仕事をしっかりとその職業欄に書き込むべきである。

 それはこう言うことである。職業欄にその身分を書き込むことは、芸術家が芸術家としての存在を社会に宣言することなのだ。芸術家が芸術家として生きる権利を獲得するためであり、芸術家が芸術家として生きていける社会をつくりだすその戦いの最初の一歩となるのだ。かつて私もまた芸術家が芸術家として自己を確立していく戦いは個人の領域の問題だと思っていた。しかしそうではなかった。芸術家たちが直面している問題は、個人の領域を突き抜けた社会の問題でもあったのだ。そのことを私は一冊の本に教えられたのである。

 その一冊とは、一九九八年に刊行された塩谷陽子著「ニューヨーク──芸術家と共存する街」という本で、彼女は次のようなテーマで書き出している。「芸術は、教育や福祉とまったく同じに、コミュニティーが責任をもって扱う課題だとみなすべきである」と。「芸術に対してコミュニティーが、教育や福祉の問題と同じレベルで責任をもつということになると、芸術を援助するということの意味は、単に芸術活動に助成金をまく、芸術施設をつくるという行為をこえた多様な広がりをもつようになる」。

 まずコミュニティーにいる誰もが自由に芸術にアクセスできる状況をつくり出す必要が生じるということ。さらには芸術家という人間たちを、コミュニティーを構成する多様な市民の一つであるという認識の下にとらえる必要が生じるということだ。『芸術は人間の心を豊かにするから大切なんだ』というお決まりの美辞麗句を盾に施行されているものではなく、むしろ少数民族(マイノリティ)や同性愛者の市民権を認めようとするのと同種の努力──つまり『芸術家は、現代社会の中で、芸術家として生きる権利がある。だからその権利を守ってやる必要がある』というような、いたって根源的な民主主義理念(デモクラシー)の体現としてとらえた方がしっくりするものである」

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大介の朝  4


 その朝、長太は大介の父親と待ち合せて、学校の門をくぐった。学校は休みに入って、しんとしているが、職員室は先生たちがちらほら机にむかっていた。入口近くの机にすわっている先生に、国光をたずねると、その教師は大声で国光先生と叫んだ。部屋の奥から、国光がやってきた。そしてもちらりと、攻撃的な視線を長太にむけた。
「お父さんですか。大介君は、どうしました?」
「いや、ちょっと」
「あの、大介の代わりに、ぼくがきました。ぼくは大介を教えている、塾のものなのですが……」
 と長太は言った。すると国光の目に、ありありとさげすみの色がさした。このとき長太は、ああ、やはり想像した通りの先生だなあと思った。
「困るじゃないですか、お父さん。これはお父さんと、大介君だけに話しておきたい問題なんですよ。第三者が立入る問題じゃないでしょう」
「いや、ほんとうはうちのやつがくればいいんですが。どうも自分はたよりなくて、その代わりに、塾の先生にきてもらったんですが。いつも大介の面倒をみてもらっている先生で、そんなわけで」
 と利夫がおずおずとこたえると、国光はしかたがないわねといった表情をつくり、職員室のとなりにある部屋に二人を連れていった。そして、
「ちょっ、と片付けねばならない仕事があるので、ちょっと待ってて下さい」
 と言いおいて、部屋を出ていってしまった。
 ただ椅子がならんでいるだけのさむざむとした部屋だった。暖房もはいっていない。利夫は青くなって貧乏ゆすりをはじめた。
 三十分も待たされただろうか。がらりと戸がひらいて、年配の男と国光が入ってきた。その年配の男は教頭の蔵田だと紹介された。その蔵田がこんな事件にかかわりたくないものだと言わんに、うんざりした調子で切り出してきた。
「まずお父さんに、おうかがいしたいのですが、お父さんは通信表をどんなものだとお考えになっておられますか」
「まったく申し訳ないことで。大変なことをしたと思ってます」
 利夫はさらに小さく卑屈になって、そう言った。
「昔はですね、通信表をもらうとたいていの家庭では神棚か仏前にそなえたものですよ。それほど通信表というものは、神聖で大事なものだったんです。そんな大切なものを破り捨てるなんて、私の長い教師生活のなかでもはじめての体験ですよ。ここまで子供たちは荒廃しているのか、ここまで日本人はだめになっているのかという思いですね」
「まったく申し訳ありません」
「いいですか、この通信表を作るために先生たちはどんなに苦労をするか考えてもらいたいのですよ。とりわけ国光先生はそれは熱心に通信表を作られる。先生の情熱といったものが通信表にこめられているのですよ。それを破り捨てるなんて」
「どうもすいません」
「お父さんにもよく考えてもらいたいのはですね、大介君はそんな大事なものを破りながら、少しの反省もみせないことなんです。昨日は廊下にずいぶん長いこと立たせて反省をうながしたのですが、ついに最後まで自分は悪いことをしたとは言わないんですね。がんとして悪かったとは言わない。そこのところはお父さんどうなんでしょうかね」
「はあ、それはちょっとばかしうちのやつが……」
 そこで利夫は、入院している母親と大介とが交わした約束の話をするのかと思った。しかし利夫は先生たちに圧倒されているのか、いよいよ背中をまるめてうつむくばかりだった。
 バトンを引きついだ国光がすごい迫力で、まるで利夫を叱るようにたたみかけてきた。
「いま大介君のお母さんが入院していることは知っていますよ。そんなことで大介君の情緒がとても不安定だということはわかるんです。ですから今学期はとくに大介君に目をかけていつも励ましていたんですが、それがこんな仕打ちをされるなんて。なにか裏切られたようなショックでしたね。どうも大介君という子は、そんな人の思いやりとか、人の気持ちがわからない子なんですね」
「そうですか」
「大介君には、ちょっと困っていたことがあるんです。どんなまとまりの悪いクラスでも二学期あたりからだんだんまとまりができていく。今年のクラスはそれがずるずるとまとまらないままに三学期も終わってしまった。いまでもがさがさと落ち着きがなく、ぴりっとしたものがクラスにないんですよ。それはなんだろう、どこに欠陥があるのだろうと思っていたんですけどね」
「はあ」
「それはいまお母さんが入院なさっている、いろいろと大変だと思うんですよ。しかしその分、いま自分がしっかりしなければいけないという自覚をもたなければ。今度の事件だって、ここでほんとうに自分のしたことを反省して立ち直っていかなければ、ずるずると悪いほうに転落していくように思うんですよ」
 大介のことを言っているのだ。そしてなにやら吐き捨てるように、
「とにかく、落ち着きがないんですよ。忘れ物が多いし、宿題はやってこない。叱られてもほとんど反省しない。クラスを混乱させる。いじめる。女の子にいやがらせをする。それも性的ないたずらをする。授業もほとんどきいていない。この子にはなにかいやなことがおこるのではないかと実はおそれていたんです」
 そして、それがとうとう起こったというわけだ。
「まあ、それはともかくとして、この問題にこれ以上の時間をとりたくないですし、私も前をみて歩きたいですし。もう一度校長先生にお願いして、通信表を再発行してもらうようにしましたけど。どうかお父さんも、大介君をきびしく、指導していただきたいんです。人がしてはいけないことがあるんだ、それをしたら、大きな犯罪になるんだということを、しっかりと刻みこんでおいてほしいんですね」
 利夫はしきりに頭をさげ、申し訳ありませんの連発で、痛ましいかぎりだった。とうとう長太は、切り出していた。
「ちょっとおうかがいしますが、大介の今学期の成績はまだみていないんですが、どうだったんでしょうか」
 すると国光は、そんなことあなたに関係ないと言わんばかりの鋭い視線をむけて、
「それは上がった科目もありますし、下がった科目もあります」
 真新しい通信表をひろげて言った。
「ちょっと見せていただけますか」
 再度作り直した通信表をもっとおごそかに利夫に渡そうとしたのだろうが、手をぬっと差し出した長太にしぶしぶ渡してしまった。
 長太はそれをながめた。あれほどがんばった算数が、一からやっと、二になっている。上がっているのは、それだけだった。理科と社会と美術が下がって、なにやら一の行列になっている。目をおおいたくなるばかりの悲惨な通信表だった。
「なるほど、これじゃ大介は破り捨てたくなるわけですね」
 そこにいただれもが、意外な言葉を聞くといった様子で長太をみつめた。
「いま先生たちは犯罪という言葉を使ったけど、その前に先生たちが犯罪行為をしているということを知っていますか。あなたがたは、いま、通信表は神聖で大事なものだと言われた。おそらく通信表というのが、ある意味では学校教育の中心をしめるからでしょうね。すべての授業は、そこにむかって終結していく。それがひとつの総決算であるかのように。ぼくはこの通信表というのは、いったいなんなのだろうかとずいぶん考えてきたんですよ。これほどまでにみんながこだわり、まるで天の裁きであるかのように、おそれあがめる通信表というものをね。
 五は七パーセント、四は二十四パーセント、三は三十四パーセントというガウス分布の確率で成り立っているとか、しかし文部省では一度もそのパーセンテージを定めた法令をだしたわけではないとか、ぼくなりに研究してきたんですがね。しかしそんなことを、いまここで披瀝するつもりはありませんが、ぼくなりに出した一つの結論があるんですよ。それはもし通信表に存在の意味があるとするなら、それは生徒を裁くと同時に教師みずからも裁くためのものであるということです」
 教頭は顔をしかめ、国光はちょっとうすら笑いさえ浮べていたが、その不可解な話に、少し興味を感じたようだった。
「国光先生におうかがいしますが、大介の通信表はほとんどが一ですね。この一という評価をつけるとき、先生はどんな気持ちでその評価を下すのですか」
「それは全体的評価のなかであたえるわけですよ」
「相対的評価というもので、割り出していくようになっているわけですからね。しかしもし先生に、教師としての良心といったものがあるならば、罪の意識を感じないものですか」
「罪の意識ですって?」
「また今学期も、私は、大介に一という評価しかつけることしかできなかった。私はなんとだめな教師なんだろうって。また一でごめんなさいって。もしそういう気持ちがどこかにあれば、大介は絶対に通信表を破らなかったでしょうね。しかしあなたのお話を聞いていると、やっぱり大多数の教師のように、ただ五段階評価のパーセントから、機械的に割り出してきて、まるで裁判官のように、この子は五、この子は四、この子は三、この子は二、この子は一というふうにぺたぺたとつけていくのでしょうね」
「それは仕方がないことでしょう」
「そうです。それが今日の日本の教師ですからね。どんな先生だって、そういう評価のあり方に抵抗することはできない。教師という職業で食べていく以上は、そのきまりを守っていかなければならないわけですからね。しかしもしかぎりなく、子供たちに身をよせていくと、そのことにはげしく疑問を感じるものじゃないかと思うのですよ」
「そういう疑問はいつもありますよ。あなたに言われるまでもないことだわ」
「しかしあなたは、それはやっぱり仕方がないこととして烙印していく」
「それが教師の一つの大切な仕事ですからね」
「実に大切なんでしょうね。それがたぶんあなたの信念でもあるのでしょう。しかしあなたたちは一とか二とかとあっさり烙印しますけど、それを受け取る側の人間になって考えたことがありますか。あなたにもお子さんがおられるそうですが、もしあなたの子の通信表に、ずらりと一と二が並んでいたらどんな気持ちになりますか。たぶん食事も喉に通らないほどのショックを受けるでしょうね。ぐさりと鋭利な刃物で切り裂かれたような衝撃をうけるはずですよ。そしてなにか自分の子育ては間違っているのじゃないか、なにか自分たちの人生も間違っていたのではないかと考えこんでしまう。
 その子だけではなく、その家庭が否定されたような衝撃をあたえるのですよ。通信表にぺたりと烙印される一とか二とかという評価を社会の言葉におきかえてみますとね、馬鹿という言葉ではないんですか。まぬけ、おちこぼれ、くたばれ、ごみ、くず、なにをやってもだめだ、死ね、という言葉になるじゃありませんか。あなたたちは毎学期毎学期、なんの抵抗もなく、なんの疑いもなく子供たちに、お前は馬鹿だ、まぬけだ、どうしょうもないやつだ、お前は社会のがらくたなんだ、なにをやってもだめなんだという評価をあたえているんですよ。これが暴力でなくてなんだというのですか。これが犯罪でなくてなんだというのですか」
 部屋の雰囲気がかわっていった。小さく卑屈になっていた利夫がだんだん背筋をぴしゃりとさせてきた。
「大介がひとこともあやまらずにずうっと廊下に立っていたと聞いて、ぼくはさすが大介だと思いましたよ。大介という子はすごい子だと思いませんか。あんな年でもう自分の守るべきことは、どんな暴カ、どんな迫害、どんな罰がくわえられてもぜったいにゆずらないことを知っているんですからね。先生たちは彼がなぜ通信表を破ったか知っているんですか。それがわからなければ、そのことがわかっていなければ、大介を語る資格なんてありませんよ。落ち着きがないだとか、反省していないだとか。いったいあなたたちはなにを言っているんですか」
 心の底から激してくるものがあるからか、長太の口調はさらに厳しくなる。
「あなたがたは、大介のお母さんの病気を知っていますか。こんなことを言ってはいけないことだけど、病状はもうだいぶ進んでいるんです。そのことを大介はもう本能の底でなにもかも知っているのかもしれない。だから、だんだん遠くにいってしまうお母さんを引きもどすには、たった一つのことしかないと考えたにちがいないんです。それは奇跡をおこすことだ。その奇跡をおこすために、大介はベッドにいるお母さんと約束したんです。成績をあげるからね、通信表をあげるからねと。最初はオール五にしてみると言ったらしい。
 しかしそれは無理だということは彼にもよくわかっているから、だんだんとその目標を下げていって、じゃあオール三にしてみるよと言ったんです。彼はお母さんとそんな約束をしたんです。それもまたどうみたって不可能なことだ。しかし大介はその過大な試練を自分に課したんです。それをやりとげたらお母さんは再びもどってくるからです。
 あなたはさっき、大介がだらしない、荒廃しているとおっしゃったが、あたりまえじゃないですか。いま山形にいるおばあさんがきて、いろいろと面倒をみているようですが、それまでは大介一人でしていたんです。お父さんは、三日のローテーションで働きにでる。そのお父さんのいない日は、すべて大介一人でしなければならなかったんです。
 家のなかが荒れていくのはあたりまえじゃないですか。冗談じゃありませんよ。まだ十歳そこそこの子になにができるというのですか。いつもやさしい笑顔のお母さん。いつも洗濯してくれるお母さん。いつもおいしいものを作ってくれるお母さん。いつもいいにおいのするお母さん。どんなに彼は以前のような家庭になってほしいと望んだことでしょうか。大介はお母さんを病院からとりもどすために奇跡をおこそうとしたんですよ。お母さんをとりもどすには、もう奇跡をおこすしかないのですからね」
 長太は、感情に溺れるまい、冷静になれ、と話しながら思うのだが、あふれてくる悲しみはどうしょうもない。
「一クラスに四十人もいるから、学校の先生たちには一人一人の子がよくみえないこともあるでしょうね。しかしぼくのような小さな塾では、一人一人がよくみえるんです。大介はほんとうに今学期はがんばったんです。見違えるばかりに、ひたむきで必死になって勉強したんです。しかしそんな努力も、全体のなかでは、少しも目立たなかったのでしょうね。いまの子はよくできて、あっさりと九十点百点をとる子がたくさんいる。そんななかで、大介のとる点なんて、依然としてびりから数えたほうがはやい。したがってあなたにはなんの変化もみられなかった。しかし大介は大介なりに必死だったんです。
 だから昨日は、大介にはおそろしい日だった。それまで通信表なんて意識したことはなかったが、しかし昨日はちがった。奇跡をおこす日だったんですからね。彼はドキドキしながら、通信表をひらいたにちがいない。しかしなにも変わっていない。変わっていたのは、ただ算数が一から二になっているだけだった。逆に理科も美術も落ちている。オール三どころではなかった。
 ほんとうはその日、大介はその通信表をもって、お母さんのところにかけつけるはずだったんですよ。しかしこんな通信表では、みせられるわけがないんです。こんな悲しい通信表では。だから彼は、こんなもの、こんなもの、と泣きながら破ってしまったんでしょうね。ぼくには大介の怒りと悲しみというのが痛いほどわかりますよ」
 長太は、手にした通信表を、ぱたぱたさせながら、
「あなたたちは、いつもいつも子供たちを裁いてきました。この子は五の子、この子は四の子、この子は三の子、この子は二の子、この子は一の子とまるで焼きごてでペタリペタリと押すみたいに。たまには逆に、あなたたちも一生に一度ぐらいは、あなたたちの仕上げる通信表が裁かれてもいいはずですね。ぼくからみたらこの通信表は落第ですよ。教師生活何十年だかしらないけど、ベテランの先生にしてはお粗末きわまりないな。大介というきらきらした可能性をもった子供の力を少しも引きだしていない。知性も情熱も感じられない、官僚主義に裏うちされたこんな通信表は落第ですよ」
 そして長太は、びりびりと大介の通信表を引き裂いてしまったのだ。二人の先生も利夫も、一瞬唖然となった。長太は立ち上がると、
「もう一度大介の通信表を、書き直してくれますか。もっと大介という子に身を寄せた通信表を。点数をよくしてくれというのじゃありませんよ。そんなことを言っているのじゃなくて、もっとちがった方法で大介をみて下さいということですよ。あなたはおそらくよくできる子供たちからすべてをみているにちがいない。いつも四とか五をとる子供たちからすべてが出発しているにちがいない。そういう教育をしているからあなたの受けもったクラスでは、私立中学の合格率が異常に高いのでしょうね。
 しかしそういう教育では一や二をとる子供たちはみえてこないはずですよ。大介たちをみる見方というのは、まったくちがった尺度が必要なんですからね。ぼくにはどうもはるかにそっちのほうが大切だと思うんです。一や二しかとれない子供たちにかぎりなく身をよせた教育がね。そういう活動のなかでとらえた通信表ならば、ぼくは大介を説得しますよ」
 学校の門をでると利夫はあまりにも奇妙な展開に、かえって不安そうに長太のほうに顔をむけると、
「大丈夫ですか」
「いや、あれでいいんですよ」
「そうですか」
「そうなんです。温室にいる先生たちを目ざますにはあれぐらいのことをしたっていいんです。ぼくはあのときものすごく悲しくなったんです。大介がいま受けている運命といったものに」
 そのとき長太は、大介の運命をまた自分も少し担おうとしたのかもしれなかった。しかしそれは長太のうぬぼれだった。
 四月の中旬だった。桜が散っていった。時子はまるで散る花びらと呼応するかのように静かに息をひきとったのだった。

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人生のデビュー  2


 その日、昼過ぎに、智子はゼームス塾をたずねた。がらんとした部屋で、ノートをひろげていた長太は、がさがさと机の上をかたずけて、彼女の席をつくると、
「ああ、コーヒーでもいれましょう」
「いいえ、おかまいなく」
「いえ、ぼくが飲みたいので」
「じゃあ、私がいれますよ」
 部屋の片隅にシンクがついていた。グラスやらカップが乱雑におかれていたのを洗いながら、智子は長太に話しはじめていた。そうやって話していくうちに彼女の混乱やら興奮した感情が去っていって、自分が整理できていくようだった。
 コーヒーをカップにいれると、香ばしい香りが部屋に満ちた。彼女も椅子にすわり一口すすった。インスタントコーヒーだが、なんだか心にしみこむようにおいしかった。
長太はメモ用紙を智子の前に差し出すと、
「これが、谷岡さんの《自由広場》の住所と電話番号です。そうだ、いまちょっと電話をいれてみますよ。いつならいけますか」
「いつでもいいです」
「明日でもいいんですか」
「ええ」
「そうですね。早いほうがいいですね。ちょっと電話をいれてみます」
 谷岡と通話がつながると、弘は訪ねる時間まできめてしまった。
 そこは谷岡というごく普通の主婦が、学校にいけなくなったわが子のためにつくった塾だった。それがいまでは不登校児童や親たちの一つの心の拠点となっているようだった。長太は会うたびに谷岡に会うことをすすめてくれていたが、智子はようやくそこを訪ねる気分になったのだ。いまはわらにもすがる思いだった。
「この品川にもずいぶん多いんですよ、学校にいけない子が。ぼくが知っているだけでも五、六人はいるな。ぼくのところにも、毎年問い合わせがあるんです。お宅の塾では不登校の子供は面倒みないのかって。ぼくのところは変わっていますからね」
「ほんとうに変わっていますよ」
「ええ、変わっています」
 と二人はしみじみと笑った。彼女は昨日から笑いを忘れていたのだ。
「児童館の望月先生なんかも、しばしば相談をうけるらしいですよ。望月さんとそんな子供たちのことを話すといつも、もうそろそろ品川にも自由広場みたいな、不登校児童のための拠点が生まれるべきだという結論になるのですがね」
 そして長太はまたこんなことも言った。
「田所さんは、ほんとうに先生というタイプですね」
「あら、どうしてですか?」
「ぼくはどうも女の先生というのが苦手だったけど、でも田所さんをみていてそんな先入観が吹き飛んでしまいましたね。ほんとうにうまいもの。子供たちをあつかうのが」
「あら、そんなことどこでみたんですか」
「丹沢にいくときですよ。ぼくなんかよりもはるかに子供たちに人気がある。人気があるというのはやっぱり人格ですからね。田所さんはほんとうは先生になるべき人なんですよ。いや先生であり続けるべき人なんですよ」
「一度挫折しましたから。そのとき自分の力を知ったんです。自分にはその力はないなって」
「でもいつか言ってましたね。中学の教師をしていたときが、一番自分の人生のなかで輝いていたって。あの時が自分の原点かもしれないって」
「ええ」
「ぼくはこう思うんですよ。宏美という子は、田所さんにとって、最高の教材だと思うんですね。宏美を教材にして申し訳ないが、つまり田所さんのような人は、この最高の教材を他人にゆだねるのではなく、田所さん自身が育て上げていくべきだと思うんですよ。そこからいろんなものが見えてきたり、切り開かれたりして、たぶん田所さんの新しい人生がはじまると思うのです」
 そのとき智子には、その言葉の真の意味がわかっていなかった。

 藤沢で小田急線に乗り換えて、鵠沼海岸で降りる。そこからのんびりと広がった住宅街のなかを通っていく。あたりは品川のように、ごちゃごちゃしていない。家々がたっぷりとした庭をもち、木立が気持ちよく葉を繁らせていた。空気まで新鮮なのだ。
《自由広場》はごく普通の家のなかにあったが、一歩足を踏み入れると、子供たちのざわめきがあちこちから聞こえた。小学生たちが、ばたばたと部屋のなかを走り抜けていくし、居間では何台もパソコンがカタカタと音をたてている。二階ではギターがかき鳴らされているし、庭の隅に立っているプレハブの家では、なにか活動でも行われているのか、ときおりわあっという喚声があがった。
 谷岡はもう五十をこえた女性だった。彼女は智子を庭に連れ出して、葉をいっぱいに繁らせた木立の下にある椅子にすわらせた。そして智子の陥っている苦悩が、よくわかっているのだと言うように、
「あのね。不登校の原因って、いろいろあるのね。だから一つのパターンでとらえることはできないと思うわよ。その原因って子供の数だけあるはずよ」
「ええ、そうでしょうね」
「だから、脱落なんていうとらえ方だってできるけど、例えば、その子たちはカナリアだということがあるのよ」
「カナリアですか?」
「そう。なんでも昔は、カナリアをもって炭鉱に入ったというじゃないの。ガスが少しでもたまっていたら、まずカナリアが倒れてしまう。学校にいけない子や、学校にいかない子って、そのカナリアだと思うのね。学校がもっているいろんなガスを、だれよりも一杯にすってしまうの。もちろんそれは学校だけじゃなくて、その背後にある家庭での問題とか、社会のあり方とかがあるわけだけど。とにかく敏感な、感受性の鋭い子ほど、そのガスを深くすってしまうのよ。宏美ちゃんって言いましたっけ。きっと宏美ちゃんも、そういう子なんじゃないのかしら」
「ええ、とってもよくわかる子です」
「大人たちは、よく言うのね、昔からいじめがあり、学校にも沢山の問題があったけど、それでも子供たちは学校にいっていたって。それなのにいま広範囲にわたって、不登校の子供たちがふえているのは、子供たちがわがままになったのだ、それを許す親も、自由や教育をはきちがえているって。そういう議論によくなってしまうのよね。それは昔の社会には、それだけ自由というものがなかったからなの。まだ社会が成熟していなかったからなのよ。ひたすら全体のなかに個性を埋没させる時代だったわけでしょう。
 でも次第に個性とか自由とかいうものが育ってきて、日本人の意識が変化してきた。学校がつくりだすいろんな否定的要素も、じっとたえていかなければならなかったけど、いまははっきりと、それを否定する子供たちがあらわれた。それはようやく日本人の思想とか、意識というものが多様化して、成熟してきたことなんだと思うね」
 宏美にもう友達ができたのか、四、五人の女の子たちとばたばたかけてくると、
「みんなで海にいくんだって。いってもいい?」
 どう返事をしたものかと迷っていると、
「いいわよ、いってらっしゃい」
 と谷岡がこたえ、そして私たちも海にいきましょうかと智子を誘った。
 二人は子供たちのあとから海にむかった。海岸まで歩いて五分もかからなかった。
穏やかな海だった。灰色の砂浜が果てしなく続いている。子供たちはもう豆粒ほどになっていた。二人は砂の上に座った。
「いい環境ですね」
「そうね。子供って、ほんとうに海が好きなのよ。ここに連れてくると、一日中遊んでいるわね」
「そういう環境がいまのところにはまったくないんですよ」
「家にとじこもって、ファミコンか、そうでなかったら塾とかですものね」
「ええ」
 そしてまた谷岡は、自分の過去を話すのだ。
「二番目の子が不登校になったころ、それはすっかり落ちこんだわよ。ほんとうに私の家は、社会から脱落したのかと思ったわ。そしてうちの子をいじめる子供たちを叱ったり、その子の親を憎んだり、先生がよくないとか、校長先生が悪いとか。もう大変だったわね。学校からはじきだされていくその原因ばかりを追及したりして。結局それは、同じところをぐるぐると回っているばかりで、かえってどろ沼に落ちていくばかり。そして子供に原因があるのだろうと思ってあちこちの病院に連れていって」
 まるで自分の姿を描写しているようだと思い、智子は赤くなった。
「でも、あるとき気がつくのよ。学校というものをいつも中心にして考えていた。でも子供の側に立って考えてみたら、どうなるのだろうかって。子供が学校にいけないなら、そこからスタートしてみようって。学校にいかないなら、それと同じくらいのものを彼の回りに作ればいいのだって。ぐずぐず悩んでいたり、人を憎んだり、家族を憎んだり、いつまでも愚痴をたらたらとたれ流しているのではなく、彼となにかをはじめていけばいいんだって。どうせはじめるのならば、学校に負けないようなことをしてみようと思ったのね。そして二人でいろんなことをはじめていたら、一人また一人と同じような子が集まってきたの」
 智子にとって、その一日は目が開かれるような思いだったが、なかでも一番感動したのは、《自由広場》にいる子供たちだった。子供たちの表情が明るく、生き生きしているのだ。それまで智子は、不登校の子供たちってどこか暗くどこか陰気な表情をたたえているのではないかと思っていたのだが、そんな暗い影などどこにもなかった。むしろ一人一人の子供の表情のなかに、豊かな感性や知性といったものを感じるのだった。谷岡はそのことをこんなふうに言った。
「学校にいけないから、なまけているわけじゃないの。勉強をしていないからなにも学んでいないわけじゃないの。ああしてただ遊んでいるだけのようだけど、実は深いところで、心の対話をしているのね。あの子たちは、次の脱皮にむけて、静かに英気をやしなっているのよ。この時を抜けると、すばらしい飛躍があるものよ」

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