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珈琲亭・白鯨(モービィ・ディック)

 老人が珈琲亭・白鯨に姿を見せるのはいつも木曜日だった。昼さがりのがらんとした店に入ってくると、窓側に設置された長いカウンターに椅子に座る。その窓から外の景色が望見できるのだ。JRの車輌基地に何本もの引き込み線が敷かれ、そこに待機中の車両が停車している。その敷地の右方には、赤煉瓦の建物が時代に取り残されたように立っていた。しかしその建物はいまでも現役で、そのなかで車両を点検したり、修理したり、解体したり、組み立てたりしているのだろう。老人がこの店に姿を見せるのは、毅然と立っているその赤煉瓦の建物を眺めるためかもしれなかった。

 珈琲亭の前の道路の向こう側はすとんと切り落ちた崖になっていて、その崖下を特急、急行、各駅停車の電車がひっきりなしに往来する。電車が走り込んでくるたびに、老人の視線はその電車を幼児のように追っていった。老人はそれらの景色を眺めながら、コーヒーを一口また一口とすすり少半時を過ごすと、店のオーナーに「おいしかったよ、これで一週間は大丈夫だ、珈琲亭のコーヒーは私の精力のもとだからな」と声をかけると、オーナーもまたいつもの通りのせりふを投げ返す。「一週間どころか、あと十年は大丈夫ですよ。渡辺さんは私らの目標だから、百歳まで頑張ってもらわなきゃ」。珈琲亭のオーナーもまた来年還暦を迎える立派な老人だった。老人が珈琲亭に姿を見せるのは、こんな冗談を交すためだったかもしれなかった。

 また木曜日がやってきた。珈琲亭のウエイトレス役を担っているオーナーの曾孫が、水を運んできてオーダーを取る。しかしこの日、彼女は紙袋を手にしていて、オーダーを取る前に老人に、
「あの、クジラ絵本クラブというところの人が、これを渡辺さんに渡してくれって頼まれたんですけれど」
「クジラ絵本クラブ?」
「ええ、クジラ絵本クラブって言ってました、わけがあって珈琲亭にはこれないけど、渡辺さんに渡してくれって」
 奇妙な話だった。クジラ絵本クラブなんて聞いたこともない。老人は首を傾げ、怪訝そうに紙袋の中をのぞいてみた。《写ルンです》という簡易カメラと、ピンクの封筒が入っていた。その封筒を開くと、同じピンク色の便箋と手の切れるような紙幣が入っていた。いよいよ不審を募らせて便箋を開いてみた。そこにまるっこい文字がスキップでもするかのように記されていた。
 
《渡辺謙作さん。はじめておたよりを差し上げます。クジラ絵本クラブは謙作さんを『過去をめぐる旅』に送り出し、そこで写真を撮ってきてもらうというプロジェクトに取り組むことになりました。一方的な決定で一方的なお願いですか、どうかクジラ絵本クラブに力を貸して下さい。もしこのプロジェクトを引き受けて下さるのなら、まず謙作さんが生まれた池桜の村にいって、ぱちぱち写真を撮ってきて下さい。《写ルンです》を同封してあります。このカメラはただシャッターを押すだけでいいのです。往復のチケット代、それに現地の宿泊費用など少なくて申し訳ありませんが、それも同封してあります。旅から帰ってきたら《写ルンです》をこのテーブルにおいて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

 町営バスの最終地点で降りるともうそこは山の中だった。部落へ入っていく道は舗装されていたが葛の葉がのたくっている。木立のなかに一軒また一軒と廃屋が姿をみせる。かつてこの部落には、五十世帯ほどの人々の暮らしがあったのだ。いまはその家屋に住みついているのは鼠ばかりだった。謙作の生家があった。部屋数が七つもあり、二階に養蚕場がのせた大きな家屋だ。一世紀前に建てられた家は屋根瓦が崩落している以外はいまだがっしりと立っていた。かつてこの家に二十人もの人間が暮らしていたのだ。

 部落の唯一の現金収入は養蚕だった。男よりも女の子が生まれることが喜ばれた。女の子は少女になると松本や塩山や諏訪、さらに遠方の都会にと奉公に出される。奉公という言葉の裏には残酷な意味も縫い込められている。もっとはっきり言えば金になったのだ。どの家も一家の生存がおびやかされるほど貧しかったのである。
 謙作がこの部落から出ていったのは十六歳のときだった。そのころ日本は大キャンペーンを張っていた。来れ、若人よ、新しい国の建設に! 国家をあげての大宣伝に謙作は興奮し、これこそ自分が生きていく道だと思った。
 
 謙作は山道をさらに上がっていくと広場に出る。そこに部落の集会所が立っていた。部落のさまざまな相談事はここで行われたのだ。部落の中心、部落の紐帯だった。建物の前に錆びついた鉄パイプのベンチが置かれていた。謙作はそのベンチに座り小休止をとった。遠い昔のことがよぎっていく。この広場に櫓が組まれ、櫓の上で笛や太鼓が打ち鳴らされ、部落の人々が踊りの輪をつくった。その頃遊んだ悪童たちの顔が現れていった。
 謙作はさらに山道を上がっていった。もうそのあたりの道は舗装道ではなく草が謙作の姿を隠すほど茂っていた。その草をかき分けかき分けさらに上がっていく。ぱあっと視界が開けた。眼下には部落の全貌が、そしてはるか彼方に北アルプスの重畳たる連なりが見えた。謙作は《写ルンです》を取り出すと、その光景を捉えてバシャリとシャッターを切った。

 その旅から戻り、《写ルンです》を珈琲亭のテーブルに置いた次の木曜日だった。昼下り、いつものように窓際のテーブルの椅子にすわると、いつものようにオーナーの曾孫がオーダーを取りにやってくる。
「あの、これ、また《クジラ絵本クラブ》という人から、渡辺さんに渡してくれって頼まれたんですけど」
 その紙袋のなかには《写ルンです》が二台とピンクの封書が入っていた。

《謙作さん、クジラ絵本クラブは、茫然としたというか、なんだこれはとただあきれたというか、どうして一枚なんですか。二十四枚も撮れるんですよ。どうしてぱちぱち撮ってこなかったのですか。今度は《写ルンです》を二台同封しました。ぱちぱち、ぱちぱち、もう一度言います、ぱちぱち撮ってきて下さい。今度は中国です。謙作さんが開拓した村は、もうなくなっているのかもしれません。しかしそこにいけばきっと開拓村をしのばせる景色があるはずです。それらの景色をぱちぱち撮ってきて下さいね。往復のチケットや滞在する費用などは、ぜんぶ旅行会社の人に払い込んであります。明日にでも有楽町にあるオフィスにいって下さい。いろいろと面倒くさい手続きをしなければいけませんが、そのぐらいはがまんして下さいね。そして中国から戻ってきたら《写ルンです》をこのテーブルにおいて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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 トウモロコシや馬鈴薯や大豆の畑がどこまでも連なっている。七十年前の光景が胸をしめつけるばかりに蘇ってきた。徴兵されて出征するその日の光景が。開拓村の人々が日の丸の小旗をちぎれるばかりに振っている。そのなかに赤ちゃんを背負った幸子と二歳の子供も立っていた。幸子と世帯を構え二人の子供が生まれ幸福な一家を築いていたのだ。その家庭が引き裂かれていく日だった。謙作を乗せたトラックはどんどんその村から遠ざかる。遠ざかる村を目に焼きつけながら何度もつぶやいたものだ。ここに戻って来る。大地を這ってでも戻ってくると。「満州をしのぶ会」の一行を乗せた小型バスはいまその村に向かっていた。

 その日まで二つの開拓村を訪ねていたが、七十年前の開拓村などもうきれいに消え去っていた。満州国開拓村などというものは、中国人にとって屈辱の歴史なのだ。そんな村があったことなど歴史から消してしまえということなのだろうか。正体を隠したいわば隠密のツアーを引率するガイドは申し訳なさそうに、このあたりにあったということですと釈明するばかりだった。
はたして謙作が開拓し開墾した村も消えていた。冬は零下三十度にもなる酷寒の地だったが、春になれば生命が一斉に芽吹き、蒔いた種子はすくすく育ち、秋には黄金の実りをつけてくれた。村は年々豊かになり、精穀場、製粉工場、味噌醤油醸造場などがつくられ、神社を建立し、学校や公会堂まで建設した。それらの痕跡はどこにもなかった。

 一行を乗せたツアーバスが田畑の中に走行しているとき、謙作の目に二本のポプラの木が飛び込んできた。謙作は運転手に、止めてくれ、止めてくれと気が違ったように叫んだ。車を降りると広大な馬鈴薯畑の中を歩いていった。そこはかつて謙作が開墾した畑だった。畑のなかに立つポプラは七十年前の姿そのままだった。その木のもとにたどり着くと、肩にかけたリュックからチョコレートやビスケットや羊羹を取り出し、その木の前に供えた。そして崩れ落ちるように地にひれ伏し、日本に帰ってこなかった二人の子供に向かって、ごめんなごめんなと詫びながら号泣した。

 また木曜日がやってきた。老人はいつもの窓際のテーブルの椅子に座る。オーナーの孫娘がやってきて、またクジラ絵本クラブの人から頼まれましたと言って紙袋を老人に差し出した。

《謙作さん、「写ルンです」を二台用意しましたが、しかしまた一枚だけです。「写ルンです」は二十四枚撮れるんですよ。どうしてたった一枚なんですか。撮るところはたくさんあったでしょう。風景だとか建物とか。中国の大地は何十枚撮ってもとらえられないと思うのにたった一枚だなんて。クジラ絵本クラブとしては全く信じられないというか、怒り狂っちゃいそうというか。でも、終わったことはしかたありません。冷たいシャワーでも浴びてあきらめることにします。謙作さん、今度はニューギニアです。謙作さんには苦しい旅になると思います。しかし勇気をもって出かけて下さい。その旅への手配はしてあります。決められた時間に飛行機に乗ればいいのです。今度は《写ルンです》を三台用意します。七十四枚撮れます。ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱちと写真を撮ってきて下さいね。クジラ絵本クラブより》

 その旅はポートモレスビーから、ココダ、ブナ、ラエ、ラダン、ウエワク、アイタベをめぐる「長野ニューギニア戦友会」が組み立てた一週間のツアーだった。「満州をしのぶ会」の中国への隠密ツアーと違って、どの地にも慰霊碑が立っていた。日本政府が建設した堂々たるモニュメントから、さまざまな日本の団体が建立した慰霊塔や観音像や石仏などが各所に立っていて、その場に一行が立つたびにツァーに同行している袈裟姿の僧侶が供養の読経をあげた。

 ツアーの五日目だった。ラエからアイタベに向かう道中、一行を乗せたバスが山中で止まった。現地のドライバーが道端に立っている地蔵を見つけたのだ。地蔵の頭に、錆びつき破損したヘルメットがかぶされ、足元には朽ちて穴のあいた水筒が二つ添えられていた。いずれも日本兵のものだ。謙作はこの地蔵に心を打たれ、謙作は一人、その場に立ち尽くしていると、
「渡辺、渡辺、渡辺二等兵」
 という声がする。木立の奥から聞こえてくる。謙作は木立のなかに入っていった。それは幻聴だ、幻覚だと打ち消したが、彼を呼ぶ声はさらに明瞭に聞こえてくる。木立の奥は熱帯雨林のジャングルだった。謙作はどんどんその奥に引きずり込まれていく。

 謙作は満州国の開拓村の農民であった。しかし召集された謙作が投入されたのは、何千キロも離れた南半球のニューギニア戦線だった。彼の部隊の大半が餓死するという地獄の戦場だった。帰還した兵士はその地獄の体験を、貝の蓋となって閉じ込めておかねばならなかった。謙作は妻にもその話をしたことはなかった。
 しかしそれは自分を律することができる日中でのことだった。一日の労働で疲れ果てて眠りに落ちたとき、地獄の戦場が悪夢となって襲いかかってくるのだ。それはすさまじいばかりの襲撃だった。恐怖で全身が金縛り状態になり、必死に逃れようとするが声も出ない。その悪夢の襲撃はいくつかのパターンがあり、ジャングルの奥から飯田上等兵が謙作を呼び寄せるシーンもその一つだった。
「渡辺、こっちだ、渡辺、こっちだ」

 謙作はその声に誘われて、どんどん熱帯雨林のなかに引きずり込まれていく。そのあたりの景色は夢にみたシーンそっくりだった。そこに飯田上等兵がいた。あばら骨が浮き出て、腕や脚は枯枝のように痩せ細っている。眼孔はくぼみ、頬はこけ、すでにされこうべの様相だった。
「渡辺、おれの肉を食え、すぐ腐るからおれが息の根を止めたら引き裂いて食え、脳味噌はうまいらしいぞ、おれの脳味噌を食って、おれの尻の肉を食って、お前は峠をこえろ、このくそ峠をこえて、お前だけは日本に帰れ」

 ニューギニアの戦場から帰還した何万の兵士たちは、その事実を貝となってそれぞれ深く閉じ込めていたが、一人また一人とその真実を記す人たちがあらわれた。ある兵士はこう告白した。「人肉を食べずにあの包囲戦を生き抜くものはいなかった。誰もそんなことはしたくなかった。しかし戦う兵士でいるために人肉を食わなければならなかった」。またある兵士はこう告白した。「大和肉の市場があちこちにできた。日本兵が日本兵を殺して食肉にする恐ろしい市場ができた。それがニューギニアの戦場だった」と。

 悪寒に襲われたように謙作はがたがたと震えていた。ぶるぶる震えながら《写ルンです》のファインダーをのぞき、飯田上等兵の姿ととらえると、シャッターを切った。それは謙作の内部に閉じ込めていた地獄を告白した一瞬だった。

《謙作さん。六十年前、南の海でどんなことが起こっていたのか、ニューギニアの熱帯雨林のなかで何十万人もの日本兵が命を失い、そのほとんどが餓死だったということも知りました。謙作さんにとってニューギニアの旅が、どんなに苦しく辛い旅だったということも謙作さんが撮ってきた写真でよくわかりました。謙作さんが撮ったあの錆びついたヘルメットは、謙作さんがくるのをずうっと待っていたのかもしれませんね。謙作さんがなぜいつもたった一枚の写真しか撮らないのか、その理由がだんだんわかってくるような気がします。次の旅は青森県の六ヶ所村への旅です。《写ルンです》と切符もまた紙袋のなかに入っています。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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 ソ連軍が国境線を突破した。その報が信濃開拓村に伝わると村民は二つに分断されてしまった。幸子の父親正義はこの村の村長だった。ソ連軍は怒涛のように進撃をしてくる、ただちに避難しようと正義は村民に告げた。しかし元軍人の開拓民が反対した。われわれはこの村を離れるべきではない、この村は天皇陛下から与えられたのだ、この村を守り続けなければならない、世界最強の軍隊関東軍がかならず敵の進撃を撃破するはずだと。二つの意見がはげしくぶつかって分裂した行動をとることになった。

 開拓村に残った村民は一人も日本に帰ってこなかった。正義の側についた百七十三人の逃避行もまた死に向かって迷走しているようなものだった。四日目に武装した現地人から襲撃された。開拓村の男たちは根こそぎ関東軍に召集されていて、男といったら高齢者と子供のみだった。銃を手にして戦った男も女もばたばたと打ち倒され、正義もその戦闘で倒された。逃亡は河を渡らねばならなかった。幸子の母親が太郎を背負って渡ったが、二人とも激流に飲み込まれてしまった。幸子は次郎を背負って渡河できたが、次郎はもう呼吸をしていなかった。山また山を越え、荒野また荒野をさまよい、身も心もボロボロになって大連の収容所にたどり着いたときは、たったの七人だけになっていた。

 佐世保に上陸した幸子は信濃大町の生家に帰還した。一年後に謙作がラバウルの収容所から日本に帰ってきた。政府は戻る家も仕事もない満州からの帰還者たちのために、国有林に入植させる政策をスタートさせていて、青森県の六ヶ所村も入植地の一つだった。謙作と幸子はその地を選択した。

 夜明けとともに山林を切り拓く開墾作業だった。人力による作業は遅々とした歩みだったが、開墾した畑に麦を蒔き、馬鈴薯を植え込んだ。田圃も造成して稲も植えた。満州では種をまくとみるみるうちに育っていったが、この土地では作物は思うように育たない。寒い夏になると作物は全滅にちかいほどの打撃を受ける。土地が痩せているうえに、ヤマセという偏東風がつねに寒気をはこびこんでくるからだった。この土地はもともと農業には適さない土地だった。しかし謙作と幸子は懸命に働いた。
 子供も生まれた。雄治と名づけた子は頭がよかった。高校は多数の東大合格者をだすという進学校に入れた。寮生活だった。彼は東大に入った。仕送りは全収入の半分をこえるほどだったが息子は彼らの希望だった。

 久しぶりに謙作は六ヶ所村を訪れた。幅が五、六十メートルもある道路が、地平を切り裂くように走っている。遣路の両側には有刺鉄線がどこまでもはりめぐらされている。謙作と幸子が開墾した畑や田圃はその有刺鉄線の奥にあった。謙作は道路からその方向にレンズを向けて《写ルンです》のシャッターを切った。

《謙作さん。今度は東京です。謙作さんは冬になると東京にでてきて建設現場で働きましたね。橋の工事だとか、道路工事だとか、地下鉄工事だとか、ビル工事だとか。いってみれば謙作さんは新しい東京をつくった人でもあります。謙作さんがもっとも思い出に残っている建物の写真を撮ってきて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

 農村から出稼ぎにくる季節労働者たちを収容する宿舎には、風呂も食堂もあったが一部屋に七人、八人と詰め込まれ雑魚寝状態だった。六時になると起床ベルが鳴り、階下の食堂で朝食をとると、マイクロバスに乗って作業現場に入る。ただ働いて眠るという殺伐とした生活だった。ある年その作業現場で、クレーン車で吊り上げていた建築資材が滑落して、三人の仲間が下敷きになった。謙作もその場に立っていたが、彼だけはその危難を免れた。彼は仲間の死を嘆き悲しむよりも、都会の片隅で虫けらのように踏み潰されてたまるかという怒りが湧き立ってきた。それはあの地獄のパプアニューギニア戦線を生き抜いてきた怒りだった。謙作はどんな逆境にも耐え抜いてきたのはそのはげしい怒りであったかもしれない。

 謙作は東京が嫌いだった。しかし毎年稲刈りを終えると東京にやってくる。長いときは半年も東京に滞在したこともある。農機具や車の長期ローンの返済、肥料代やガソリン代の経費、それにもっとも出費を要する息子への仕送りといくらでも金がかかる。その金を稼ぐために出稼ぎが不可欠だった。謙作がいつも危険な作業を担ったのは高額の報酬が得られるからだった。

 その出稼ぎは五十代の後半まで続けていたから、彼が建設作業にかかわった場所といったら五、六十か所にも及んでいた。鮫洲、日比谷、世田谷、初台、新宿、お台場、川崎、千葉、幕張、大塚、初台、と。都心の作業現場が多かったが、千葉や川崎や横浜の建設に投入されたこともある。謙作は古い記憶をよみがえらせて、彼がかかわった工事現場を訪ね歩いてみた。謙作が住み込んだ建設会社は、大企業の下請けのまたその下請けの会社だったから、大工事が多く大きな規模の建物がたてられた。

 しかし謙作がその場に足を運んでみるが、写真を撮りたいといった感情は湧き起こらなかった。作業現場とプライバシーもなにもない雑魚寝する宿舎をただ往復するだけの殺伐とした日常のなかで、彼がいつも思っていたのは六ヶ所村だった。開墾した田畑、森林、空気、村の生活、土地、人々の声、食べ物。東京で出稼ぎの時間、ただひたすら彼は六ヶ所村を思い描くことで出稼ぎ生活を支えていたのだ。

 しかしそんな彼にも品川埠頭の運河にかかる橋を見たとき、彼のなかにどっと懐かしい思いが噴き出してきた。大井野鳥公園から城南島に向かって走る道路に渡されたなんの変哲もない平凡な橋だった。彼はその橋の建設に二年ほど投入されていた。いまその橋の欄干にゆりかもめがずらりと列をなして止まっていた。謙作はリュックから《写ルンです》を取り出してその光景をとらえた。

 カレンダーがまた一枚めくられて十一月に入った。間もなく冬将軍の到来を告げるように珈琲亭の窓から眺める空は、冷気で引きしまり青く澄んでいる。謙作はウエイトレスから手渡された紙袋のなかから封書を取り出した。

《謙作さん。幸子さんがなくなってもう十二年もたつのですね。幸子さんが眠っているお墓にいって、写真を撮ってきてほしいのです。東北はもう冬で、朝晩は厳しく冷え込むでしょう。風邪をひかないように、セーターなどを暖かい恰好で旅だって、おっとこんなことは私たちよりもずうっと謙作さんにはわかっていることですよね。切符と《写ルンです》が紙袋のなかに入っています。それでいつものように旅から戻ってきたら、このテーブルにおいて下さい。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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 幸子の父親正義は教師だったが、社会主義の思想をもった政治活動家でもあって、その活動で逮捕されると、学校からも追放された。そこで正義は一家を引き連れて満州という新天地に渡っていったのだ。開拓村のリーダーとなって、農作業だけではなくさまざまな活動に取り組んでいたが、開拓民の子供たちのために学校を建設したのも正義で、その学校の先生になったのが幸子だった。十八歳の先生だった。幸子はそんな経歴をもった女性だったから、何事も深く思考しながら生きていく女性だった。だから六カ所村に入植すると、同じ入植者たちの女性によびかけて婦人会をつくった。世界から切り離され、不作、病、貧困、借金というさまざまな負の連鎖に苦しむ開墾地の生活は、なによりも互いに助け合う共同体組織が必要だったのだ。

 開墾が進み、田畑も広がり、貧困の村にもようやく光が見えてきたときに、突如として札束というモンスターがこの村に襲いかかった。むつ小川原六ヶ所村を日本の一大生産基地にするという国家プロジェクトが打ち出されたのだ。その広大な土地に自動車工場、製鉄工場、アルミ工場、石油精製工場と一大工業地帯をつくりだすというプランだった。この計画が浮上していくと、その土地を買い上げるために何十という不動産屋が、現金をぎっしりとつめこんだ段ボールを車に積み込んで襲撃してきたのだ。

 年収の何百倍何千倍という現金に、貧困にあえぐ六ヶ所村の農民たちは目がくらみ舞い上がり、次々に土地を手放すと、近郊に御殿のような豪邸をたてて移住していった。しかし謙作と幸子はそんな狂乱にまったく揺るがなかった。それどころか彼らは国家に対して激しい怒りが噴き上げていた。謙作にはあのニューギニア戦線のことがよぎる。幸子には満州でのあの地獄の逃避行がよぎる。国家はまたしても私たちを投げ捨てるのかという怒りだった。今度こそ国家の暴力に屈するものかとそれまで通りの生活に徹していると、国家の方が崩れていった。その巨大プロジェクトが頓挫したのだ。

 広大な原野となってしまったなか、謙作と幸子はその地にとどまった数軒の農家と共同でビニールハウス栽培に取り組んだ。これが彼らの農業を改革した。もはやヤマセや冷害に苦しむことはなかった。もう謙作は東京に出稼ぎにでる必要もなくなった。春、夏、秋、冬と四季のめぐりを大地のなかで過ごせる。ようやく謙作が目指していた人生が訪れたかのように思えた。しかしその幸福も一瞬にして奪われてしまった。幸子が畑の中で倒れていた。謙作が幸子を抱きかかえたときもう幸子の鼓動は止まっていた。動脈瘤破裂だった。

 いったいこれはどういうことなのだ。いったいおれの人生とはなんであったのか。幸子はおれの分身そのものだった。彼女がかたわらに立っていたからこそおれの人生があったのだ。これからおれはどのように生きればいいのか。謙作は自身の内部が空っぽになってしまったように思えた。そんな彼にふたたび国家が襲撃してきた。頓挫した開発計画の広大な土地に、今度は大規模な核燃料の再処理工場の建設が立案され、それが本格的に始動したのだった。その建設予定地に居座る農民たちを、すべて追放せよという国家の強権発動もまた始動した。

 幸子を失ったその空洞はいよいよ深く、疲労も蓄積していき、作業に立ち向かう意欲も減退していた謙作だったが、この報に接すると怒りの火がまた燃え立ってきた。この土地は幸子ともに開墾したのだ。この土地に幸子の魂が眠っているのだ。この土地をどうして国家に譲り渡せるものか。謙作は今度も国家と徹底的に戦うという決意をかためていた。ところが国家は霞が関の高級官僚となった息子を懐柔して、息子を通して立ち退きを迫ってきたのだ。
「この大プロジェクトで六ヶ所村は豊かな村になるんだ。全村民が豊かになるんだ。父さん一人の抵抗のためにどれほどこのプロジェクトが遅滞し損害をこうむるか。たのむからその小さなエゴイズムを捨ててくれ」
 そしてさらにこう誘った。
「田園調布に土地を買っている。そこに家を建てる。おやじの部屋をつくるから、もうこの村をたたんで、東京にきてくれ。それを恭子も望んでいる」

 その日、謙作は東北本線の乙供駅で降りると改札口に菅野が立っていた。すでに予約を入れているタクシーのドライバーだった。謙作は一年に二度、春と秋の彼岸の日にはその駅におりたち、菅野のタクシーを猿倉温泉に走らせるのだ。その温泉は幸子と何度も通った彼にとって特別の場所だった。しかし彼の目的はその道中にあった。タクシーがいくつもの峠をこえると、その前方に雄大な十和田山がその全貌をあらわす。その風景に打たれた幸子が謙作に言った。「この景色を太郎と次郎に見せたかった」満州の地で失った二人の息子だった。さらに彼女はこう言った。「ここに太郎と次郎の道祖神を立てましょうよ」。

 そこにいま三体の道祖神が立っている。太郎と、次郎と、そして幸子の。一番左に立つ石仏がにこりと笑った。幸子が彼に笑いかけたのだ。その笑顔に謙作の目は涙でくもる。そうだ、やるべき仕事があったと《写ルンです》をバッグから取り出して、シャッターを押した。

 その喫茶店の前に立っているプラタナスの葉は、もうすべて葉を落としていた。寒風が吹き込んでくる階段を上がって珈琲亭のドアを押すと、香ばしいコーヒーのにおいが彼を包み込む。謙作はいつもの席にすわると、オーナーの孫娘がいつものようにやってきて、「クジラ絵本クラブ」からたのまれたんですけどと言って、彼に封書を手渡した。

《謙作さん。なんて見事な写真なんでしょう。クジラ絵本クラブはやっとわかりました! 謙作さんがなぜ一枚しか撮らないのか。謙作さんは目にするさまざまな景色のなかから、たった一枚、決定的なショットを選びとるのですね。謙作さんの撮ってきた写真をあらためてみるとき、その一枚一枚がどんなにすばらしい写真かがいまはじめてわかりました。謙作さんは魂を写すカメラマンだったのです! そのワンショットのなかにすべてを刻み込む魂の写真家だったのです! そんなこととはつゆ知らず、頭にくるとか、トサカにくるとか、頭を疑うとかいって、ごめんなさい。クジラ絵本クラブとしては、深く、深く、深く(ごっつん! (テーブルにおでこがぶつかった音ですよ)頭をたれて反省しています。今度の取材先は謙作さんの息子さんの家です。もちろん一枚ですね。魂のワンショットです。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

 息子の家は多摩川園駅から歩いて十分ほどの高台にあった。このあたりは豪邸が立ち並んでいる。その中に立つ息子の家はそれなりの気取った建物だったが、周囲の何十億という金をかけた豪邸から比べたら、なんだか哀れなばかりに背伸びしているといった家だった。謙作はその家に一年ほど住んだが、そこは自分の生きる場所ではないと立ち去ってからは、一度もその家を訪れることはなかった。

 息子は三十歳のとき恭子という名の女性と結婚した。恭子はグッチやテファニーで身を飾れることのできぬ人たちを見下し、さげすむような女性だった。婚約すると一度ならず二度三度と夫となる人の実家を訪れるものだが、彼女は一度も六か所村に姿を見せることはなかった。東京のホテルで行われた金ぴかの結婚式は後味の悪いいやな結婚式だった。恭子と彼女の一族は、日本のチベットからきた水呑み百姓どん百姓あしらいだった。

 二人の子供が生まれた。健治はその子供たちをつれて帰郷することがあったが、恭子は一度もその帰郷に連れそったことはない。幸子の葬儀のとき健治は、恭子をつれていく、恭子も焼香したいと言ってると伝えてきたとき、謙作には珍しく声を荒げて、母さんの葬儀が汚される、恭子を連れてくるなと息子を叱った。幸子は恭子がきらいだった。健治はなぜあんな女と結婚したのだといつも嘆いていたのだ。

 その恭子が健治と連れだって六ヶ所村をはじめて訪れたのは、例の強制立ち退きをせまられていたときだった。彼女は言った。
「私たちはお父さまと一緒に暮らすおうちを建てますから、ぜひ東京に来て下さい。私たちはお父さまを大切にします」
 二人の目的は、謙作が手にする巨額の補償金だった。恭子はその金に手にするためにやってきたのだ。
 
 新築なった家に謙作は移住した。しかし彼はその日にうちに、ここは自分の住むところではないことに気づいた。二世帯住宅として建てられたのだが、謙作のテリトリーといったらワンルームマンションのようなものだった。そこで謙作は朝、昼、夜、自炊だった。孫二人はそれぞれ小学六年生と四年生になっていたが、彼らはときおり敵意むき出しの言葉を謙作に投げつけたりした。そういう子供たちの態度は、あきらかに恭子の意志を子供たちが代わって表現していることだった。その家族には謙作は、邪魔なもの、早く消え去ってほしい存在だった。だから半年足らずでその家から立ち去った。

 多摩川園駅を出て五分ほど歩いたところに多摩川が流れている。その日、謙作はその多摩川の堤を歩いた。息子の家で暮らした一年、毎日その多摩川を散策したものだ。多摩川の堤をぶらぶらと歩いていく。どこまでも歩いていく。そのとき謙作は思い知った。自分は農民なのだ。農民は土地を失ったらもう終わりなのだと。どんなに貧しい土地であっても、どんなに不作に苦しめられても、土地を失ってはならないのだと。
 謙作は多摩川の堤から悠然とながれる多摩川を《写ルンです》におさめた。

 十二月に入った。厳しい寒気団が東京を襲っていた。謙作は首にマフラーをまいていた。幸子が編んでくれたマフラーだった。もうくたくたになって色あせているそのマフラーは暖かい。彼のお気に入りのマフラーだった。この日の謙作にはどこなく生気がなかった。なんだかつらそうに階段を一段一段上がって珈琲亭のドアを押した。香り高きコーヒーの匂いが彼を励ましたのか少し元気をとり戻すと、オーナーの孫娘から手渡された手紙に目を落とした。

《謙作さん、とうとうというか、やっとというか、最後の仕事になりました。現在住んでいるアパートの写真を撮ってきて下さい。これまで謙作さんに、あっちにいってくれ、こっちにいってくれ、と無理なお願いばかりしてきてきました。さぞご迷惑なことだったでしょう。《クジラ絵本クラブ》としては、飛行機はビジネスクラス、電車はグリーン車、そして最高級のホテルとかに泊まってもらって、のんびりとゆったりとした旅をしてもらいたかったのですが、少しの取材費しか出せずに申し訳ない気持ちでいっぱいです。最後の写ルンです。このカメラって、ほんとうに変な名前ですよね。ではよろしくお願いします。クジラ絵本クラブより》

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 謙作の住むアパートは、エンジュの街路樹が立ち並ぶ通りを折れて、くねくねとした裏通りを幾つも曲がった所に立っていた。モルタル仕立ての木造二階だてで、間もなく解体されると宣告されているような建物だった。謙作の部屋は一階の一番奥の、北向きの一年中太陽がさしこまない薄暗い六畳一間の部屋だった。全国どこの不動産屋も老人には部屋を貸さないというルールがある。謙作がその部屋に住むことができるようになったのは、管理人という仕事をするという条件があったからだった。
 
 管理人といっても手当がでるわけではない。それどころか毎日、アパートの玄関やらトイレやら廊下掃除をするという仕事があった。しかしそういう仕事を担うことが謙作の生きがいにもなっていた。だれにも気兼ねすることはない。自由だった。仏壇にのっている幸子の写真が、彼にむかって微笑んでいる。美しい笑顔だった。彼の大好きだった笑顔だった。その笑顔が謙作に語りかけている。早く病院にいきなさい、病院が嫌いなのはわかるけど、もっと悪くなったらどうするんですかと。老人はドアをあけて、廊下からその部屋の全体が収まるように《写ルンです》のシャッターを切った。
 
 冬将軍がやってきた。寒風が吹き荒れていた。その寒風をついて珈琲亭にやってきた老人はいつものテーブルに座った。窓からみえる街路樹はもう葉をすべて落としていた。広大なJRの車両基地も、赤煉瓦の建物も、なにやら吹き荒れる寒風に縮み上がっているようだった。その寒々とした景色に目をやりながら、老人はあたたかいコーヒーカップを両手にくるみこんで、いとおしいものをすすりこむようにコーヒーをすすった。そしてコートから封筒を取り出すとテーブルの上に置いた。その封筒のなかには数行の文字を記した便箋が入っていて、そこにはこう書かれていた。

《クジラ絵本クラブ様。自分にとって夢のような旅でした。このような旅を自分に与えてくれたクジラ絵本クラブ様にどんなお礼をしていいかわかりません。これはほんの少しですが受け取って下さい》

 受け取る者をちょっと困惑させるばかりの現金がその封筒に入っていた。コーヒーを飲み干すと、珈琲亭のオーナーといつも交わすセリフを投げあい店を出ていった。それが謙作が珈琲亭を訪れた最後の日だった。

 しかし私たちは今でも謙作に会うことができる。JRの大井町駅の改札を抜け、土手下に線路が走る道を歩いていくと、赤煉瓦仕立てのビルの前にでる。一階は英国屋というテーラーでその店の横にらせん状の階段がついている。その階段をぐるりと回って上がると『珈琲亭・白鯨』のプレートが架けられた店に出る。その店のドアを押すと香り高きコーヒーの匂いがただよってくる。窓際に外を望む長いカウンターがある。そのカウンターの左端の椅子に座ると、そこに一冊の絵本がのっている。その絵本の表紙に描かれている人物こそ謙作その人だった。

 その絵本を開くと最初のページに《渡辺謙作さんへ》と記されている。その絵本の体裁は、左のページに二三行の横組みの文章が、そして右のページが絵だった。パステルで描かれたその絵は、子供が描いたような絵だった。しかしなにか懐かしい、なにか私たちの魂を響かせるような絵なのだ。最初のページからそこに組まれた文章と、その絵をざっと文字でスケッチしてみる。

《渡辺謙作さんは、一九二〇年六月、長野県東筑摩群潮沢村池桜に生まれた》
謙作が潮沢村で撮ってきた写真を下敷きにして描かれている。峠から木立のなかに点在する集落が俯瞰されていた。

《謙作さんは中国の大地を開墾して開拓村をつくった。そして幸子さんと結婚した。二人の子供も生まれた》
畑のなかに立つ二本のポプラ。その木立の前に小さな子供を中に農夫と赤ちゃんを背負った農婦が描かれている。それはおそらく若き日の謙作と幸子を描いたのだろう。

《謙作さんは関東軍に召集された》
謙作を乗せたトラック。そして開拓部落の人たちが日の丸の小旗を振っている。

《謙作さんはニューギニア戦線に投入された。何十万もの兵士がジャングルのなかで餓死した》
 暗い熱帯雨林のなかに、錆びつき破損した日本兵のヘルメットが描かれている。

《ソ連軍が満州国に進攻してきた。幸子さんは逃亡の途中、二人の子供、太郎と次郎を失った。開拓村から日本に帰ってこれたのはたった三人だけだった》
 黄濁した河を避難する開拓民たちが渡っている。

《謙作さんと幸子さんは、再び原野を開拓することになった》
荒れた土地を開墾していく謙作と幸子をミレーの絵画のように描いている。

《冬になると東京にきて建設現場で働いた。農業だけでは食べていけなかったのだ》
海に架けられた巨大な橋。空を飛翔するユリカモの一群。橋梁建設の作業場で謙作が働いていたことを伝えようとする絵だった。

《開墾地は新全国総合開発計画の敷地になった。開拓者たちの大半は開墾した田畑を売ってしまった。しかし謙作さんと幸子さんは抵抗した》
 土砂を運ぶダンプカーが列をなして広大な更地にしていく。謙作と幸子は田畑で働いている。

《幸子さんを病で失った。中国で失った二人の子供を供養する道祖神が六甲田山が見える畑のなかに建っているが、謙作さんはその横に幸子さんの道祖神を建てた》
冠雪した雄大な六甲田山。画面の左側に三体の道祖神が建っている。

《また新しいモンスターが六ヶ所村におそいかかってきた。核燃料サイクル施設の建設がはじまった。このとき謙作さんにはもう抵抗する力はなかった》
起動する重機が謙作と幸子が築きあげた家屋を粉砕していく様子が描かれている。

《謙作さんは一人息子の一家と東京に住むことになった。しかし息子さん一家との生活は一年で終わった》
ゆったりと流れる多摩川。その堤に座っている老人。その背中が孤独と悲しみの深さを伝えている。見るものの胸を締めつけるようなパステル画だ。

《謙作さんはアパートの管理人となって、そのアパートに住んだ。六畳一間の部屋だった》
タンスやら仏壇やら冷蔵庫がひしめていている小さな部屋。そのわずかな空間に卓袱台がおかれている。

《謙作さんは、二〇〇八年二月二十日、荏原病院で八十八年の生涯を閉じた》
 対面の頁は白紙である。何やらその白い頁は、人間の語る最も深い言葉は沈黙であると語っているようだった。

 その絵本を閉じる。歴史に翻弄された渡辺謙作の八十八年の生涯をたどって、あらためて表紙に描かれた謙作の顔に見入るとき、すべてを許容しすべてをつつみこむような笑顔が切なく哀しく心に染み込んでくる。その絵本のタイトルは《日本人》となっていた。

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