外国で生活すると、なぜ日本人ルーティンの様子伺いがないのか?について考えてみた。
とにかく海外ではジロジロ様子伺いみたいな仕草がない。異端を排除し、隊列を乱す者を叩き責任逃れに熱心な日本社会では、いちいち他人を監視しないと生きられないほど、過剰反応する司法に頼り他人の足を引っ張りたい人間に満ち溢れているが、海外だとそもそも赤の他人に悪意をもって干渉しようとするムーブ自体が少なく、それは善意の干渉の方が明らかに多いと、今回の海外滞在で思う。他者への干渉が善意からか、それとも悪意(回り回って、巧妙に、自分の利益のため)かという違いである。
不特定多数の他者への信頼度が高い海外と、低い日本社会
いわゆる「ウチとソト」では、同じ日本人というカテゴリーによって、同じ部隊の所属と確認して、隊列を乱すものを叩くことを正当化する(自分の何らかの落ち度を隠すために他人の非をあげつらう)わけだが、外国人というそもそも同じカテゴリーではない他人には、そうした同隊所属としてカウントできずに、どうしても隊列をはみ出さないようにする努力による「信用」を確認できないために不安になる。ゆえにうまくコミュニケーションが成立しにくい。
日本語は文脈依存的言語であるし、察する文化は察することでお互いを信用し、それを乱した時に信用を不意にして相手を非難し責めるという、危うい相互信用の中でしか成立しない文化である。
そんなことをしなくとも、そもそもの相互信頼の高い海外では、他人に干渉することでいちいち信用を確かめ合う必要がない分、逆に無駄な信用を担保するためのコミュニケーション
が不要であり、直接意見や主張を言い合うだけで済み、はみ出しチェックが不要であるから、日本に帰ると必ず遭遇する、ジロジロ様子伺いがなくなるのではないかと思う。
それは本質的には自己の責任を相手に押し付ける正当性を常に様子見で伺う、鬱苦しい社会ではないということだ。
もちろん、海外の不親切さは異常
世界的にも特殊な、気遣いという責任のなすりつけあい、他者が干渉することにむしろ重きを置く日本社会と異なり、海外では用もないのに他人を様子伺いしている様は少ない。必要があればコミュニケーションを取らないと何も起こらないからだ。だが逆にいうとそれは、トイレやドアの鍵が壊れていても普通、レストランの店員は当たり前に常時待ち構えていないし、オーダーした物が来なくても自己主張しないと出てこなかったり、5つ星ホテルすら、アンケート評価のために露骨に親切な場合を除いて、いちいち過剰なサービスを頼んでもいないのに提供してこない。大雨の中平気でバイクを走らせるし、衣装がずぶ濡れでも気にしない。
マジで誰も干渉しないし、誰も先んじてサービスを押し付けてこない。
自分からアクションを起こさないと何も来ない。逆にそれが世界のスタンダードなのかもしれないと思ってしまう。
ここでは、日本社会や日本女性文化に特有の「察する」なんてのは通用しない。察しない者に責任を押し付けて無限の信用担保ゲームをして、他人に行動を預ける責任回避の甘えた態度は通用しない。
それでもみんな海外がいいと心の底では知っている、けど降りれない、じゃあどうすりゃいいの?
令和まで失われた30年は続き、金融緩和も国債などの都合でうかつに出来ない日本は、GDPに貢献しない老◯に健康保険と年金を優遇し死に逃げを推進し、少子高齢化でウチは勝手に減っていく中で、ソトを増やす外発的開花を受け入れるしかないのではないか。
日本人を不幸なまま島国に閉じ込めるための英語教育を改革し、主要都市は侵略されてこなかった閉鎖的な社会風潮を変えるには、「みんなそうしてるから」と言われて真っ先に飛び降りる態度ならば、ソトの外国人に手本を見せてもらって、みんな自己主張しており、過剰に他人に干渉しない社会、相互監視による共産主義の自家発電をやめさせる、大胆な改革が必要になるように思う。
一度擬似的に侵略されるべく、大量の外国人労働者を受け入れる。そうすれば、潔癖な社会で、些細なはみ出しにイチャモンをつけることでしか、国民の血税で仕事を生み出せない奴らにも、もっとまともな外国人に対する労働が提供できる。
外国人排斥はこの国では起こりにくいように思う。ソトである外国人には無駄に干渉できないからだ。そのまま暴れ回ってもらって、人工外発的開花を目指すのだ。
しかしながらこの案にも弱点が存在し、それはもはや円安の中、日本に来て労働しても二束三文で、他の外国を選んだ方が稼げる良い待遇を得られるという矛盾だ。今度は若者の日本離れで、海外出稼ぎが流行り始めている。もはや既得権益をしゃぶるだけの脱税議員と老◯しか旨みのない国なら、若者も出ていき外国人も来ないで衰退していくだけだ。
公正な資産の分配に失敗しているとしか思えない。皆目先の利益にばかり注目し、国への忠誠心は世界ワースト1位の社会。
そろそろ本音と建前を捨てて、本音のみで自己主張すべき段階ではないか。円滑な共感と察するコミュニケーションの中では嘘はあまりにも容易に登場する。
しかしながら嘘で乗り切れるのももうおしまい。
1ドル=200円への足音が聞こえて来る。
そんなことを思いながら、今日もまた過ぎる。
※表紙は筆者撮影
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