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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (6)

6.


<平成二十六年四月末>

 美枝子は六十歳になったのを機に婦長の職を辞した。まだ看護師は続けるが、これからは少しのんびりできる時間がほしいと思ったからだった。
 これまでは、いつ緊急に呼び出されるか分からないから、夫婦で遠出することもほとんどなく、泊り掛けの旅行もできなかった。
 二年前に退職した夫精一は、先輩の都築次郎さんと二人だけの会社を作って、以前ほどではないにせよそれなりに忙しく動いている。
 それでも美枝子の還暦を祝って二泊ぐらいの温泉旅行には行けるだろうと精一と話していた。


 そんな矢先。
 美枝子は自分の体調に異変を感じた。症状からして最悪の場合が想定された。美枝子は休みを取って二駅先の三田病院を訪ねた。
 検査の結果、膵臓がんと診断された。他の臓器にも転移が見られ、手術もできない状態だった。余命半年と告げられた。
 今後は更に体調が悪化し、仕事にもかなり支障が出てくる。美枝子は辞表を提出した。医療に携わる者としてのけじめだった。
 ――体が利くのは二、三ヶ月ほど。あまり時間が残されてないわ。
 美枝子にはその間にやらねばならないことが幾つかあった。


 美枝子はまず娘の亜希子の支持を得ておきたかった。彼女に自分亡き後のことを託しておかなければならない。
「膵臓がんなの。全身に転移していて手術もできないみたい」
 美枝子は、亜希子に単刀直入に病気を打ち明けた。
「そんなあ」
「放射線治療は拒否したわ」
 電話の自動案内のように感情の抑揚がない自分の声を、美枝子は不思議な気持ちで聞いていた。
「どうして?」
「治る可能性があるなら治療するけど、本の少し延命するだけの治療は受けたくない。辛くて苦しいだけだもの。で最期に苦しむのはやってもやらなくても同じだし」

 亜希子も看護師だからその辺りのことは分かる。亜希子自身、何度か最期を看取ったこともある。家族は一分一秒でも長く生きていてほしいと願うが、同時にそれは患者の痛みや苦しみを長引かせるだけではないかと亜希子は思っていた。でも身内のこととなるとその考えがぐらついてくる。やっぱり治療を受けて少しでも長く生にしがみ付いてほしいと願う。

 亜希子は泣いた。声に出さずに泣いていた。きつく握りしめた拳がひざの上で震えていた。
「お父さんにはもう話したの?」
 亜希子は涙を流れるままにしていた。美枝子は黙って首を横に振った。
「じゃあ、私にだけ?」
「そう。そのうちお父さんにも話すわ。だから今日のところはあなたの胸に仕舞っておいて」

 亜希子はこらえきれず嗚咽おえつした。一頻ひとしきりして顔を上げた時にはいつもの亜希子に戻っていた。
「ありがとう。話してくれて」
 亜希子が手を伸ばしてティッシュ数枚を美枝子のほおに当てる。その時になって初めて美枝子は、自分も亜希子と同じくらい涙を流していたことを知った。


「今日、うちでご飯食べていかない?」
「ありがとう。でもまたにするわ。お父さんの夕食、用意していないもの」
「お父さん、大手を振って外で飲めるから、喜ぶんじゃない」
 美枝子は呼ばれることにした。

 亜希子が大輔や亜由美と食卓を囲んで談笑している。美枝子はそれを微笑みながらながめていた。
「おばあちゃん、今日は静かね」
「あら、私はそんなにぎやかしじゃないわよ」
 亜希子が柔らかい眼差しを美枝子に向ける。美枝子は胸が熱くなった。

 美枝子はそれを隠すように、
「亜由美ちゃん、ボーイフレンドはできたの?」
 と話を振ると、一瞬亜由美の息が止まる。
「えっ、そうなのか?」
 大輔は心配そうな顔で亜由美と亜希子を交互に見る。
「嘘よ、嘘。お父さん、おばあちゃんに揶揄からかわれたのよ」
 亜由美の笑い声が全員に伝播して、場がほのぼのと暖かくなる。

 美枝子はそれを見ながら、一家団欒だんらんのドラマをテレビの画面越しに見ているような気がしていた。


 家に帰ると、精一は亜希子の思惑通り外に呑みに出掛けていた。
 ――亜由美の花嫁姿を見たかったなあ。
 ふと美枝子の頭にそんな思いが浮かぶ。途端に死ぬことが恐くなって、泣き叫びそうになった。

 一ヶ月ほどして、大輔達が山村宅の近くに引っ越してきた。
 亜希子は大輔にも話したようだ。しかし美枝子に接する二人の様子は以前と変わらない。
 ――亜希子は私の思いを理解してくれたのね。 
 美枝子はありがたいと思った。

 程なくして、美枝子は篠田病院を退職した。

 退職から数日後。
 美枝子は、木下家を訪ねた。亜由美が一人で留守番していることは確認済みだった。木下家まで五百メートルもない。だが着く頃にはかなり息が上がっていた。明らかに体力が落ちている。

 美枝子がおとないを告げると亜由美が顔を出した。
「あら、お母さんはいないわよ」
「いいの、亜由美ちゃんに用があって来たの」
「言ってくれれば、私が行ったのに」
「ありがとう。優しいね。いいのよ、健康のため少しは歩かないとね」

「おばあちゃん、この頃少し変わったね」
「そう。ちょっとせたからね」
 確かに一ヶ月ほど前に会った時に比べて少し細くはなったように見えるが、それだけではない。
「優しくなったみたい」
「あら、私が今まで優しくなかったみたいじゃない」
「そうじゃないの。上手く言えないけど」

「冗談よ。それより、ねえ亜由美ちゃん、頼みたいことがあって来たんだけど、聞いてくれる?」
 美枝子の言葉に有無を言わさないものを感じて、亜由美は身構えた。
「何?」
「これなんだけど」
 美枝子は一通の封書をテーブルの上に置いた。
「これをこの人に直接渡してもらいたいの」

 亜由美はそれを手に取った。宛先はなく『杉本隆様』とだけある。
「誰? この人。おばあちゃんの初恋の人とか」
「さあどうかしら。そのうち分かるから。いいこと、必ず直接手渡してほしいの。頼める?」
「いいけど。でも自分で渡せばいいじゃない」
「それはそうだけど。まあ色々あるのよ」

「やっぱり今日のお祖母ちゃん、変よ」
 と亜由美はいぶかしがるが、
「人間いつどうなるか分からないでしょう。だから今のうちに万が一に備えておくのよ」
 と美枝子は軽く受け流した。
 亜由美は訳を聞きたかったが、祖母は一度言わないと決めたら、口を開かせるのは難しいと知っている。追求はあっさりと諦めた。

「うん、いいけど。でもどうしてお母さんじゃなくて、私なの?」
「あの娘は根掘り葉掘り五月蠅うるさく聞いてくるからね。それに一旦引き受けると、あの娘は一所懸命になり過ぎて、周りが見えなくなることがあるの。限度を知らないっと言うか、無理もするしね」

 亜由美は、母がPTA会長を引き受けた時のことも思い出して、なるほどと思う。あの時は私が恥ずかしくなるほど頑張りすぎて、男の子達からはからかわれるし、女子達の中には少し距離を置く子も出て、しばらく母と口を利くのも嫌だったことを思い出した。

「あの娘は、ほどほどってことを知らないのさ。その点、亜由美ちゃんは大丈夫」
 亜由美がほおを膨らます。
「あっ、決して亜由美ちゃんがずぼらだとか、いい加減だって言ってるんじゃないからね」
 ――言ってるじゃない。
 美枝子は慌てて取りつくろったが、亜由美はしっかり傷ついた。

「これだけは忘れないで。この人が現れなければ、その時は誰にも見せないで、こっそり処分してちょうだい」
「どういうこと?」
「言葉通りよ。燃やすか、細かくちぎって燃えるゴミの日にでも出してちょうだい。いいこと、絶対中身は見てはだめよ。どう、約束できる?」

 美枝子は一旦言葉を切った。
「このことは、もし私が死んだとしても必ず実行してね」
「死ぬって……」
 亜由美は絶句する。
 ――おばあちゃんが変わったことと関係あるのかも。
 美枝子は冗談めかして、
「馬鹿ねぇ、もしもの時のことよ。一種の保険だと考えて。いい、分かった?」
 亜由美はこくりと頷いた。

 美枝子は徐にバッグから用意しておいたポチ袋を取り出して、
「これ、お駄賃ね。変なお願いだと思うけど、私にすればとても大事なことなの。だから呉々くれぐれもお願いね。でも別に悪いことじゃないから、心配しなくていいのよ」
 ありがとう。亜由美は言うなり、行儀が悪いと分かっていても、ポチ袋を開け中身を確かめずにはいられなかった。畳まれた紙幣に印刷された5000という数字を見た途端、亜由美の顔がほころぶ。
「うん。任せておいて」
 亜由美は胸を叩いた。忘れないように付箋ふせんに祖母の指示を書き付け封筒に貼り付けた。


 でも、それが美枝子の最後の頼みになるとは、亜由美は知る由もなかった。結局、美枝子は何も教えてくれないまま他界してしまった。

 煙に巻くような話し方は、以前から美枝子がよくやる手だった。
 亜由美を叱る時や注意する時、母親の亜希子が直接一々事細かに指摘するのに対して、美枝子はそれとなく亜由美に気づかせるように遠回し的な言い方をした。
「あっ、そういうことか」
 亜由美はしばらく経ってから得心することがよくあった。

 だから今回もそうだと思っていた。だが、いまだに何も分からない。何も起こらない。
 美枝子から堅く口止めされていたから、母親にも相談できず、一人で悶々もんもんとした日々を過ごしていた。

 しかしそれもつかの間のことで、美枝子の見立て通り、亜由美はそのことでくよくよと思い悩むことはなかった。

<続く>


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