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【短編】約束(1/2)

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あらすじ:明日香は祖母の泰子に頼まれて、認知症を患っている祖父の尾行をすることになった。祖父の行った先は市内のデパートの屋上。祖父は居眠りをして、夕方帰宅した。次の日、報告を聞いた後、祖母が事情を話してくれた……。

 小春日和の午後だった。
 老人はつるデパートの四階でエレベーターを下り、屋上への階段を上り始めた。老人はせわしなく腕時計に目をやる。もう何度目だろうか。
 一つ目の踊り場で、高校生ぐらいの男子が二段飛ばしで老人のかたわらを駆け抜けた。スニーカーがふみづらのタイルを蹴る度にキュッキュッと音を立てた。老人も負けじと歩を速めたはいいが、すぐに息が上がる。老人は一つ目の踊り場で止まって、ひざに手を突いて肩で大きく息をした。やはり若い頃のように、一気にとはいかないようだ。
「待って」
 と言う声がしたかと思う間もなく、老人の視界の端をスカートがかすめていった。今度は女の子か。老人はこうべを巡らせて目で追う。二つ目の踊り場で向きを変えた時、スカートの裾がひるがえって白い太ももがちらりと覗いた。老人はどきっとして、慌てて視線を落とす。うっすら汚れた自分の靴が目に入った。ズボンの膝がちょっと抜け、上着も少しくたびれている。老人は少なからず気後れを覚えた。
 老人は、はっとして腕時計を見る。約束の時間が迫っていた。老人は腰を伸ばし重い足を繰り出す。階段を上りきった所で止まり、額にうっすら浮かんだ汗を拭い、息を整え、短い通路を抜けて屋上に出るドアを開けた。老人の顔を涼やかな風がでる。
 先ほどの二人だろう、奥の方のベンチに寄り添って座っているのが見えた。
 ――わしらの若い頃だったら考えられんな。
 老人はぼやきながら、辺りをくまなく見る。二人の他に人影はない。
 ――よし、間に合った。
 老人は背中を丸めて出入り口に近いベンチに腰掛ける。軽い疲労感とぽかぽかとした日差しが老人を眠りに誘った。

 鶴屋デパートは四階建てだ。今でこそ高いビルに取り囲まれ目立たないが、開業当時はかなり遠くからでもはっきり見えたという。クリーム色の大理石でおおわれた外壁は朝日に輝き、白亜の城さながらのそうごんさがあったそうだ。「あそこへは、よそ行きの服を着て出掛けたものだ」と昔を知る人は口をそろえる。
 当初の計画では屋上の遊園地はなかったらしい。それが社長の鶴の一声できゆうきよ造ることになったのだが、大幅な設計変更を伴う大型遊具の設置は無理だった。そこで後から運び上げられる小規模の遊具のみを据え付けることになった。その証左に、エレベーターは四階までしかなく、屋上へは更に階段で上る不便を強いられる。それでも、当時は近くに子ども連れで遊べる施設がなかったため、平日でもにぎわったそうだ。土日や休日には順番待ちの列が一階まで続くこともあったという。
 午後六時の閉園まで屋上で遊び、その後四階のレストランで食事をして帰宅するというのが、数ヶ月に一度のぜいたくだったという家庭もあったと聞く。
 これまで何度か補修や改装工事が行われたが、周りの新しいビルと並べ見るにつけ、いかにも古びた感じがするのは否めない。しかしこのビルがかもし出す重厚感は際立っており、今なお見る者のえりたださせるものがある。
 十数年前、近くに大きな遊園地やテーマパークが相次ぎ開業したのを機に、老朽化が進み閑古鳥が鳴くようになっていた屋上の遊園地は営業を終えた。ほとんどの遊具が撤去された屋上は、今は広場へと形を変えて一般に開放されている。馬の形をしたスプリング式遊具――これが唯一残された遊具だ――と飲み物の自動販売機が出入り口の脇にある。一面に人工芝が敷かれ、裸足で遊んだり寝転んだりできるようになっている。その外縁部には、背の高い樹木の鉢植えが十数個並べられ、その根元に置かれたベンチに長い影を落としている。

「間もなく閉めますよ」
 デパートの女性店員が、老人の肩を軽く揺すりながら声を掛けた。老人ははにかむような笑みを浮かべて、ゆっくりと顔を上げた。
 しかし女性を見るや否や老人から笑みが消えた。老人はその女性を誰かと間違えたらしい。老人は取りつくろうように、
「何か用かね?」
 と言ったが、ぶっきらぼうな物言いに気づき、恥じるように「すまん。うとうとしていたようだ」と取り繕った。
「お客様、五時になりましたので、屋上を閉めさせていただきます」
 店員が口調を改めて繰り返す。日が傾いて辺りは薄暗くなってきた。屋上には自分以外の姿はなかった。
「あの、誰か……」
 老人は途中で口をつぐむ。
「いや、何でもない。ありがとう」
 老人は腕時計を見て、そろそろと腰を上げた。

          *

「ねえ、明日香あすかちゃん、あした高校は開校記念日で休みでしょう。急な話だけどアルバイトしない?」
 昨日、明日香は祖母の泰子に呼ばれて家を訪ねた。そこで明日の午後三時に祖父が鶴屋デパートの屋上に行くはずだから、無事家に戻るまで見守って欲しいと頼まれたのだった。
 祖父は数年前から認知症をわずらっている。そのせいで時々帰り道が分からなくなる。だから祖父が出掛ける時は、いつも泰子が付き添っている。
「この病気は新しい記憶から順に失っていくのが普通らしいんだけど、あの人は飛び飛びになくしていくみたいなの ※注1。おかしいでしょう」
 泰子の笑顔が歪む。そんな時、明日香は何ともやりきれない気持ちになる。
「もし帰れなくなったら、その時はお願いね」
 泰子は、『お願いね』に合わせて拝むような仕草――たまにこんな茶目っ気を見せる祖母が、明日香は大好きだ――をした後、
「でも、いいこと。それ以外は決して接触してはだめよ。後を付けていることも気づかれないでね」
 と念を押した。奇異に感じたが、泰子はそれ以上の情報を与える様子がない。
 祖父は気むずかしく頑固だ。もし万が一見つかったりでもして、へそでも曲げられたらやつかいだ。そうなると私の手に余る。
「貴志君を連れて行ってもいい?」
 明日香は助っ人を頼むことにした。木村貴志は、近所に住む幼なじみで、一歳年上。泰子も何度か会って顔は知っている。
「あら、いいわよ。彼氏の分も出してあげる」
「彼氏じゃないって!」
 明日香が全力で否定しても、泰子はただ笑うだけだった。
 貴志は、「探偵みたいで、面白そうじゃん」と二つ返事で引き受けてくれた。
 当日の午後二時半頃。明日香は祖父の家に近いバス停で、貴志と待ち合わせた。そこへ泰子から、祖父が家を出たと携帯に連絡が入った。祖父の姿を確認した時点から追跡開始。間に何人か挟むのは尾行の鉄則だ。テレビの刑事ドラマで学んだ。
 だが祖父は、バスに乗る時も、車中でも、真っ直ぐ前をにらんだまま、周りに気をとめる素振りすらない。ちょっと大人びた服装にして、帽子と伊達眼鏡でばっちり変装してきたのに、肩すかしもいい所だ。祖父は駅前でバスを降りると、脇目も振らずデパートを目指してずんずん歩く。
 祖父はデパートの前で一旦止まって背筋を伸ばした。エレベーターを待つ祖父。二人は階段で先回りすることにした。四階のエレベーターの脇に隠れて待ち、降りてきた祖父の後を付ける。
「追い越すぞ」
 いきなり貴志が走り出した。
「気づかれたらどうするの。だめだって」
 止める間もなく、貴志は二段飛ばしで駆け上がっていく。キュッキュッという音が遠ざかっていった。待って。明日香は少し迷ったが、貴志の後を追う。踊り場で祖父を追い越した時、視線が合ったような気がしてあせったが、幸い祖父は気づかなかったようだ。
 二人は出入り口が見えるベンチに座った。明日香は貴志の陰に隠れて祖父を待つ。しばらくして屋上に現れた祖父は、きょろきょろ見渡した後、近くのベンチに座ったが、そのうち舟をぎ出した。
 二時間ほどして、デパートの店員がやって来た。屋上を閉めるようだ。それを機に二人は出口に向かった。一階で待っていると、肩を落とした祖父がエレベーターから降りてきた。明日香達は祖父をやり過ごす。祖父はどこにも寄らず、駅前からバスに乗った。明日香は帽子を深めにかぶって後に続く。祖父は終始うつむきがちで、家の近くのバス停名が案内されると慌てて停車ボタンを押して、バスを降りた。祖父は日が傾いてきた家路をとぼとぼ辿たどって行く。そこまで確認して、明日香は泰子に電話を入れた。

(続く)


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