見出し画像

【ショート・ショート】告知

 ふうっ。
 私が用を足していると、放屁の音とともに大きな溜息が聞こえた。

 月曜日の内科は、忙しいのが常だが、今日の午前中は特に患者が多かった。

 顔を上げて音のした方を見る。奥の器で放っている御仁が発したものだ。
「清水先生、どうなさったんですか? ため息なんかいて」
 確か外科の主任だ。名前と顔は知っているが、ちゃんと話したことはない。区切られた空間で同じ行為をしているという親近感が声を掛けさせた。
「これは、落合先生。いやね……」
 清水も同じ感情なのかも知れない。かなり砕けた口調で返してきた。

「この間、患者にガンの告知をしたんだよ。うん」
 私は慌てて見回す。我々以外に人はいないようだ。だが、私は声を落とした。
「辛いですね。私も、何度か経験がありますが……」
「私が診た時は、もう既に手遅れでね。うん」
「やり切れないですよね」
「そうねぇ、病院の方針とは言え、何度やってもあれは嫌なものだね。うん。患者にすれば、ある意味死の宣告も同然だからね。ましてや手遅れともなればねぇ。うん」
 うんと言う度に、小さくうなづく。一人合点は、清水の癖らしい。

「難しいですよね」
 私は、病院の方針に対し批判的な表現にならないよう言葉を選んだ。
 清水は長いこと上体を揺さ振りながらしずくを切った。チャックを上げながら、のそのそと手洗い場に向かう。
「冷静に受け止める人もいれば、怒り出す人や、生きる気力を無くす人もいる。見た目だけじゃ分からないからね、こればっかりは。うん」
「ええ、そうですね」
「そんな時は、自分の無力さを痛切に感じるね。うん。ただ……」
「ただ、何ですか?」
 私は腰を引きながら注意深くチャックを引き上げた。この間、敏感な部分を勢いよく挟んで、酷く痛い思いをしたばかりだ。

「……その患者はね、笑ったんだよ。口元をわずかに歪めてね。不謹慎だけど、私にはそれが嬉しそうに見えたんだよ。うん」
「嬉しそうに……、ですか」
「いろんな患者さん診てきたけど、初めてだね。うん」
 水が出しっぱなしになっている。気づいてないようだ。私は、さりげなく横から手を伸ばして、蛇口を締めた。
「……見えたんですね」
つぶやきながら顔を上げる。

 その時、黒々とくまを作った清水の顔が、鏡越しに見えた。同時に、清水の肩口にへばり付いた男の顔も。咄嗟に振り返ったが、誰もいない。背筋を冷たいものが流れる。
「その人って……眼鏡を掛けた……ご年配の……」
 声がかすれた。
「ああ、そうね。眼鏡を掛けてたかな。まあ確かに老けて見えたけど、まだ五十代前半だったはずだよ。うん」
 清水はずり落ちたズボンを引き上げながら、
「あれっ、落合先生の知ってる人?」
「いいえ……」
 私はにわかに胃の辺りが固くなった。

 ふうっ。
 清水はまた一つ溜息を吐いて、のそのそ出て行く。

 私は一刻も早くこの場から逃げ出したい衝動を抑えて、清水の丸まった後ろ姿をじっと見ていた。


よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。