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この子の人生はこの子のもの

 少し前に、子どもを出産した。

 妊娠中は、書いては消し、書いては直し、書きかけの記事ばかり量産してしまった。夫の良いところについてただひたすら語るだけの文章から、好きだった街のこと、愛してやまない文房具のこと、昔好きになった人とのこと、妊娠中の体調や思いの記録など。これらもそのうち完成させて投稿出来たらいいな。いや、しよう。

 実は、妊娠中のことは特に、書いては消しを繰り返し、ついに筆が止まってしまってた。そして、とても仲良しの友人にすら、妊娠していることを話せなかった。理由は共通していて、私が心配性すぎるんだろうけど、無事に出産する自信みたいなものがどうしても持てなかったから。

 心配してもきりがないし、かといって絶対に安心なんてことは全くないし、本人としても気を付けるだけのことを気を付けたら、あとはどうすることもできないのだ。分かっちゃいるけど割り切れず、押し寄せる不安などを頑張って打ち返し続けながら、妊娠中の日々をお腹の子どもと一緒に過ごしていた。不安が大きくなったとき、子どもがお腹のなかで「ぽこん!」「にゅーん」と力強く動くのを感じると ”あぁ良かった今日も元気にしてくれてる” って、大きな安心をおぼえた。そうね、私たち毎日一緒に頑張ってる、ひとりじゃないんだもんね、と。

 
 タイトルの言葉は、私が妊娠中に「子どもが私のお腹から無事に生まれてこの世界にやってきた後、絶対に忘れないように心がけよう」と思っていたこと。

 私はこの数か月をこの子と一心同体のように過ごして、お腹の中で大切に大切に育ててきたけれど、無事に出産まで出来たら、役目のひとつを終える。生まれてきてからは、この子の人生が始まる。その人生って、私のそれとはまったく別のものだ。この子が自分で考え、生きる道を選んで自分の人生を自分で生きられるように応援するのが、親になる私の次の役目だ、と。

 さて、この子を無事に出産した。この、幸せも楽しさも愛も理不尽もいっぱいの世界に迎えることができた。さぁ、あなたの人生の始まり。

 ところが、である。

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 産後3日目。前日から引き続き、まだ慣れない子どもの世話を必死に行ってたある時、急に私の頭と心は何とも言葉にできない思いで溢れかえってしまう。目の前ですやすや眠っているこの子が、とにかく愛しくて尊くてかわいくて仕方がない・・・何と表現していいか分からないが、とにかく思いがわーっ!!とあふれてしまって涙が止まらなかった。

「この子は誰からも何からも傷つけられたくない。誰にも触れられたくない。ずっと手元に置いて私が腕の中で守っていなければいけない。」
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・・・待ってくれ。産前に考えていた話はどこへ行ったの?

 そんなこと、きれいさっぱり頭から吹っ飛んでしまった。もう一人の冷静な自分もかろうじて存在し、自分にツッコミを入れてましたよ。
 でもとにかく上に書いたような気持ちで頭がいっぱい。この子のことはどんな手段を使ってでも、どんな傷も負わないように一生守らなきゃいけない、もし何かあったら私は生きていけるか分からない。頭の中でそんなことばかり、私が私に叫び続けていた。どうしたらそれが実現できるかしら、危険分子は大きくても小さくても絶対に排除しなければいけない!!と、必死に考え続けていた。

 
 そして、あれから2か月以上。
 子どものお世話その他で、恐ろしいくらいあっという間に時間が溶けていく毎日を送りながら、産後の身体はだいぶ落ち着いてきた。一方で、子どものためなら頑張ってしまうし多少の無理もしてしまうし、子どもに万が一何かあったらと思うと不安だし怖いし絶対何とかしなきゃと思うし、子どものことを考え続ける頭の中は、目まぐるしく動き回って忙しい。
 
 ただ、ようやく、タイトルの言葉を頭の中に取り戻しつつある。
 
 この子は、この子の人生を歩む。この子が見て聞いて感じて、意思を持って、得ていく様々なものや経験は、この子以外の誰のものでもなくて、それらがこの子の人生を作っていく。いくら、今は一番近くにいる親だとしても、まったく同じ経験をすることは不可能だ。
 
 いずれこの子は、(おそらくあっという間に)私たち親の元は離れる。物理的に、という意味だけではない。また、この子より30年ほど先を生きる私は、高確率で先にこの世を去る。子どもと一緒にいていろいろと世話を焼ける時間って、そんなに長くなさそうだとも感じる。
 じゃあ、その短い時間の間に、この子がどんな風に成長してほしいのか。そのために私はこの子に何ができるのか。

 やっぱり、自分はどう思うのか、どうしたいのかを、しっかり考えて選んで決断しながら生きていける人になってほしい。そのために私が親としてやるべきなのは、やっぱり「この子の人生はこの子のものだ」という意識を根底に持ったうえで、子どもへの接し方を考えることではないだろうか、と思う。
 30年ほど先に生きているだけあって、ついつい先回りして、助言とみせかけた不要なお節介まであれこれと焼くことだってできてしまう。ただ、そんなことばかりしていたら、この子が自分の頭で考えて行動する機会、つまりは成長の機会を奪い続けることにもなるだろう。それは、いちばん避けたい。

 わが子を腕に抱いているときは特に、かわいくて仕方なくて、ずっとずっと一番近くにいたい気持ちがむくむく大きくなってしまう。かわいくて愛しいと思う気持ちは持ちつつも、この子と自分の人生は別なものだということだけは、頭の片隅に置いておきたい。

 あなたをこの世に迎えられて、私はママになったけど。これからも、ママも自分の人生があることを忘れずに歩むよ。全く一緒の道ではないけれど、くっついたり離れたり近づいたり遠ざかったり、いろんな距離感を行ったり来たりしながら、歩いて行こうね。近すぎたり遠すぎたりすることもあるだろうけど、そこは一緒に探りながら考えながら、歩けたら良いなぁ。

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 心配性だし、いちいち考えすぎるよなぁと自分でも思います。その結果として、今回もまたこんなふうにぐるぐる考えてるのです。ただ、忘れたくなくて文章にしました。
 こんなふうに大真面目に考えることもあれば、一緒にあんなことやこんなことをしたいな~って楽しみにしていることもあれば、もちろん心配ごとも多いです。子どものことを、今度どれだけ書くかは分からないけれど、新米ママ、夫(マジで大きな戦力)と一緒に、無理せずほどほどに頑張ります。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
 

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