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怒りについて

こんにちわ。

先日NVCについて語らせていただきました。コミュニケーションツールとしてものすごく有用ですよーというところで色々書かせていただいたんですが、アンガーマネジメントという観点からしても有用だと思っています。

マインドフルネスとかアサーティブコミュニケーションに通ずるものがそこにはあると思ってて、それはすごく簡単に言ってしまえば常に自分の中で他者の存在を意識し、お互いの差異を尊重しあう気持ちをコミュニケーションの前提としてお互いもちましょう、という理念ではないだろうか。

マインドフルネスに関しては少し違うんでしょうかね。<いま・ここ>に意識を集中させることによって一時の感情による安易な批判や判断を下さないようになる、ということが最大のメリットでしょうか。結果として相互コミュニケーションが円滑にいくということが言えるでしょう。

アサーティブについては、最初の繰り返しになってしまいますが以下の画像のようなポイントに要約できると思います。⇩

こういった考え方自体は好きです。ただこれを日常レベルで完璧にこなそうと思うとけっこう難しい、というか完璧にできる人なんていないと僕は思っている。

NVCの具体的な実践方法についてはすでに前に書いたので割愛するが、僕が感銘を受けたのはNVCのテキストの随所に見受けられる著者マーシャル本人の哲学である。

例えば物事を観察する時には「評価・判断」と切り離してあるがままを観察する。これなんてまさにマインドフルネスやアサーションと同じ発想じゃないでしょうか。

そういった部分もおおいに素晴らしいのですが、個人的に最も感銘を受けたセクションがあるので以下それを紹介させて下さい。

それは「感情の奴隷でなく、感情から解放された自由へ」という、感情から解放された状態へと成長していく際には人との関係において3つの段階を経験するケースが多い。というセクションについてである。以下本文から引用する。

段階①「感情面の奴隷状態」:自分以外の人の感情を優先し、みなの幸福な状態を維持するために、常に自分がせっせと努力しなければならないと思い込んでいる状態。➡自分は人の感情に責任があると考える。

段階②「反抗期」:人の感情に責任を負うのはごめんだ!と考える。人の気持ちに責任を負う必要はないということが明らかになった段階。今度は感情面の奴隷にならずに他人の感情に対応する方法を学ぶ必要がある。

段階③「感情面の解放」:人が必要としていることに思いやりをもって反応し、決して恐れや罪悪感、恥の意識から反応することがなくなる。➡自分の感情には100%責任があるが人の感情には責任はないという自覚をもつ。

いかがでしょうか。僕はけっこう気にしいというか、わりと人の表情とか態度とかなにげない言葉とかをいつまでも「さっきのあれってなんだったんだろー。」とか「あー怒らせちゃったかなー。」とかよく考えてしまってたんで上記のような理論は目から鱗といいますか、とにかく感銘を受けました。

しかしNVCのテキストにおいて何よりも【怒り】に対しての考え方が僕には革命的だった。

マインドフルネスもアサーションも、僕の解釈が間違ってたり偏見もあると思うんですが…、「怒りの感情を自分のなかだけで綺麗に処理しましょう。怒りなんて不都合なものなんだから、抑えましょうよ。」といってる部分もあるような気がしてしたまって、それがあまり腑に落ちなかった。

おそらくそれは僕の認識不足でもあり、触れたテキストがもしかしたらあまりよくなかっただけかもしれない。ともかく【本人1人の問題】としてシステムやスキーマが設計されている気がしてしまってるんですよね。

ただ先にも述べたように僕は社会やこの世界に生きて他者との関係性のなかで過ごす以上は心のどこかに、頭の片隅に、自分とはまったく違う考えかたや感じかたをする【他者】が存在するという事実を置いておく必要があると思うんですよ。

じゃなかったら友人であれ家族であれ恋人であれ伴侶であれどうやって多少なりとも心を通いあわせることができるようになるんでしょうか。。

すべてが自分の感情論だけでしか世界と関われない人はさっさと淘汰されてほしいと願ってしまう。

すみません、話が脱線してしまいましたね。話を元に戻しますと、NVCのテキストの中に「怒りをじゅうぶんに表現する」というセクションがあるので以下に引用します。

「怒りを無視したり、押し込んだり、飲み込んだりすることをやるよりも怒りの核心を心の底から充分に表現する。または表明することが難しければその怒りの根拠としっかりと、向き合う。」

さらに彼は「怒りの責任から相手を解放すること」という。

「怒りの責任から相手を解放すること」とはいったいどんなことなんでしょうか。以下にマーシャルの説明を引用するがここの部分を少しだけ考えてみていただきたい。僕はこれ読んだ時に

ってなったからだ。どういうことなんだこれはって。。

マーシャルはこう言った。

・「人の言動によって怒りが生まれることは絶対にない」

・「人の言動は私達の感情を刺激することはあっても、感情の原因にはならない。(刺激)と(原因)をはっきり区別することが重要。」

これには注釈が必要だろう。彼は怒りの原因は非難や決めつけをする自分の考えにあり、怒りを作り出すのは僕らの頭の中にあるイメージと捉え方であって人の言動によってではないと言っているのである。

人の言動は僕らの(原因)にたいしての単なる外的な(刺激)でしかないということだ。

もっと言えばこの(刺激)の強さの要因は、これはあなたの倫理・行動規範・正義を他者に投影して見てしまっているということでもあるだろう。

僕の当たり前はあなたの当たり前ではないし、あなたの当たり前は僕の当たり前ではない。僕らにとってモラル・マナー・倫理といったなかにおいては最低限共有しておいたほうがいい規律・規範がある、ということは別にしてですが。

僕はマーシャルのこの怒りに対してのこういった一連の考察に感銘を受けたが、、どう感じられたでしょうか?

ただですね、、【怒り】という感情は、僕がまだまだ青いせいか、必要な感情に思えるんですよ。少なくとも今の僕にはまだ必要だと思っている。

正当な暴力はないが、正当な怒りはあると思う。

許せないものを綺麗事で誤魔化してなかったことにするほうがよほど不健全であり、不自然であり、不真面目であり、自分の感性や感受性と正面から向き合わない、という点で卑怯だ。それは自分自身に嘘をつく行為だ。立派な欺瞞だ。

怒りを抱えてもいいではないか。許せないものがあっていいではないか。それの何がいけない?むしろ自分のなかで許せないものを持ってない人を僕は信用できない。

自分の心が、行動が、怒りに捕らわれなければいいだけの話だろう。怒りは視野狭窄を引き起こし、行動を著しくにぶらせる。ただそれは捕らわれてしまったらの話しだ。

怒りを抱き、より良く自分を生きるための行動を起こすための燃料にしよう。今まで行けなかったくらい、遠くまでいくために。

最後はこの曲でバイバイです。

この人のファーストアルバムはほんっっっとに最高。現代のキャロルキング。ダイアンバーチで【Fools】

他の曲も最高なので時間あればぜひ見てみて下さい。

しかしいい天気ですねー。よい1日を。

ではまた。

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