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#13 エジプト珍道中 汽笛とともに

日没がせまる夕方、エジプト中部のその主要駅の前には、人が群がっていた。バックパック、ボストンバッグ、スーツケース。いろんな荷物がある。

旅の中盤、拠点のカイロからルクソールへ向かうときは、「ホルスの逆襲」に遭いながらも飛行機で一気に移動したが、帰りは一転、のんびりと寝台列車で戻ることにした。

だが、混雑で駅舎に入れない。というのも、中に入るために荷物検査をしなくてはいけないのだが、機械が一台しかなく、乗客全員がその一列をめざしてごった返していたのだ。出発の時間までにまだ余裕があったので、おとなしく列のうしろに並んだ。

順番がまわってきた。荷物はベルトコンベアの流れにまかせて白い箱型の機械に通し、人間は夏越の祓みたいに背をかがませて金属の輪をくぐる。何も反応しませんようにと祈るまでもなく、なんなく通過できた。箱のむこうの警備員らしき男をちらりと見ると、黒革のソファにだらりと座ってふんぞりかえり、天井を見上げて河馬のような大あくびを一発。その後も視線が定まらずにぼんやりしていた。

出発までに一時間ほどあったので、カフェテリアに入り、缶のスプライトを注文した。どの電車に乗るんだ、と店主の男が声をかけてくる。窓の外を指さして、その電車はすぐそこのホームだ、ゆっくり休んでいってくれ。シュクラン。アフワン。

店の床は駅と同じ古びたリノリウムだった。あまりぱっとしないが、丸テーブルと椅子は柔らかいラグで包まれていて、発車までの時間をつぶすには、なかなか居心地が良かった。妻は背もたれに頭をあずけて眠りはじめた。妻はどこでも寝られる。すばらしいことだと思う。

見知らぬ土地の見知らぬ駅で、複雑な思惑を孕んだまなざしがこちらに注がれているかもしれないと思うと、私はうまく眠ることができない。実際、つい先ほども見知らぬ男が現れ、謎のメッセージを残して去っていった。時間になったらまた来るから、ここで待ってろ。ふいをつかれた一瞬のことで頭がまわらず、私の語学力がおぼつかないこともあり、うまく意味がつかめなかった。深く考えず忘れることにして、紙パックのオレンジジュースを追加でたのんだ。

やがて発車十分前になり、遅れることなくホームに入るとのアナウンスが流れた。もうすぐだよ、次の電車だ、と店主の男が微笑みかけてくれたので、私はお礼とともに支払いをすませ、荷物をかかえて改札に向かおうとしたところ、怪訝そうな表情で男がこう言った。さっき声をかけた奴はお前の連れじゃないのか。なにか面倒なことに巻き込まれそうな予感がしたので、違うよ、とだけ言い残して先を急いだ。

ホームにはまだ前の列車が残っていた。同じ位置にとまるかわからないが、私は予約した寝台列車の番号を確認し、ひとまず目の前にある列車の二号車の位置にむかうことにした。

欧州から来た男女の観光客、ガラベーヤを着た男性、頭をスカーフで覆った女性、その手に引かれた乳母車に眠る男の子の鼻には透明のチューブが刺さっていた。いろんな人とすれ違いながら目当ての二号車あたりにたどり着くとそこには、こぢんまりとしたキオスクがあった。

どんなものがあるのだろう。日本でもなじみのあるクッキーやエジプトで人気のスナック菓子のほか、割れたパンにハムやチーズを挟んだ軽食もあった。買う気もなくただ興味本位で眺めていると、キオスクの親父と視線がぶつかった。何号車だい? との質問に応えると、ここで待っていれば大丈夫だ、と教えてくれた。となりで黄色いTシャツの少年が笑顔をよこす。親父の息子だろうか。ジーパンの腿のあたりが何箇所も横に裂けていた。私はありがとうと言い、なにか買おうかとも考えたが、ほしいものがなかったのでそのまま近くのベンチに腰かけた。

やがて、遠くから、昔はよくトンネルで見かけたが最近は減ってしまったナトリウムランプの光が、ゆっくりと近づいてくる。ぼんやりしたその光はやがて、一つの塊から三つにわかれた。汽笛が鳴った。巨大なハーモニカを吹いたらこんな音がするのではないだろうか。深みがありつつも、抜けのある軽さをともなった音とともに、寝台列車がホームに滑り込んできた。

十五、十四、十三……。覚えたてのアラビア数字を記した車両が、大きな数字から順に目の前を通りすぎてゆく。十二、十一、十……。減速しているとはいえ、まだ動いているにもかかわらず車両のドアはすでに開いていて、車掌が半身を乗り出している。九、八、七……。白いボディに緑色の線が入った列車。理由はわからないが、窓ガラスにはところどころ致命的な罅が入っていた。六……、五……、四号車が目の前に停まった。

あれ、二号車じゃない。当てがはずれてぽかんと口を開けているその隙に、突然、キオスクの少年が私の荷物をひったくり、ホームを埋める乗客のあいだを縫ってすたすたと大股で歩きはじめ、どんどん遠ざかる背中を追いかける私を尻目に、時折こちらがついてきているかを確認しながらピースサインをよこし、向かう先が二号車であることをアピールしてくる。

息を切らしてようやく私が二号車に到着すると、少年はドアの前の列に構うことなく先頭に割りこんで、こっちへこい、と手をふって訴えている。列に並んでいる乗客の冷ややかな視線を感じつつ、しょうがなく荷物を受け取りにいった私に、少年は横に降っていた手を降ろしてそのまま、へその前でくるりと掌を返してバクシーシを催促し、駄賃を受けとるとすぐに、目もあわせることなく自分の店に逃げていった。

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