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仮面

 「止まない雨はない」
これほどまでに気休めに過ぎない言葉はない。このようなことを言う者達は決まって皆、希望に満ち満ちたような間抜けな顔を一ミリも乱さず並べているものである。
降りしきる雨の中、こんな事を考えながら、あてもなくただひたすらに歩き続けることがいつしか日課になっている。


 五日前、ついに仕事を首になった。仕事とは言っても、だれにでもできる単純作業だ。たいしたことではないと自分に言い聞かせてはいるが、止まない大粒の雨が無情にも身体を打ち付ける度に胸が痛い。
「明日から再就職先探しの旅の始まりだな」
金木に言われた言葉が頭の中を駆け巡る。金木は私が入社した頃から、当時責任者であった吉本の下につきながら働いていた。他の社員の面倒見もよく、私の同期からも信頼があった。飲みの席では吉本の横柄な態度や高圧的な口調で部下を叱責する悪癖への愚痴をに聞き、共感までしてくれたものだ。
「私が昇進するまで我慢だ。いいか。私を信じろ」
それが金木の口癖だった。吉本の本部への昇進移動に伴って、皆が待ちわびていたその時がきた。金木が支社の責任者となったのだ。公言通り、当初は部下にとって働きやすい環境を作ろうとしてくれている事がひしひしと伝わってきた。しかし、それも束の間のこと。次第に本部の人間に媚び諂い、支社の成績が悪いと部下一人一人を呼び叱責するようになっていた。それが悲劇の始まりだった。一人、また一人と同期や部下が金木に呼ばれては青ざめた顔をして帰ってきた。その日のことは忘れもしない。金木が待ち構えていたのは、フロアの一番奥の会議室。緊張した面持ちのままドアを開けると、そこにはニヤニヤと笑みを浮かべた金木が座っていた。異常だ。今まで汗水流して共に働いてきた同僚や部下達を、水や食料も渡さず広大な砂漠へと放り出すことがなぜできるのだろうか。金木が浮かべていた表情は、苦痛ではない。明らかにこの作業に喜びを見出していた。遂には金木が口を開いた。
「ここのところ欠勤が増えているね」
「前にもご相談した通り、梅雨のこの時期は気分が優れないもので」
「それでも、欠勤が続くとね。ほら、周りの目も気になってそれもストレスだろう」
周りの目とはいったい誰のことなのだろう。そんなことを考えていると、金木が口を曲げながら言った。
「よくいるものだ。そのような病気を患っていますっていう社員は。だがその症状なんかは君自身にしかわからないものだろ?その日の気分で出勤したり、欠勤したりズルズルと身を置いていないで、スパッと辞めてみたらどうだ?精神科にも通っているそうじゃあないか。世間からしたら、君は異常な鬱持ちで、不安定だと思われると嫌だろう」
こいつは何を言っているのだろう。世間とは、お前のことだろう。鬱持ちの私がいることによって、お前の成績やキャリアに影響することが心配なのだろう。
私はドアを出た。前任の吉本にさえ別れ際に言った、「お世話になりました」という言葉すら口から出ることはなかった。一体私で何人目なのだろうか。この、悪魔の目撃者は。


 「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」
弱まることを知らない梅雨の嫌らしい雨の中、チャップリンの言葉を思い出してみる。孤児院で育った不遇のときも、決して未来への希望を捨てなかったことから巷ではチャップリンの勝ち気な性格を表している言葉と言われているが、そうではない。多分、そうではないのだ。きっとチャップリンは、人生に絶望していたのだ。この言葉は、きっと人の醜さに打ちのめされた後に彼が振り絞った強がりなのだ。悲劇という言葉は、ほんの少しばかり希望の光が含まれている表現だ。彼は、それでも人生に希望を見出そうとしていたのだろう。チャップリンと自分を重ねてみる。惨めな気持ちになった。私はもはや一つの光すら見出そうとはしていないからだ。


 「人に生まれた以上、人生とは生き地獄である。決して喜劇などではない。なぜなら、人の本質とは、両の目を覆いたくなるほどに醜いからだ」
チャップリンら、過去の偉人たちに倣って、伝わるはずもない私の名言を思い浮かべてみる。人生が地獄である理由は、いたって明白なもので、人間にあるのだ。彼らは皆、仮面を被っている。誰もがそれぞれ違う仮面を被って、当たり障りもなく、また、なるべく他人の怒りに触れないように生活している。ところが、一瞬だけ、仮面の隙間からその素顔が垣間見えるときがある。初めてその素顔に気がつく時期やきっかけは、人によって異なる。私の場合は17歳のときだ。些細なことから気分が落ち込み始め、学校に行かなくなった。ひどい眠気から、一日中寝込んでいたものだ。そんな私を両親が連れて行った先は精神科だった。待合室には側からみれば狂人の予備軍達が、狂人としての認可を待っているようだった。
「明日から異常者として生きていいですよ」
こんな言葉だけをもらいにきたようなものなのだろうか。私の番がやってきた。さて、異常者として認めてもらおうではないか。認可は瞬く間に降りた。母親が私の様子を説明し始めて30秒ほどですぐさま鬱病と診断され、薬を処方された。黄ばんだ白衣を身にまとい、気だるそうに椅子に座っている初老の医者にとってはもう慣れたものなのだろう。短すぎた診察という名の異常者審査を終え、異常者としての資格を受け取り、部屋を出ようとしたときに、母親の口から放たれた言葉に我を失った。
「先生、遺伝のせいじゃないですよね。私たちの家系には異常者はいませんもの。この子の問題ですよね?」
そのとき、愛想を振りまきながらも、必死に尋ねる母親の仮面の下の素顔が見えた。悪魔だったのだ。一般的な悪魔の描写もそれよりも更に醜く、恐ろしい顔をみて、思わず声を上げた。悪魔が笑いながらこちらを見て私に尋ねる。
「どうしたの?大丈夫?」
たしかに母親の不安そうな声だが、そうではない。ずっと黙っていた父親を確認すると、彼の素顔を隠していた仮面をも無くなっていた。思わず診察室を飛び出した。受付も、待合室のどこを見渡しても、悪魔だらけだったのだ。酷く恐ろしくなってトイレに駆け込んだ。水で数回顔を洗い、顔を上げた。目の前にはさっき見た悪魔達と何ら変わらない、醜く恐ろしい顔をしていた私が立っていた。


 時期に差は生まれるにしろ、人は生きていれば人間の本性に気づくものだ。私たち悪魔は、悪魔同士、社会を形成し、依存しあっていかないと生きてはいけない。しかし、本性を隠さないと、その社会でうまくやってはいけないのだ。本当は醜く、恐ろしい素顔を隠すために、仮面を被る。仮面とは、素顔を隠すには必要不可欠なものであり、それによって悪魔同士のトラブルを少なくしようとしているのだ。しかし、私たちは仮面を被ったまま生まれてくるのではない。社会人になってから数年経った夏、親戚に子どもが生まれたという。乗り気ではなかったが渋々病院を訪ねると、集中治療室と呼ばれるカプセルのようなものにその子はいた。思わず天を仰いだ。精神科で見た、あの悪魔の顔をしていたのだ。数年前に、成長したその子を再び見かけた。おそらく八歳か九歳だろうか。その時には、悪魔の素顔は仮面で隠されていた。
「またあえて嬉しいです、おじさん」
無理やり教え込まれたような文言を、その幼い子どもが愛想よく言って見せたことは絶句した。もう、人間には救いはないのだと確信した。その仮面を被った子の言葉に対して返答することもなく、その場を離れた。

 
 雨が強まってきた。道路脇に植えられた桜の木から時折、大きな雨粒が落ちてくる。
「みんなで会うとやっぱり楽しいなあ」
右手の居酒屋から出てきた四人組の男女の一人が、赤みがかった顔で言った。
「またすぐ会おうよ。友達っていいものね」
二十代前半だろうか。小柄な女性がしみじみとした様子で言った。
四人全員がそれぞれ、社会の中で揉まれながら自分たちで作り上げてきた仮面を被っていた。本性はこの世で最も醜いものなのに、なぜ悪魔同士関わり続けたがるのだろう。仮面の下の素顔を知らないのか、それとも知らないフリをしているのか。いずれにせよ、そんな世界には一筋の光すらありはしない。

 雨は一向に止む気配はない。好都合だ。傘もささずに今日も、歩く。この降り頻る雨の中を、ただ歩くのだ。この雨が次第に私の醜い素顔を洗い流してくれると信じて。


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