見出し画像

蛇に足が生えてもいいじゃない

蛇足。

この言葉の意味をかれこれ1週間考えている。わたしには意味がよくわからない言葉のひとつである。

どうして蛇に足を描くことが余計なことなのか。
そもそも蛇に足がある、またはないことを証明できるのか。
想像で蛇に足を描くことが余計なら、龍や白濁は余計なものになるのか。

言葉の意味として考えてもわからない。
その人は良かれと思って行ったであろうことを、受け手の勝手な視点で余計なことだと決めていいのだろうか。
ウサギがレースの途中で居眠りしたことは、果たして余計なことか?
居眠りはいけないことだろうか。
善悪を判断しているのは、読み手側の勝手なジャッジだ。

ウサギがタヌキの背中に辛子を塗って泥の船に沈めることは、余計なことではないのか?
ウサギの敵討ちは当然だとジャッジしているから、これは蛇足にはならないということだろうが、わたしにはこのふたつの違いがわからない。

かく言うわたしは、蛇足だったかもしれないと最近思い始めた。
と言うのも、それまでわたしは蛇足…つまり余計だと思ったことがなかったからだ。

魔術の世界では、必要なところに必要な分が与えられる。必要ではないなら与えられない。しかも余分というものはない。

だから余計とか、余暇とか、余裕とか、日々の生活で感じたことがない。常に動いていたし、ギリギリも好きだし、その方が充足感があった。
食べ過ぎたくないし、体にフィットした服が好きだし、ものが溢れていると捨ててしまいたくなるし、必要最低限の人間関係で満足しており、ここにも余分はないのである。

なのに蛇足を知ってから、わたしの行ってきた行為は他の人から見れば蛇足だったのかもしれないと思えた。

先のウサギのようにそれは、見る人が違えば蛇足に成り得るからだ。
それこそわたしの仕事とか、ニッチだし、ブログもYouTubeも本も結果がすぐについてこないので無駄ではないかと言う人さえいる。

しかしわたし自身は、なんにも余計だと思っていないのである。むしろ良かれと思ってすらいる。

相対性で評価が決まる世界のこういう場面が苦手である。
つまりウサギが「俺は蛇足だった」と言うのはいいけど、余計なことをしたと思わないのであればそれでいい。外野があいつ余計だわ、と思うのは筋違いである。

しかも結果がついてこないのは別に自分のせいではない。努力を存分にやっている自負がある。それこそ余暇なしで。
相対性から評価されるから結果はまた別の話である。ピカソの絵のように。

想像力が欠如しているのか、クリエイトしていく力がないのか。
蛇足とは難しいものである。

ちなみにわたしがこんなに悩んだのは、ポケットの中のビスケットを割ったら最大何倍になるだろうかと考えた時以来だ。
1回叩くと2倍に増えて、もう一度叩くとそれがまた2倍に増えると考えて結論まで出したのに、よくよく歌詞を見てみると。

「ポケットの中にはビスケットがひとつ。
1回叩くとビスケットがふたつ。
もう1回叩くとビスケットがみっつ。」

というのが正式なようで、わたしの理論は根本から崩れたのである。
きっと今回の蛇足も、これこそ蛇足となるものだろう。

それでも心優しい方は、スキやシェアしてくれるととても嬉しい。

サポートして頂けたら、魔術研究の支援に使わせて頂きます。皆様により良い情報とデータを開示することで生き生きとした魔女活・魔術ライフになるよう願っています。