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頭に映像を浮かべれば「文章」は誰でも書ける!?

ここのところいつも原稿を書いている。本やSNSやこのnote。原稿が進むときもあれば、まったく進まないときもある。その違いはどこから来るのか考えてみると、ひとつの結論にたどり着く。

「頭に映像が浮かんでいるか」

これに尽きるように思う。昨日の夜はレストランで「海の幸のスパゲティ」を食べた。言葉で書くと単に「海の幸のスパゲティ」なのだけど、その映像を思い出しながら書くとこんな感じになる。

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少し青みがかかった白い皿に
盛られたパスタが運ばれてきた。

平打ち麺のせいか、
パスタ自体のボリュームは
あまり感じなかったが
魚介はたっぷりのっていた。

ホタテが4切れ、
貝殻がついたままのムール貝が3つ、
ところどころにリング状のイカがあって、
加熱されてとけかかった
プチトマトがたくさん入っていた。
それらの上に細かく刻まれた
パセリがふられている。

魚介をひとつひとつ食べていくと、
その下から思いのほかパスタが多く出てきた。
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この文章自体はうまく書こうとか、感情を込めようとか、そういうことはいっさい考えていなくて、頭の中に「見えているもの」をそのままひとつひとつ書いただけ

文章をうまく書こうとすると「うーん」と唸ってなかなか進まないことがあるけれど、見えている事実を淡々と書くことなら、誰だってできるはず。たいていの場合、小説家を目指しているわけじゃないので、「うまい」必要はない。

では、それを「体験」していない場合は書けないかというと、そんなこともない。例えば「上司に怒られた時の対処法」がテーマの記事を書く場合、「上司に注意されるシーン」を書き手が頭に受かべながら書くとより臨場感が伝わるし、そのシーンは過去の「経験」プラス「空想」で構わない。経験がなければ「完全な空想」でもいいと思う。

単に文章として、
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上司が怒っている場合は・・・
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と書くのではなく、

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朝、始業ギリギリの8時30分に会社に着き、
机の上にカバンを置こうとした瞬間に
上司から「◎◎くん、ちょっと」
とやや強めのトーンで呼ばれました。

一瞬ビクッとしましたが
大きめの声で「はい!」と返事をしながら
カバンから素早くメモと鉛筆を取り出し、
5メートルほど離れた上司のデスクの前まで
小走りでいき、恐る恐る立ちました。

上司は背もたれにデンと寄りかかって
こちらと目を合わせず、資料を見ながら

「きみの出した計算が合わない」

と不機嫌そうに言うと、
ムクッと顔を上げてこちらを見ました。
メガネの奥の目はとても鋭く、
資料を持つ手がかすかに震えていました。

こんな場合は・・・
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こう書いたほうが、読んでいるほうもそのシーンが「映像」として見えてくる。書き手と読み手の頭に浮かぶ映像が必ずしも一致している必要はないと思うけれど、どちらにも映像が浮かんでいると臨場感が出るし、共感も呼ぶし、自分ごとになる。

ぼくの会社の文芸編集者は、デビュー間もない作家に対して「◎◎さんの頭に見えているものをもっとしっかり書いてください」という指摘をよく行っている。「小説」なので、頭に浮かぶものは作家が未体験なことも多いが、それでも映像として浮かんでいるはずなのだ。

ノンフィクション的な記事や本なら、書き手は体験したことも多いはずだから、なおさら映像を浮かべやすい。

「伝える」「伝わる」ということは、映像を交換し合う作業だ。

文章が書けないときはもちろん、「人に自分の考えがイマイチ伝わらない・・・」と思ったときは、頭にそのシーンを映像で浮かべながら、見えたことをひとつひとつ言葉にしていくと、相手も同じような映像を頭に浮かべてくれるかもしれない。

上司に叱られるシーン
コップの水をこぼしたシーン
散歩中の犬が電信柱の匂いを嗅いでいるシーン
満員電車の中で咳をして白い目で見られたシーン

その時の自分や相手の姿形、匂い、音を丁寧に書いていくと、読み手と映像を共有できる。ぼくの知り合いの作家は、箱根の山奥の旅館にこもりながら、大都会で起こる凶悪犯罪の物語を書いた。

どこにいても目を閉じれば映像が浮かぶ。こうすると、書けなかった原稿が、すっと進み始めるかもしれない。

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