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はたらく人のために はたらく人。

私は、二度死にかけている。

はじめは2012年。
当時、医療系の企業で営業マンをしていた私は、仕事のあとにスポーツジムに行くのが日課だった。
転勤で社宅に住んでいたこともあり、ジムの広いお風呂に毎日入れるのが楽しみだった。

その日は、朝から少し動悸がしていたが、37歳という年齢から特に気にも留めなかった。
いつも通り仕事を終え、ジムに着いてスタジオプログラムに参加した。

その頃流行っていた「ZUMBA(ズンバ)」を踊っているうちに、だんだん気が遠くなってきた。
これは無理をせず座ったほうがいいと、スタジオを出てソファに向かって歩きだした。

で、倒れた。

受け身を取らず顔面から落ちたようで、目が覚めていちばん痛かったのは頬だった。
周りには、心配そうにのぞき込むジムのスタッフさんたち。

緊急搬送はされなかったものの、胸の違和感がぬぐえないため、自分で夜間救急に電話して診察してもらった。
いつも自分が営業をかけていた、心臓の専門病院だった。

検査の結果「狭心症の疑いあり」と診断された。
金曜の夜だったため、週明けに精密検査に来るよう言われた。

それからいろいろ調べていった結果、病名は「心臓弁膜症」だった。
本来なら全身を回るはずの血液が、心臓の中で半分以上逆流していた。

6月13日、人工心肺に繋いで手術がおこなわれ、8時間心臓を止めた。
いろいろトラブルはあったものの、無事に3週間で退院できた。

そこから2か月、自宅療養をするように医師から指示があった。
トータルで3か月休職したのちに、仕事に復帰した。

しかし、もともとの営業の仕事には戻れなかった。
ひとりで営業車で外回りをするのは危険と判断されたからだ。

内勤を与えられることになり、遠方への異動を命じられた。
自分の体調の都合での転勤ということで、異動先では社宅扱いにならなかった。

病み上がりに異動させられることや、社宅にならないことについて、考え直してもらえないか会社に相談した。
実は、経済的にもかなり追い詰められていたからだ。

この時、人事部長に言われたひとことがきっかけで、現在の仕事である社会保険労務士を目指すことになる。

「病気になった、あなたが悪い」

人生ではじめて、人を殴りたいと思った。
いつかこいつを見返してやろうと思った。

こうして、人事にまつわる国家資格である社会保険労務士の勉強をはじめた。

異動先として赴任した病院内の検査室で内勤をしながら、家に帰ってから勉強した。
勉強して勉強して勉強した。

でも、あと一歩が届かなかった。
あと1点が足りなくて、なかなか合格できなかった。

3年ほど経ったところで、会社から「そろそろ黒田を営業に戻そう」という話が持ち上がった。
内勤が嫌なわけではなかったけど、以前の仕事に戻れるのは純粋にうれしかった。

ところが。
急に、言葉が出なくなった。

言葉が浮かばないのではなく、消えてしまう。
声に出そうとした瞬間に、ふわっとなくなってしまうのだ。

すでに40代にさしかかっていたし、老化なんだろうかと思った。
でも、心臓のことがあったから、内心だいぶビビっていた。

3つ年上の上司に、何気なく聞いた。
「40代になると、そういうことってありますかねぇ?」

上司は真顔で言った。
「黒田さん、それ病院に行ったほうがいいよ」

翌日、脳神経外科で頭のMRIを撮ってもらった。
結果を聞くために待合室で待っていると、先生が言った。

「ご家族の方、呼べますか?」

胸がもわっとした。

「いや、独り者なんで」と答えると、
「そうですか…中にどうぞ」と言われた。

診察室に向かいながら、この感じ知ってるぞ、前にもあったぞって思った。

電子カルテのモニターが、パッとついた。
そこには、でっかい腫瘍が映し出されていた。

脳腫瘍だと言われた。

そのあとのことは、ほとんど覚えていない。
その日どうやって帰ったのか、まず誰に話したのか、記憶からすっかり無くなってしまっている。

営業に戻る話は、白紙になった。
検査入院のベッドの上で、この年も社会保険労務士試験に1点足りずに落ちたことを知った。

年が明けて2016年1月6日、開頭手術を受けた。
こめかみから頭頂部を経由して反対のこめかみまで、真一文字に切ってあった。
傷口は無数のホチキスで留められていた。

このままでは死ねない。
考えることは、それだけだった。

手術翌日からテキストを開いて、勉強を再開した。
吐き気と闘いながら、すがるように勉強した。

経過はとても良好で、2週間で退院することができた。
その後1か月の自宅療養を経て、仕事に復帰することになった。

明日から復職という夜。
私はいい歳をして、布団の中で泣きながらうずくまっていた。

怖い。

訳が分からずに仕事に戻った心臓手術の時とは違い、もう知っている。
周りの目や、優しくもぎこちない気遣いへの申し訳なさや、思うように動けない自分へのいらだち。

怖い。
怖い。

会社に行きたくなかった。
そんな気持ちになったのは、生まれてはじめてだった。

まだ髪の毛が生えそろってないので、ニットキャップをかぶって出社した。
車の運転は禁止だったから、電車とバスを乗り継いでいつもより倍以上の時間がかかった。

痛かった。
傷も、周りの目も。

それでも、社会保険労務士の試験に受かることが生きるモチベーションになった。
人目を避けるように家に帰り、ひたすら勉強した。

試験は手術から7か月後で、当日までにはもうだいぶ回復していた。
いつのまにか、もう怖いものなんて何もないくらいまで開き直れるほど、心も強くなっていた。

その年に合格。
もうあの人事部長なんて、どうでもよくなっていた。

こうして、2017年8月25日に社会保険労務士として開業した。

私は今、労働者側の社会保険労務士として活動している。
社会保険労務士(略して社労士)を知らない方も多いかもしれないが、主に会社からの依頼を受けてはたらく国家資格である。
労働者側の社労士というのは、まだまだ数が少ない。

自分がサラリーマンとして病気や会社と闘っていた時、味方はほとんどいなかった。
頼れる人が誰もいないまま、心をボキボキ折られながら立ち向かっていった。

きっと今も、あの時の私と同じように苦しんでる人がいる。
病気に関することだけではなく、どうしても会社のほうが立場が強いから、いろんなことを我慢したりあきらめざるをえない労働者がたくさんいる。

そんな人たちが頼れる存在になりたいと思って、労働者側の社労士として情報を発信している。
労基署などでも解決できなかった悩みを、専門家として相談に乗っている。

かつては社労士という資格すら知らなかった私も、自分の経験からこの仕事にたどり着いた。
今となっては、病気になったこともここに繋がるために必要だったんだとさえ思う。

信念を持ってはたらけるというのは、とても幸せなことだ。
自分で選んだ職業に就ける喜びは、これまでに感じたことのない感覚だ。

日々労働者の相談を受けていると言うと、周りからはよく「大変でしょう?」と聞かれる。
しかし、大変だと思ったことはほとんどない。

自分の経験が相談者の役に立ったり、感謝をしてもらえたりすると、あの時の自分がどんどん救われていくように感じる。
あぁ、無駄じゃなかったんだと。

はたらく人のために はたらく人になれた。
それがとてもうれしい。

で、今回のテーマ
「はたらくってなんだろう?」

「はた」を「らく」にするから「はたらく」になったというのは、よく聞く由来だ。

「はた」=周りを楽にするのがはたらく。

じゃあ、自分は?

はたらくを楽しんだ方がいい。
そう、いいに決まってる。

周りを楽にして、
自分が楽しむ。

それが私なりの、はたらくということ。

これからも労働者側社労士として、まだ見ぬ誰かのチカラになれるように。
楽しみながら仕事をしていきたい。

※長文をお読みいただき、ありがとうございました!

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You Tubeチャンネル「労働相談須田黒田事務所」に、動画をアップしています。

写真はインスタグラムでアップしているものです。

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