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発達障害で育つということ

2020.4.30。まだ恋をしていて前向きでそれなりに調子が良かった頃のツイートです。私の自己肯定感って自律性があまりなくて、男の子に影響されるんだなぁと改めて思いました。

“話が上手”

私が受けたのはWAIS-Ⅳだと思うけど、その結果、言語理解凹🤔だったけど、①感情を言葉にできない→わかる②勉強ができないことが多い→わからない(O大卒)で、診断が遅れたのは勉強ができたことと、本音の感情を言葉にするのが苦手(その場の状況を読み取って、そこで表すにふさわしい感情を、自分が思ってもないのに演じて皆に合わして発言して、後からじわじわ本音を感じて泣いたり笑ったりする)のに、

状況を事細かに説明するタイプの会話は得意でスラスラ話すから小児科医にも分かりにくかったのかなぁと。

気持ちを説明する

認知行動療法のカウンセリングを始めた頃から、それに最近も時々だけど(今はコロナで休止中)「それで、あなたの気持ちはどうでしたか?」とよくきかれました。「え?私今だいぶ細かく状況を説明したと思いますが…」「ええ、何が起こったかの状況はよくわかりましたが、【あなたの感情を表す言葉】「嬉しい」「腹立たしい」などが【ひとつも】でてきませんでしたよ」と言われ衝撃を受けたのを覚えています。

後天的な感情表現の練習

そのことをきっかけにして私は自分の感情を会話の最後に付け加えるよう努力するようになりました。こんなところが嬉しいよ。ありがとう。あれが楽しかったね。こういうところが美味しい!と自分が言われて嬉しい言葉を模索するようになりました。感情を感じるのが苦手でも想像力で補うことはできます。

母と私をカサンドラにした父

私が感情を言わない人に育った理由は諸説ありますが、やはり自分の感情に鈍い感覚鈍麻が特徴のASD(反対に皮膚感覚などが過敏なのもまたASDの特徴でもありますね)が大きいと思われます。あとは両親に感情を吐露して受け入れてもらえなかったということは特に…いやあったかな(笑)。父は頑固で自分が違うと言えば違うと譲らない人でした。お酒が入ると特に。体の暴力こそありませんでしたが、私は言葉の理不尽にひどく苦しみました。以前も少し書きましたが、何を言っても「ちゃうちゃう(違う違うの関西弁)」から言葉を返してくるのです。それを間に受けた私は「そうか違うのか、では是非正解を教えてもらおう」と熱心にただの話に耳を傾けます。でもその内容は私が最初に言った内容と変わらないどころか劣化版なのです。つまり父は父の権威を娘に示したい、あるいはただ娘とコミュニケーションを取りたい男の子のようなものだったのです。当然私はそれに指摘・抗議します。言い合いになります。日本語の筋が通っていないことはASDの子供にとって他の子供よりも大変な苦痛です。誰も発達障害なんて言葉を知らない時代、私はただただ父の“些細な”言動にいちいち“要らない”ツッコミを入れて機嫌を悪くさせる“困った”長女でした。母親もそんな私を庇ってはくれませんでした。(またやってるわ)(仲良いね)「慣れるしかないのよ」「パパはあんなものよ」「もう知らないよ、そんなことどうでもいいじゃない」でした。言葉は悪いですがわたしにとって母も同罪です。昨日はっきりとそれを母に伝えました。そんな環境の中で「ちゃうちゃう」と否定され(その後意味不明な説教を聞かされて聞いてないと知れると怒られる)とわかっているから、自分の本音を言わない(相手が納得する理屈をあたかも真実かのように自分まで騙して話す話術)癖がついてしまったのかもしれません。そんな小さなモヤモヤが今の私から父への心理的距離感に影響しているのだと思います。にこやかに話しますが全く心は開いていません。

理由のない不幸

これを読まれた皆さんはどう思われたでしょうか?私は私立の高校や国立の大学に6年間も通わせてもらいながら(体調不良で留年したので)幸せな家庭に育ちながら些細なことを気に病んで、19歳で病気になっても5年ほど父を信じ続け上記と同じような会話を繰り返してしまいそのストレスで病状を悪化させてしまい長引き30歳をすぎた今も実家でほとんどの家事をしてもらって生きているダメな人間だと私のことをお思いでしょうか?

一体、何がダメだったのでしょうか?

小中高、すべてうまく行っていた優等生だったのに。

もう少し早く診断が降りていれば

私たちはどう見てもとても仲の良い家族でした。一緒にテーマパークやキャンプ、レストランに行ったり、笑いあったり。

でもどこか違和感が拭えなかった。

みんな好き勝手に話をして誰も人の話を聞いてないし覚えてないし覚えてないことを指摘した方が細かいひととしてたしなめられる。

それが発達障害のせいと気づいたのは27歳?とき。

ずっと前に恨まなくていいことを恨み、苦しんできたことを悔しんでたくさん泣きました。彼ら両親や親戚はただ善良で、働き者で、ただ人の話を聞くのが苦手で、ただ人に話を無理やりきかせたがる、子供のような大人だったのです。

楽しいことは恐ろしいことの前兆ではない

→話が頭からどこかへ飛んでしまいました…😢四次障害くらいの複雑性PTSDによる記憶障害、処理障害?だと思われてます。たくさんの記憶失いたくないです。過去のも今のも未来のも。こうやってブログ書くと、いいですね。それから、楽しいって気持ちを感じる練習をしたいです。怖くないと知りたいです。(※現在の私の注釈、この時楽しいことが沢山あって全部覚えてきたかったんでしょうね)

大人の恋がしたい、自立したくない、

立場が似てる人が居ないのでどうしたらいいか分からないから、分からないなりに考えて色々試しているけれどビジョンがあるかと言えばない。記憶が曖昧な中でも持ち前の客観視能力分析力で人のビジョンの話にそれなりの相槌とか打てるけど自分の話になると「?」です。でもそんな自分が今は好きです。(※現在の私の注釈2、恋してるから男性に認められている自信がある自分のことが結局好きなんでしょうね。それは結局勘違いのおもいこみだったんだけどね)。

最後の二つの段落、すごく前向きにしめられてますものね。多分その恋のお相手との未来を思い描いて幸せになろうとしていたのでしょう。

冒頭にも書きましたがこれは2020.4.30。まだ恋をしていて前向きでそれなりに調子が良かった頃のツイートです。私の自己肯定感って自律性があまりなくて、男の子に影響されるんだなぁと改めて思いました。33歳で異性のことを男の子って言うところがそう言うところなんだろうなぁと思います。精神年齢は33歳×66%=約22歳ですもんね。そりゃ恋もしたいし遊びたいし働きたくなんかない。

でも母にはあんたは40代になったら30代の時にもっと頑張ったけばよかった〜て言うわとバッサリ言われました。

でもね私思うんです。30代今から全力で努力して駆け抜けたとして、奇跡的に結婚妊娠出産一戸建て建てちゃったとして。多分40代に燃え尽きると思うんですよね(笑)。

自分のことは自分で決めないとね。

ま、つまり何もしないんだけど(笑)

というかできることをやるだけで。そのできることが人より少ないっていい加減受け入れろよ親なら。

そんなぐちでした(笑)。

母は自分が過労で適応障害なったんが9割なんやから娘に甘えられても困るしお前に言われたくないわw


幸せな未来?

でも私の幸せってなんなんでしょうね。

他人にすぎない男の子に全てを委ねるのって危なすぎますよね。でも今の無職歴か10年?の私にはそれ以外に目覚ましい方法がないんですよね。

それで今朝母と喧嘩しちゃって。

それだけで久しぶりに昼にひどい鬱になって。私にとって母って影響が大きい存在なんだなぁって改めて思いました。同時に鬱じゃない時間の方が鬱の時間より増えてきたなって今気づいてうれしいですね。話されましたが

母は、

・自立の目標に向かってエネルギー(体力)を使う(グループホームについて本気で詳しく調べる)
・人に感謝する(行動に現れるのは枝葉の部分)
・生きたお金の使い道を考える(買ったものを最後まで愛用する

これを紙にマジックで書いて渡してきました

「こんなの私が人に感謝してないみたいじゃない?!」

私はたくさん意見を言いましたが全て文句と解釈されキレてぐちゃぐちゃに丸められてゴミ箱に捨てられました。

「私がそういうことすると「そうやってすぐきれる」とかいうくせになんで自分はそんなことするわけ?会話も放棄して。私は文句言ってんじゃなくて論理的に言ってもらわないと何言われてるかわからないだけだよ」

「私がこの忙しい時間(病院に行く直前)にこれを書いたことをどう思ってるの??最初から詳しく書かないのはあんたは自分から思いつかないと絶対にやらないからよ。」

あとはよく覚えてませんが、私は感謝が人よりも生まれつき薄い話は少ししました。感謝にせよ何にせよ感情を感じるのが薄くて遅いのとそれは発達障害の特製であること、相手の感情に対して鈍いのです。相手がどんな気持ちでその言葉をプレゼントを選んだのかを想像するよりはやく目の前のプレゼントの中身が気になってしまうのです。それが幼児や小学生ではなくて大人まで続いてしまうのです。大人になるとそれでドン引きされるのでドン引きされないように「ありがとう」というように努力するようになります。すると不思議なことに「ありがとう」という気持ちが湧いてきます。それで大体のことはうまく行きますが、ところがこういう真剣な話し合いになると困ることがあります。

・行動に現れるのは枝葉の部分

そう言われてしまうと幹の部分が人と違う私としてはひどく落ち込んでしまいます。そんな幹は生まれつき持っていないのです。努力して努力して、幹っぽいものを駆使してやっと社会生活を営んでいるのです。「美弥ちゃんは十分優しいよ。優しくない人はそんなことで悩まない」そういうってもらえることも多々あります。

それでも昨日の母の言葉は堪えました。

鬱になりました。

でも昼頃になると、母も完璧な人間ではないし、私のことを近くで見てくれてる人間の一人ではあるけれど発達凸凹も大きい変わってるひとだし(彼女もWAIS-Ⅳを受けた)。まぁ間違ってる部分もあるかもしれないし100パーセントは気にしなくてもいいよな、と自分で認知行動療法を行うことができました。鬱の渦の中ではありましたが自分の進歩を感じることができました。


今日はこの辺で。

ありがとうございました。



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