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【心得帖SS】「クオリティ」vs「スピード」

「ケイコちゃん、ちょっといいかナ?」
総務部課長の忍ヶ丘麗子が、部下の星田敬子を呼び止めた。
「はい、何かありましたか?」
敬子が近づくと、麗子は一枚の書類を差し出した。
「これ、どう思ウ?」
ざっと目を通した敬子は素直に感想を述べる。
「よく纏まっていると思いますよ。ポイントもキチンと押さえていますし」
「そうネ」
予想通りの回答だったのか、麗子はすぐに話を引き取って言った。
「但し、この一枚仕上げるのに丸一日掛かっていたとしたラ?」
「それは…流石にスピードが伴っていないのではないでしょうか」
「そうヨ」
麗子は溜め息を吐いた。
「ワタシが言っても表面上でしか言うこと聞かないシ、どうしようかしラ…」
「…私が話してみます。猪名寺さんと」
敬子は、書類に押された印鑑を指差して言った。

猪名寺順子は、入社以来総務部に所属しているベテランのアラフォー社員である。
彼女の仕事ぶりは全てが型にはまっている感じで、自分の責任範疇はキチンとやるがそれ以外は全く興味をもたない。
一部の社員からは『ATフィールドが見えている』と言われている。
但し、責任範疇内は問題無く業務を遂行しているため、麗子も主任の下狛有人もあまり強く言えない状態になっている。

順子の良くないところは、度が過ぎる完璧主義者であることだ。
自分の仕事は完璧に仕上げたい、キッチリとレールに乗った手順で進めたい。
相手ではなく自分に合わせて来て欲しい的な態度が垣間見えて、彼女にお願いをしたくないという空気が出来上がっていた。

敬子は前々からその雰囲気を変えたいと思っていたので、今回の麗子からの依頼は願ってもないものであった。

彼女は立ち上がると、順子のデスクへと向かった。
「猪名寺さん、少しお時間宜しいですか?」
「あら星田さん、何か用かしら?」
敬子が新入社員のとき数か月教育係を務めていた(正直に言って何の役にも立たなかったが)ため、順子は幾分くだけた口調で話を返してきた。
「はい、実はこの書類なのですが、とても良く纏まっていたので、是非お話しをお伺いしたくて」
「へえ…」一瞬値踏みするような視線を見せた順子は、声のトーンを落として言った。
「あのバリキャリ女に押し付けられて、私に注意をしに来たのかしら?」
「いえいえ、あくまで私の興味範疇です」
顔色ひとつ変えないで、敬子はそう言い切った。
順子はフンと鼻を鳴らして座席に座り直す。
「あなたも言うようになったわね。まあいいわ、忙しいから手短にお願いね」
「分かりました。私がお尋ねしたいのは」
彼女がこちらの話を聞く姿勢になるまで待って、敬子は言った。


「【クオリティ】と【スピード】のバランスについてです」


「…論外ね」
順子は、切り捨てるように言葉を返した。
「仕事はいかに完璧に遂行するかどうかが最優先。早く処理をすることでクオリティを犠牲にするものではないわ。私そう教えたよね?」
「はい、よく覚えています。完璧を追い求めるあまり定時では終わらず、毎日残業になっていたことも」
「あなた…喧嘩売ってるの?」
「とんでもない」
睨みを効かせる順子に、大きく手を広げて敬子は訂正した。

「ときに、猪名寺さんは【7割の完成度】という言葉をご存知でしょうか?」
「出たわね、スピード支持者の常套句」
順子はウンザリした顔を向けた。
「もちろん知ってるわよ。最初から100%を目指すのではなく、7割程度のクオリティを目標に業務を組み立てることでしょう?」
「まあ、概ねそうですね」
「スピード重視の業務が多い場合には、必要かも知れないわね。私はそこまで否定しない」
幾分寛容な姿勢を見せておいて、順子は反論する。
「でも、私が任されている業務は決してミスが許されないもの。その中でクオリティを上げた完璧な業務の優先順位を上げることが悪いことなのかしら?」

(さあ、この娘はどう出るかしら)
試すような口調で一気にまくし立てた順子は、敬子の様子を伺った。

相変わらず穏やかな表情を浮かべた彼女は、自分のターンであることを悟るとゆっくり語り始めた。
「猪名寺さんは、7割主義について少し違う解釈されていると思います」
「え?」
「おっしゃる通り、スピードを上げることで業務品質(誤字脱字、数値間違いなど)の低下は許されるものではありません」
順子の疑問をやんわりと制しながら話を続ける。
「7割の完成度を意識するが、3割は捨ててしまうのではなく【ズルをする】感じで良いのですよ」

「えっ、あなた、ズルって…」
不穏なワードが出て来たので、順子が躊躇する。
「では【裏ワザ】とでも言い換えましょうか。業務品質に関わるものを、予め予測・準備しておくのです」
敬子は自分のノートPCを立ち上げると、会社のサーバーから目当てのフォルダをクリックして中身を表示した。
「ここに、営業二課の京田辺課長が色々な対応定型文を、コピー&ペーストが容易な【テキストファイル形式】で保存されています。ご本人には許可をいただきましたので、自由に閲覧および使用が可能です」

次に敬子は、違うサーバーのフォルダを開ける。
「こちらは【業務手順書】を纏めた場所です。業務引継の時だけでなく、普段からよくあるトラブルや問合せに対処できるよう、何かあればここに放り込むことにしています。ぜひ猪名寺さんもご協力宜しくお願いいたします」

ざっとフォルダの中身を確認した順子は驚いていた。
「以前バリキャリ女が朝礼で話していたヤツね。直近ではここまで進化していたの」
「スケジュール管理と同じく、バリキャリ課長の肝煎り企画ですからね」


カチカチとマウスをクリックしていた順子は、やがて肩の力をフッと抜いて、ポツリと話し始めた。
「…悔しかったのよ」
「え?」
「30歳迄は本当に苦労したわ。先輩のイジメや男性社員からのハラスメント。それらに対抗するために私は鎧を身につけて、以降はとにかく自分の城を守ることだけに専念した」
幾分色褪せた眼鏡のフレームを触りながら、順子は言葉を続ける。
「そんな中、私より年下のよく分からないアピール大好きド派手女が、上層部の覚えが良いのかどんどん評価されていって…私はずっと底辺に沈んでいるというのに」

「酷いネーミング…」
敬子は苦笑した。
順子の気持ちも分からなくはなかった。だからこそ、彼女に直接伝えたいことがあったのだ。
「猪名寺さん、苦労は誰でも経験しています。私も、おそらく忍ヶ丘課長も」
「…」
「困難に直面したとき、如何に逃げないで立ち向かうことが出来るのか。それが大切だと、私は思っています」
「星田さん」
「…猪名寺さんの資料、凄くいいなと思ったのは嘘じゃないですよ」
「…あなた、本当に成長したわね」
そう言って、順子はこの日一番の笑顔を見せた。


「よし!今度ご飯行こうご飯」
スッキリとした表情を見せた順子からのお誘いに、敬子のイタズラ心が作動した。
「えっ、もしかして先輩のオゴリですかぁ?」
「調子に乗ってるんじゃないよ。うん、いいよ、オッケー!」
「判断早っ。そこはスピードを重視するのですね(笑)」

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