「かもめのジョナサン」と「星の王子さま」

「かもめのジョナサン」は、タイトル通り、
一羽のかもめが主人公の短い物語だ。

普通のかもめにとって、飛ぶことは手段でしかなかった。
朝に漁師が撒くパンくずを奪い合ったりして、
食うため、生きるための手段に過ぎず、
特に意識して行うものではなかった。

それはかもめにとって、疑問に思うことすらない、
ただ当たり前、そうあるだけに過ぎない事実であった。

しかし、かもめのジョナサン・リヴィングストンは、
同じ群れのかもめ達とは違った価値観を持って生まれた。

彼はより速く、より高く、より上手に、
そしてなによりも、自由に飛べるようになりたかった。
彼は寧ろパン屑を奪い合ったりする意味が分からなかった。

毎朝繰り返されるそれよりも、飛行の練習に打ち込んだ。
やがてかもめにはあり得ない飛行技術を身につけるが、
彼が期待した称賛とは裏腹に、彼は群れから追放される。

2章では、彼は天国のような場所で、似た仲間たちを見つけ、
飛行技術の研鑽の果に精神的な修練を積むことになる。
これによってある種の神秘を獲得したジョナサンは、
愚鈍と嫌った群れに、この教えを伝えるために戻る。
これが3章であり、彼は群れに教えを授けて消える。
彼は飛行を極めて悟りを得、その布教を愛とした。

内容にはあまり触れないが、これは作者の素直な肉体感覚と西洋的価値観をベースに再解釈された宗教的規範と読める。

創訳・解説の五木寛之氏は、作中にアメリカの若者の文化、
ヒッピーカルチャーの興隆、法然・親鸞のイメージを語り、
時代の要請によって生み出された作品であると分析する。

しかし、最終的には群れに帰り、自らを軽蔑し追放した者を
救うために飛行(生きる歓び)を教えに戻るジョナサンに、
私はキリストの父性的な愛情の再解釈・再受容を感じた。

ヒットの時代を経て後に付け足された第4章では、
時が経ち神聖視され、形骸化したジョナサンの教えが、
何者も救わず、権威と虚飾に塗れた教義と儀式に成る。
そして最後に、絶望した若者の前にジョナサンらしき、
いきいきと飛ぶことの歓びに満ちたかもめが現れる。
これは、作者にとってのキリストの再臨に思えてならない。

作中では肉体の感覚をより研ぎ澄ますことによって、
精神の内奥へ至り、自己の自由を見出すことをしており、
これは当に只管打坐、即ち禅の教えの影響がみられる。

しかし、作者の描くジョナサンの飛行の情景は、
かもめにも関わらず、リアルな肉体性を感じさせる。
ここには、ヒッピーカルチャーや禅の影響よりも、
作者自身の飛行機乗りとしての実感が前面にある。

この第4章は、作者自身が不要と断じて省いた物語だが、
時代を経たこの章の追加によって完全版とするのは、
ヒッピーカルチャーの盛衰や作者の出自を含めて、
ここにこそ真意があると思えてならない。

要するに、西洋で失われたアイデンティティの探求は、
身体感覚の追求と東洋思想を経て、自己意識の回復を図り、
相対化した西洋思想を再認識し、その絶望の果に、
自らの新しい宗教的規範意識を見つけるに至る。

これは一つの個人的な読み方でしかないが、
作中で徹底して性愛の描写が省かれており、
師弟関係に置いてしか愛が語られないのは、
やはり父性的なキリスト教を連想する。

次に、同じ飛行機乗りの作家として、飛行描写に実感がある
という点で、敬愛するサン・テグジュペリと比較してみたい。

リチャード・バックとサン・テグジュペリを並べて語るのは、
およそ珍しくないことだが、今回は特にその寓話のテーマ
生と愛についての考えの違いを、比較してみたいと思う。
言い換えれば、自己実現と他者理解についてである。

まず生について、これは自らの生をどう生きるかであるが、
どちらも自身の根源的、あるいは極限の感覚を自覚すること、
そしてそれをもって自由に生きることができるとしている。

しかし、ジョナサンは飛行の歓びという意味に生きるが、
王子さまは一見無為に思えるガス燈の労働者に美を見出す。
ジョナサンは自身の身体的感覚の刺激や技術の追求という、
ある種の修行によって歓びや良さを見出す求道者であるが、
王子さまは直感によって本質的な美を見る芸術家である。

一見異なる在り方に見えるが、これも実質的には同じであり、
世の中を本質的に知覚する(心で見る)方法の違いである。
ジョナサンは修行で大人でありながら本質の知覚に努め、
王子さまはこどもの感覚でいる事によって本質を感得する。

ところが、見方は同じでも、対象が異なる。
ジョナサンは基本的に、己の飛行の歓びを対象とするが、
王子さまは基本的に、例のガス燈の労働者を始めとして、
夕日やバラや狐などの他者の存在や関係性を対象とする。

これは愛についても同時に語られるものである。
ジョナサンは同じ感覚や規範を共有することが可能な仲間であることを前提として、その師弟関係の中での愛を語るが、
第4章ではその規範の腐敗によって孤独の要素を強める。
皮肉にも、「相知満天下 知心能幾人」的な結末である。

一方で、王子さまは、こどもの純粋な感覚で大切なものを
他者に見出すことで、美しい世界を生きることができる。
しかしながら、他者との関係性を結ぶ難しさや、悲しさ、
思い通りにいかなさなど、個人で完結できない事実がある。
そして愛ゆえに、特別であると同時に、憎らしく、縛り合う。
蛇足だがこれは作者の私生活にもみられる。

ただし、大人でありながらこどもの感覚で生きることは、
悲しいがほぼ不可能であると断ずることができる。
そのことは、この物語の結末が最も感動的に語っていると、
私は解釈する。それが王子さまの尊さであり聖性である。

どちらの物語も、短いながら素晴らしい作品に違いない。
不粋を承知で言うならば、私は「星の王子さま」が好きだ。
始めの考察を踏まえると、私は宗教的感覚に疎くて、
こちらのほうが原初的な感覚に近いからかもしれない。

しかし、サン・テグジュペリにも強い愛国心を持つ操縦士
としての一面があったことは忘れてはならない。
大きな物語が解体され、加速しつづける現代社会で、
こうした原初的感覚を持ち続けることはより困難であろう。
蛇の毒によって肉体を抜け出し星に帰った王子さまと、
3章で消え4章で復活したかもめは同じ意味を持つ。

この異なる2つの物語がよく並べて語られるのは、
人間の本質的な悩みを見事に捉えた寓話であり、
それぞれの飛行士が見出した解決策が、
鮮明に活写されているからだろう。
















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