2月28日の日記

2月も末となり、仕事も年度末のもう一山ほどになった。
メインとして走っていたことは、中旬にある程度終えた。

そんな、とりあえず走っていた事がすんでみると、
なんだかどうにも、また無意味によって目が霞む。

それは、そもそも仕事に対するやり甲斐というか、
これが何に役立ち、今後どう生きるのかわからない。
というのもあるが、それは塞翁が馬。と思うことにする。

なのでそれよりは、あるゴールの瞬間に次が続くことに、
門をくぐった先にもさらに門があることに辟易する。

睡眠という1日の死を甘受したとしても、
仕事のために意識の連続を回復する必要性に、
個人の正常な、責任ある、主体としての意識の、
その呼び出しに、大変なエネルギーを吸い取られる。

そんな中で、福田恆存「私の幸福論」を読み始め、
「人間・この劇的なるもの」も読み終えた。
なにか、読むタイミングに思えたのだ。

最近、本に呼び寄せられるように読むことがある。
今日から読み始めた「生成と消滅の精神史」もそれだ。

福田恆存を読んで、人間や物語、劇や演技について、
それが何か人生と相違ないものであると若干身になった。

それは、きっと昔は私も無自覚に持っていたものであろう。
それを、明治の自然主義私小説家と同じ過程で振い落した。
福田恆存は、それを拾い集めるのを助けてくれた。

しかし、それは西洋近代からすれば、生え変わった乳歯だ。
それでやっていければよいが、現行の社会に歯が立たない。
僕は拾った乳歯を眺めて、過去を抱きしめ、現在を呪った。

おかしい。

福田恆存を読んだときは、
全くはればれとした気分だった。
それなのに、その視座を得て、より鬱々としている。

それは、しかし何ら疑問ではない。
福田恆存の時代より、悪化しただけだ。
社会を信用できるような回路がより狭隘になった。

多くの老人は尊敬よりも、むしろ軽蔑の対象である。
継承よりも、個人の利益や快楽を追う、消費者の末路。
サービスの受領で自己を見誤るその姿には落涙する。

福田恆存が【理想】としたような日本人像は、
当時ですらやや高尚・あるいは希少であり、
今ではなおさら困難な場所にあった。

それを望み、信じ、求めたところで、
より深い悲しみにぶち当たる劇薬であった。

しかし、新たに開けた回廊もあった。
それは、文学の回廊である。

福田は、その幸福の支えに【大いなるもの】を設定した。
福田は、日本人的「天」を想起していたと思われるが、
これは、その人ひとによって異なるものである。

これを、改めて自らの中に据えられないだろうか。
演技や、役割の理解を元に、全体を捉えられないか。
この求めに応じてくれそうなのが先の書籍だった。

今日とどいて、早速読み始めたので、
そのはじめの感想を書いておきたかった。

結論から言って、とてもいい感じである。
ギリシアの物語から、古代人の心を探る。
そこでは、心や人間というものが今とは異なる。

かつて、神や、自然や、ひとに、区別などなかった。
それは、ときに留まり、とにき移ろい、辺に遍在した。
このイメージの「神」は、私にも無理なく想起できる。
これは、既存の宗教にあった拭えない違和感をクリアした。

そのように、認知的にしっくりきたうえ、
物語や創作と、その受容の面でも少し考えた。

もし、人が感情を想起される要素があるとして、
自然や神々に通じる「神秘」は今なお有効だ。

いま、芯を食ったコンテンツには、
わりとその要素が含まれてはいないか。

特に、物語をよませるコンテンツとして、
そのストーリーが話題になったFateやブルアカは、
説明するまでもなくその要素を多分に含んでいる。

そう思うと、あながちギリシアの時代の想像力は、
意外とそう遠くには行っていないのかもしれない。




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