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私がわたしである理由10

[ 前回の話 ]

第六章 藤村家の人々(2)


夕刻、潤治と正雄が山口屋に戻ると、功夫がもう店仕舞いの支度に取り掛かっていた。
「あ、大将、お帰りなさい!」
「おう、ご苦労様。婆あ様達ゃ帰って来たかい?」
「はい、あれから直ぐに。今女将さんたち皆んなで夕餉の支度してますよ。今日はお客さんなんで、ご馳走みたいですよ。へへ…」功夫が満面の笑顔を浮かべる。

座敷では姑らしい大柄の老女が赤ん坊を背負い、3、4歳の小さな女の子をお手玉で遊ばせていたが、座敷に上がってきた2人に気づくと、慌てて座り直し深々と頭を下げた。
「川出様、うちの馬鹿息子が大変お世話になっていますそうで、私、母の久邇くにでございます。こんなむさ苦しい商家にわざわざ足をお運び頂き、有難うございます」しっかりとした体格で髷を結ったいかにも意思の強そうなはっきりとした目鼻立ちの老女だった。
傍にいた女の子は久邇の袖をしっかり掴んだまま、怯えた様に潤治の顔を見上げている。
きくの話から察するに三女の正子だろう。

「あ、ど、どうも…す、すいません…突然お邪魔しまして…」
いきなりの丁寧な挨拶に戸惑いを隠し切れない潤治の様子を見て、すかさず正雄が割って入る。
「おい、何だ何だ、柄にもなくしゃっちょこばりやがってよ。なんか悪いもんでも食ったんじゃねえのか?やめてくれよ、潤さんとはよ、気楽な付き合いなんだからよ」
「何言ってんだお前、川出様は華族様のお家柄って言ってたじゃないか。いいかい、お前は軽はずみな人間だからお人柄に甘えて気楽にお付き合いさせて頂いてるのかもしれないけどね、華族様がこんな仕舞屋しもたやをお訪ねになるなんて、そりゃあ滅多にあるもんじゃない。私ゃあこの藤村に嫁いで40年以上、こんな晴れがましいことは只の一度も無かったんだから」
「いやいや、お袋、そんな大仰おおぎょうな…それじゃあ潤さんが気詰まりじゃねえかよ。第一潤さんはよ、そんな格式みてえなもんの無え、もっと自由な時代から来たんだからよ…」

潤治は、思わず口を滑らせてしまう正雄を嗜めようと目配せを送ったが、久邇は聞き逃していなかった。
「なんだい?その自由な時代っていうのはさ」
「あ、い、いや…その…なんだ…つまり…」
正雄がしどろもどろになるのを見兼ねて潤治は慌てて割って入った。
「つまりですね、今は身分も格式も超えてみんなが一致団結すべき時代だっていうことをお話したからなんです。そうですよね、正雄さん」
「ま、そ、そういうことだ。な、潤さんはよ、そんな人なんだよ。だからよ、そんな特別扱いしねえで気楽にやってくれよ。その方が潤さんだって、居心地がいいってんだからよ」
「そうかい?私ゃどうも納得できないけどね…川出様がその方がいいと仰言るんなら、その様にいたしますけどね」久邇は吐き捨てる様に納得の意思を示す。

「すいません…どうかご気分を悪くしないでください。第一、うちはもう分家の分家でそれほど格式のある家風でもありませんから。それに正雄さんには危ないところを助けて頂きましたし、とても頼りになるお人柄で、僕は親しくして頂いて、すごく感謝していますから…お母様も、どうぞそんなにお気を遣われない様に…」
「まあまあ、有難いお話じゃないか。こんな馬鹿息子の一体どこが頼りになるんだか、あたしゃさっぱり分かりませんけど、まあ、ご縁があって何よりですよ。こんな仕舞屋、本当に居心地がいいんだかどうだか知れませんけど、どうぞお気楽に寛いでいって下さいましねえ…有難や有難や…」両手を合わせ頭を垂れる久邇の姿に潤治も周囲も苦笑を隠しきれなかった。

その光景を久邇の傍からじっと伺っていた三女の正子が恐る恐る口を開いた。
「…ねえ…おばあちゃん…このおじちゃん、仏様なの?…」
「な、なに言い出すんだい、この子は。縁起でもないこと言うんじゃないよっ。そんな訳ないだろう。全く、馬鹿な子だよ。すいませんねえ…はは…」と、久邇が大慌てで打ち消す。
「だって…だって、おばあちゃんが拝んだりするんだもん…」いきなり強い口調で発言を全否定されてしまった正子は、困惑した悲しそうな顔で目を潤ませる。
「いいんだよ正子、いいんだ。実際潤さんはよ、仏様みたいな優しいおじさんなんだから。ちょいとばかり、おばあちゃんが舞い上がっちまっただけだからよ。お前えは何も悪かねえ。全く、しょうがねえおばあちゃんだなあ」正雄が苦笑いを浮かべながら正子を慰める。

その時炊事場から小さな割烹着を纏った次女のかよ子が大皿に盛られた根菜の煮物を抱えて恐る恐る座敷に入ってきた。
「お待たせしました…何もございませんが、まずはどうぞ…」皿を慎重に卓の上に載せ、深々と頭を下げる。
そのすぐ後ろからきくが小皿と酒の銚子を載せた盆を持って部屋に入る。

「ほらほら、かよちゃんは初めましてだろ?」
「あ、そうだ…」かよ子は慌てて座り直し、潤治に向かって深々と頭を下げる…
「初めまして、次女のかよ子です。6歳です。よろしくお願いいたします」
「あ、は、はい。こちらこそ、初めまして。川出潤治です。お邪魔しています」
潤治も丁寧に対応する。

「今日は少しですけどお銚子もつけましたからね。召し上がってくださいね」
きくが正雄の前に燗袴を履いた徳利と三つの猪口ちょこを置いた。
「お、そうか…まだ酒が少し残ってたな…これで最後かい?」
「いえ、まだお代わりもありますから。川出さん、いけるんでしょ?ご遠慮なくどうぞ。イサどん、お客様からお注ぎして頂戴。あんたも少し頂いていいから」
「え?本当ですか?へへ…嬉しいなあ…じゃ、川出さん、どうぞ…」嬉しそうに功夫が燗のついた徳利を差し出す。
「あ、どうも…じゃ、遠慮なく…」

「お義母かあさん、あたしちょっと向こうでター坊にお乳あげてきますから、後お願いしていいですか?ご飯はもう台所に準備できてますから」
「はいよ、引き受けたよ。じゃ…」久邇が背負っていた長男の崇史たかしをきくに渡す。

「お願いします。かよちゃんもおばあちゃんを手伝ってね」
「はーい、ふふ…あのね、今日はねえ、白いご飯とメンチなのよお。凄いでしょ?」
かよ子が満面の笑顔で正雄に報告する。
「え?本当っ?メンチ?…だって、お肉屋さんにも売ってないでしょっ?」
それまで座敷の隅に胡座あぐらをかいて読書に没頭し、気配を消していた積子がいきなり顔を上げて訊き返した。
「お母さんとあたしとで作ったんだもん。ふふ…美味しいよお…」かよ子が自慢げに答える。
「えーっ、嬉しいっ!メンチカツと白いご飯、久しぶりー!ああ、早く食べたいなあ…」
「何だね、あんたは。お客さんの前で女だてらに胡座なんかかいて。あんたも大きいんだから少しは手伝いなさいよ。本ばっかり読んでないで、正子の面倒くらい見なさい」
「そうよそうよ。積ちゃんは大きいくせに何にも手伝わないんだから、メンチカツ食べる権利ないんだからねえ。大人になったってお嫁にも行けないわよお。ねえ、おばあちゃん?」
「何よっ、この腰巾着。ねえ、おばあちゃん?…って、馬鹿じゃないの?女にだってねえ、これからはインテリゲンチャーの時代が来るのよ。家のことがいくら出来たってすんなりお嫁に行ける時代じゃなくなるのよっ。ま、あんたならせいぜい女中さん位にはなれるだろうけどね」
「あ、あたし、お嫁さんになるんだもんっ!素敵な、お金持ちの旦那さんのお家にお嫁に行ったって、積ちゃんなんて絶対に呼んであげないんだからね~だ」
「ふん…そんなとこ誰が行くもんですか。どうせあんたが行くのはジメジメして陽当たりの悪~い女中部屋だもんねえ。ダニがわかないようにせいぜい頑張って綺麗にお掃除して頂戴」

流石にここまで追い込まれて泣かない6歳児はいない。遂にベソをかき始めたかよ子を宥めながら久邇が凄い形相で積子を睨みつける。
「積子っ!あんた、5つも歳が離れてんだから、本気で言い合いしてどうすんだいっ!ご覧よ、かよちゃん、ベソかいてるじゃないか。何だい、お客さんの前でみっともない…」
「だって…」積子は不満を露わに頬を膨らませる。
「まあまあ、はは…いいじゃないですか。僕は兄弟がいなかったから、こんな言い合いもありませんでしたし、やっぱり、いいですねえ…子供が沢山いるって…なんか、家族って感じで…」


潤治にとって、藤村家での夕食は本当に楽しいものだった。
どう考えても、油やパン粉、卵、挽き肉など、この時代には手に入りにくい食材ばかりだ。それを無理して用意し、振舞ってくれたメンチカツはとても美味しく有り難かった。

そして何よりも潤治の心に強く焼き付いたのは、藤村家の三世代家族全員が忌憚なく会話をぶつけ合う姿だ。それは時には辛辣に批判し合っても、やがては笑い合う、笑顔の絶えない親密な家族の姿だった。
決して居心地の良い家庭では育たなかった潤治。そして今、新たに築いた家庭をも失おうとしている自分にとって、それは遥か遠く手の届かない、キラキラと輝く宝物の様に思えるのだ。
潤治はもし出来ることなら、何としてもこの家族をやがて襲われるであろう空襲の危機から守ろうと固く心に決めた。


夜、正雄と積子が中原街道沿いまで潤治を見送りに出てくれた。
「今日はわざわざ出向いてくれて有難うよ。俺の目に狂いはなかったな。みんな潤さんのこと気に入ったみてえだぜ」正雄は足を止めると、潤治の肩にそっと手を置く。
「ご馳走様でした。いいご家族ですね。なんだか羨ましいです」
「ねえねえ、おじちゃん、また来てくれるでしょ?また来て欲しいな。あたし、おじちゃんと本のお話とかもっと一杯したかったなあ…」積子が名残惜しそうに潤治を見上げる。
「そうだね、今度は積子さんともっと色々話そうね。積子さんとは気が合いそうだね」潤治がそう言うと積子は満面の笑顔を浮かべて目を輝かせた。
「本当っ?本当にそう思う?ねえ、また来てね。絶対に、絶対にまた遊びに来てくださいね」
「まあまあ、潤さんも色々忙しいんだ。そのうちきっとまた来てくれるから、無理言っちゃいけねえぞ。はは…潤さんも厄介な奴から惚れられたもんだな。じゃあ、遅くならねえうちにとっとと帰るんだな。道は暗えから気を付けてな。憲兵やおまわりに止められたら、ちゃんと身元を言うんだぜ」
「分かりました。有難うございました。じゃあ、また…」

積子の手前、翌日の話はお互い控えたが、潤治と正雄はしっかりと目配せを交わし合う。潤治の後ろ姿は、灯火管制が進む夜道の暗闇の中に溶け込む様に消えていった…

つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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