私がわたしである理由11
[ 前回の話… ]
第七章 海軍省軍務局へ(1)
「…本当なのかい…こりゃあ…」
正雄は潤治のパソコンに映し出された空襲後の写真を見つめたまま独り言のように呟いた。
「俺もとても勝てねえとは思ってたけど、ここまでズタボロに負けるたあ思ってなかったぜ。それも、もう直ぐのこった。グズグズしてる暇はねえぞ」甲一郎は隣から正夫の肩にそっと手を置く。
「確かに…間違いなくこりゃあ百反だ…ここの電信柱の張り紙、ついこの間俺たちが町会で貼ったもんだ。間違えねえ…向かいの総菜屋は半分焼け残ってるけど、ああ…うちは丸焼けだ。跡形もねえぞ…そうか…5月か…」
「さっきの記録によると、うちの方も同じ5月の24日に焼けるんですね。本当にうちは大丈夫だったんですか?母親とかご近所とか…裏手には母がたの親戚の家もあるんですけど…」誠治も不安そうに尋ねる。
「父親…あ、つまり君のことだね。僕が若い頃に父親から戦時中の話を聞いたこと、この間思い出したんだ。直ぐ裏手まで火災が迫って来て、でもその前に知り合いから集めたありったけのバケツに水を準備しておいたから、危ないところで類焼を食い止められたって言ってたんだ。でも、ちょっと考えたら変な話だよね。火は駒沢通り側、つまり北側からどんどん迫って来て、確か横山さん?っていったっけ?我々の親戚の家。僕の子供の頃にはもう引っ越しちゃったけど」
「ええ、うちの裏手一軒隣ですけど」
「その家の手前で食い止めたらしいんだ。その家の裏庭に大量の水を用意しといて、ご近所にも手伝って貰って家の周辺一角だけが焼け残ったっていう話だったんだよ。普段からそんなに沢山のバケツ、そこに準備してるって、変じゃない?」
「うちのバケツは…えーと…掃除用と庭用と2つだけですね…防火訓練の時も庭用のを持ってくだけです。大体どの家もそんな感じじゃないですか。それに今のところ目黒の方には空襲は来ないだろうって、町内の方達は話してますし」
「っていうことは、もしかしたら、君はこの日に目黒が空襲に遭って、近くで火災が起きることを知ってたんじゃないかって…」
「そうか…そうかも知れねえな。俺も今、もしバケツが足りねえんだったら店の在庫から調達してやろうかって思ったところだぜ」正雄は合点した様子だった。
「そう。君は今ここで知ったんだ。だから空襲のある時にはもう知ってるんだよ」
「え?…今回はそうなんでしょうけど、以前もそうだったっていうことなんですか?」誠治は混乱の表情を浮かべる。
「そうじゃないかって思ったんだ。良くは分からないけど、僕は何度もここに来て少しずつ過去を変えているのかも知れないって…もちろん何も覚えていないけど…」
「じゃあ、うちの店も今回は焼けずに済むかも知れねえってことかい?」正雄が身を乗り出す。
「確かなことじゃないんで分かりません。でも、ご家族みんなで事前に避難すれば、命を落とす方はいないでしょう。なにぶん、僕は元々正雄さんや正雄さんのご家族のことは何も知らないんで、確認のしようがないんです。僕は自分では初めてこの時代に来たのかと思ってたんですけど、誠治くんのことを考えるとそうじゃないのかも知れないと…少しずつ良くなっていくんであればいいんですけど…対応によっては、悪くなることもあるのかも知れないって…」
「まあ、確かめようのねえことをああだこうだ考えたところで、どうにかなるもんでもねえだろう。兎に角よ、のんびりは構えてられねえんだぞ。今出来ることは、一つでも多く手を打っておくってことが大事だ。そこでだ、まずは俺から提案があるんだ」甲一郎が話題を変えた。
「正雄には前々から言ってたけどよ、俺あはなからこの戦争は部が悪いとは思ってたんだ。ミッドウェーの前辺りで上手いこと講和に持っていけりゃあとは思ってたがよ、今の軍部の連中は外交感覚もへったくれもねえ。こんなもんに巻き込まれちゃあ堪ったもんじゃねえや。俺が海軍省に潜り込んだのも、いつ頃どう決着が着くのか早く見極めたかったからなんだぜ。本土空襲が始まったってことはよ、日本にゃもう制空権がねえってことだ。で、去年のうちに、実は知り合いの伝手でよ、長津田の方に古い農家の離れと納屋を借りてあるんだよ。潤さんの話だとこの戦争ももう長かねえ。東京もとんでもねえことになるらしい。戦争が終わったら、またダンスホールでも再開するかと思って、大事に隠してあるレコードや設備や諸々も避難させなきゃだしな。正雄、お前え家族連れてそこに疎開しちゃどうだ?店はもう焼けちまうんだ。幸いここにゃ俺のトラックがある。お前え、車の運転は出来ただろう。家財道具と在庫の品物積んで早えとこばっくれっちまえ。それが一番だろう。どうだい?」
「僕もそう思います。あの辺が酷くやられることだけは事実なんですから、まずは命を守ることを優先させるべきだと思います」潤治も同意する。
「そうだなあ…あと3ヶ月はある訳だしな。それがいいだろうけど…ただ、問題はうちの婆あだ。甲兄さん、あれ、どうにか説得できねえか?あたしゃここで死ぬ、の一点張りだからよ」
「おいおい、俺に相談するのは見当違いだぜ。何たって俺あ出入り禁止の非国民だからよ。縄でふん縛ってでも連れてくんだな」
「…だよなあ…お、そうだ!潤さん、もしかしたらお袋、潤さんの言うことなら聞くかも知れねえぞ。何しろ華族様だからよ。それにご親族が軍部のお偉いさんなんだろ?あいつ、そういうのに滅法弱えからな」
「はい、祖父が海軍の将官です」
「え?海軍の将官?川出さんっていうのかい?」
「いえ、母の父ですんで、苗字は大森といいます」
「もしかして…軍令部の大森中将殿かい?」甲一郎は驚きの表情で聞き返す。
「ええ…そうですが…野瀬さん祖父をご存知なんですか?」
「ご存知も何も、終戦論の一番上のお人だ。俺も何度かお会いしたことがある」
「そうですか…ここだけの話ですが、祖父は元々この戦争には反対でして、今は大本営からは身を引いています…もし良かったら僕からも正雄さんのお母様にお話しましょうか?何か適当に話は出来ますよ」
「そうかい?じゃあ潤さんと2人で何とか頼むよ。その代わりと言っちゃあ何だけど、うちの在庫のバケツは全部誠治くんの方に渡すからよ」正雄は安堵の表情で微笑んだ。
その一安心の雰囲気を甲一郎が真顔で諌める。
「まあ、それはそれとしてよ、俺たちのこと以上にもっと差し迫った問題があるんだぜ。いいかい。さっき潤さんが言ってた様に問題は下町の空襲だ。来月早々なんだぜ」
「ええ、3月の10日です。午前0時過ぎですから、ほぼ9日の夜中という感じですね。100万人以上が被災して、死者もその一晩だけで10万人に及んだと言われています」
「おい潤さん、もう一度被害地域を見せてやってくれねえか?」
「ええ、これです。東京の下町のほぼ全域になります」潤治が被災地図を映し出すとモニターを覗き込んだ正雄と誠治に甲一郎が背後から語りかける。
「な、えれえことだろう?下町は一晩で丸焼けだ。俺たちの身内だって誰が死んでもおかしかねえ。いいか?たったの2週間後だぞ。神田、日本橋、浅草、深川…どうだ正雄、親類やダチや身内や商売の付き合い…お前えも顔が広いから沢山思い当たるだろう?誠治さんはどうだい?」
「ええ、はい、学校の友人や恩師や…あ、親戚もいます」
「で?どうするよ?何も知らなきゃあ、気にもならなかったんだろうけどよ、俺たちゃあ知っちまったんだぜ。それとも知らねえ振りして全部見捨てるってかい?」
「だけどよ、知らせるったって誰も信じねえだろう?そんなでけえ空襲なんて今まであったこたねえんだから…」正雄が厳しい表情で呟く。
「それにそんなこと吹聴したら国民の戦意高揚を妨げたってことになるんじゃないですか?下手するとスパイ容疑で特高に捕まりかねませんよ」誠治も甲一郎と正雄の話の内容に不安そうだ。
「そこでだ、昨夜潤さんとも相談したんだけどよ、幸い俺は海軍省に出入りの身だ。まあそれも運良く軍属で文官てえことになってる。軍務局のそこそこの偉いさんともまあ上手く付き合ってるし、それなりに信用もされてる。だからよ、この空襲の情報を俺が軍務局に持っていくんだ」
「で、でもよ…その…話の出所を聞かれたら、一体どうするんだ?」
「出所は、僕です」潤治が答える。
「えっ!そのまま正直に話すんですかっ?そんなの軍がそのまんま鵜呑みにするとは思えませんけど」驚いて反論したのは誠治だ。
「はは…誰もそのまんま話すとは言ってねえよ。いいか、どっちにしろ明日潤さんを海軍省に連れて行く手筈にはなってんだよ。俺の助手をしてる人物ってことで、もう根回しも終わってるからよ、明日から潤さんも軍属の仲間入りってえことだな。で、俺のいる軍務局にはよ、海軍の科学研究所と連んで電波情報の傍受班があってな、俺も良く呼ばれるんだ。何とか言う特殊な受信機で敵さんの無線傍受するのさ。潤さんは結構英語の聞き取りもできるから、そこに押し込もうと思ってんだよ。そこで潤さんは偶然この空襲の情報を掴んじまうって寸法だ。ま、潤さんが受信機を使えるように、誰か一人技師を抱き込まねえとなんねえが…その辺はもう当たりはつけてある。どうだい?」
「なあるほど…だけど、もしそうなっても情報自体は軍事機密だろう?どうやって知り合いや親戚に知らせりゃいいんだ?」正雄が訝しがる。
「もちろん公にゃあ出来ねえだろう。だから噂だよ、噂。軍属の知り合いから聞いた話ってことだ。あまり公にゃ言えねえけど、3月の9日の夜中に大規模な空襲があるらしい。逃げる準備だけでもしといた方がいいくらいの感じなら伝えられるだろう。もし軍の方に知れたとしても根も葉もねえ嘘っぱちじゃあねえことは分かってる。警戒の体制くれえは取るだろうから、どっかから漏れたとしても不思議はねえだろ?噂の下地を作るってことだ。な、だから2、3日待ってくれ。なるべく早えうちに既成事実だけ作っちまうからよ」
「…そうか…多少でも軍が動きゃあ、それだけ被害も減るかも知れねえし、不確かな噂だとしたって聞かされてりゃあ注意もするだろうからな」正雄は甲一郎の計画に納得した。
「あのお…それにしても…潤治さんを海軍省に勤めさせるって…危なくないんですか?潤治さんは、何ていうか、その…未来人の感性ですから、怪しまれることとか、ないんでしょうか?」ようやく自分がいずれ潤治の父親になるであろうことを理解し始めているからだろうか、誠治は潤治の身の安全が気になって仕方がない様子だ。
「あんたが知ってるかどうかは分からねえが、ここ最近、軍の主導権はほぼ陸軍にある。かといって当の陸軍も海軍には一目も二目も置いてる。まあ、これまでの実績があるからよ。で、一般市民に目え光らせてるのは情報部、特高、憲兵…全部陸軍の息掛かりだ。この東京、どこにいたって最近は言動のおかしい奴は直ぐにしょっぴかれちまう。安全な場所なんざありゃしねえ。つまり、この広い日本の中で一番安全なのが海軍省の中…ま、灯台下暗し、治外法権って訳だな。それに、海軍の上層部ってのは意外と世の中のことが良く分かってんだ。今回の戦争も長引かせると勝ち目がねえことも分かってる。実際のところ誠治くんのお祖父様を筆頭に、早えとここの戦争を終わらせようと考えてる一派もいるくらいなんだぜ。潤さんみてえに御時世に染まってねえ奴が身を隠すにはもってこいなんだよ。まして、大森中将殿の遠縁ともなればなおさらだ。なあに、長えことじゃねえ。この夏にゃあ時代が変わるってことなんだからよ。分かるかい?」
「はい…では、僕の方からも祖父に連絡を入れておきます」
「そうかい?そりゃあ心強え…兎に角、潤さんが現れてくれたお陰で、もしかすると俺たちゃある程度の命は救えるかも知れねえんだ。これをやらずに放っとく手はねえだろう。なあ潤さん、あんたがこの時代にやって来た意味っていうのは、そういうことかも知れねえぞ…」
その夜から降り始めた雨は深夜には霙となったが、朝方には止んで一面灰色の雲り空が東京の街を包み込んだ。風もぴたりと止まり、深々とした透明な寒さに覆われ、白い息を吐きながら歩く人々と行き交う乗り物以外は全てが凍りついた様に静止していた。潤治は甲一郎に連れられ、市電霞ヶ関停留所から海軍省を目指し黙々と歩いていた。
潤治はこの時代にやって来てからこれまでの経緯を振り返っていた。偶然知り合った正雄の骨折りで信頼できる相談相手を得て、身元を証明できる戸籍も入手できた。差し迫る敗戦への道筋の中で自分が何をどう対応できるのか必死になって探っている。ところが、自分は何故ここにやってきて、何をしなければならないのか、そのことについては未だ何も分かっていない。これは必然なのだろうか、運命なのか、それとも時空の歪みに偶然落ち込んでしまった事故に過ぎないのか、全く何も分かっていないのだ。
ただ、甲一郎の言う通り、潤治には終戦までの空襲被害の記録がある。空襲による死亡者は日本全土で50万人近くにも及んだ。その内の多くの人、いや仮にそれが僅かな人数であったとしても、もしも潤治に救える命があるとしたら、それは確かに大きな意味を持つのだろう…
潤治は覚悟を決め、成り行きに身を任せることにした。
「おい、潤さん。ほれ、あそこが海軍省だぜ」甲一郎が指し示した日比谷公園の向かい側には内堀通りに面して堂々たるヨーロッパ風の大きな庁舎が見える。
「あ、ここって…合同庁舎のとこだ…」潤治が呟く。
「何だい?その合同庁舎ってのは?」
「あ、僕の時代のことです。あそこには大きな背の高いビルが建っていて、国の省庁の幾つかが集まってるんです」
「そうか…潤さんの時代にはもう海軍さんは居ねえのかい?」
「はい。戦後の憲法で日本は軍隊は持たないことになりましたんで」
「ほう…でも、そんなことして、他の国が攻め込んでくるって心配はねえのかい?」
「一応日米同盟っていうのが出来て、アメリカ軍は駐留してますし、日本も自衛隊っていう組織を作って防衛軍備だけはしています。日本の外で軍事行動は出来ないってだけで、結構大きな軍隊ではあるんです」
「なるほどねえ、ま、70年も戦争がねえってんだから、色んなことが変わっちまうんだろうなあ…おい、こっちから入えるぜ。付いてきな」
甲一郎は正面の大きな門の脇にある通用門を指し示し促した。
「あ、はい…」潤治は後ろに続く…
つづく…
この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いておりましたが、さる7月7日の夜にTAIZO氏は急逝されてしまいました。
ご冥福をお祈りすると共に、本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
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