大矢のカンガルー 2
第2章 事は企画書から始まる
正治がすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながら、鈴子の差し入れのおにぎりを頬張っていると、同じ企画部員の竹中等と田島玉江が出社してきて、隣と向かいのデスクに座った。
「おはよー。あら、川村くん、美味しそうなおにぎり食べてるわね。ママに作って貰ったの?」と、冷やかしたのは玉江である。ベテランのタイムキーパーだった玉江は、最近このプロダクションの社員になると同時に、番組企画の勉強の為、この部署に配属になったのだ。
タイムキーパーというのは、各番組の放送時間を制作のプロセスから測定し管理して制作者にきっちり守らせる為の専門職であり、慣例的に女性の職域である。経営陣は現場で信頼されている彼女をさらにプロデューサーに育てるために、この企画部に配属させたが、当の本人はそんな気はさらさらなく、現場以外の仕事には全く興味を示さない様子だった。
「あ、これ?へへ…鈴子さんから差し入れて貰っちゃった」
「あら、ちょっと鈴子!あんた川村くんに気があるんじゃないの?」
「やっだあ、いっつも朝のお掃除して貰ってるから、お礼よ。それよりさ、そっちだって竹中くんと仲良く御出勤で、見たところいい感じよお」
「あはは…なに言ってんの、そんなんじゃないわよ!」
「あ、タマさん赤くなってるう!あはは…」
「やめてよお、馬鹿ねえ!あはは…」
女傑2人に笑い飛ばされてしまっている正治と竹中は目配せした。竹中は大学卒業後いったん大手企業に就職したが、早々に退社し、このプロダクションの社員募集に応募してきた、正治と同期の社員で、歳も同じ、気の合う同僚だった。
「川村くん、企画書上がったの?」
「おう、さっき書き上がった。ほら、これ」正治は書き上げたばかりの企画書を見せた。
「お、結構枚数あるねえ…ちょっと見ていい?」
「いいよ」
「…構成案もちゃんと付いてんじゃん。クイズの内容とか自分で調べたの?」
「うん、一応考えた。適当だけどね」
「やだ、あんたこれ、1日で書いちゃったの?信じられないわ…やっぱりあたしにゃ無理だわ、こんなこと…」割り込んできたのは玉江だ。
「大丈夫ですよ。書いてりゃ、結構慣れちゃいますよ」
「いいのよ。あたしは、ストップウォッチ1つ持ってりゃ、どこ行っても食べていけんだから…」
「企画部のよい子達が揃って、朝から何盛り上がってんのかな?」
突然正治の後から首を突っ込んできたのは、このプロダクションの幹部の1人でプロデューサーの仲野武夫だった。
仲野はかつて局内でも辣腕プロデューサーだったが、局の体質を嫌い、このプロダクションが設立されたときに、移籍してきた。それほどの大男ではないものの、恐ろしく首回りの太い、がっしりとした体格で、額のキズ跡といい、形状がすっかり変わってしまう程の両耳のタコといい、誰が見ても、外見はただ者ではない。それもそのはず、学生時代はレスリングの日本代表選手で、国際大会にも出場したことのある、紛れもない猛者である。高級スーツに派手なネクタイ、ヘアスタイルは強めのパーマ…街で出会ったら、まるでヤクザの幹部である。
実際、夜、新宿の街を一緒に歩いていると、前から来る見るからにヤクザのチンピラ風体が、サッと道をあけるのを、正治は何度も見ている。当の本人は、体育会系特有の上下関係のうるささはあるものの、いたって柔和で温厚。争いからは何も生み出せない、というのが持論である。
「あ、お早うございますっ!」
「お早うっす!」
「はいはい、おはよー。仲良しで、なかなかいいよ、君たち。この業界は仲良しが一番だからね。ところで、例の企画はどうしたかな?」
「タケオさん、大丈夫よ。川村くんがしっかり書き上げてくれたわよ」玉江が応える。
「んーんー。いい子だねえ、川村くんは。どれどれ?ちょっと見せてごらん」
「はい」
仲野は企画書を手に取り、パラパラと捲った。
「おー、なかなか立派な企画書じゃない。お、構成案も付けちゃったの?偉いねえ…んーんー、立派立派」
「ていうか、中味の方はどうですか?」
「中味?ぶはは…そんなもん、知らねえよ。君もまだ分かってないみたいだねえ。俺はねえ、肉体労働者なのよ。自慢じゃないけど、脳みそからっぽ。ね、頭脳労働は君たちでしょ?中味のことはお母ちゃまに聞きなさい、ね。代理店と編成局の方のコネコネは、酒飲ませて飯食わせてバッチリ僕ちゃんがやっといたからさ。あとは君たちの脳みそ次第ってことなのよね。分かった?」
「は…はい…」
「ほらほら、ちょっと仲野ちゃん、あたしの可愛い坊や苛めないでよ」
「あ、お早うございますっ!」
「お早うっす!」
話に加わってきたのは、企画部の担当部長、幹部の紅一点、女傑プロデューサーの末次桜子だった。年齢こそ不詳だが、民放テレビ局開局当時から現社長の片腕としてこの世界で活躍してきた番組企画の専門家で、今は亡き大作家の娘でもある。
「けけけ…やだなあ、こんな優秀な子達、苛めるわけないじゃない。ほら、川村くん、お母ちゃまに企画書見て頂きなさい」
「あ、はい。これです」
企画書を受け取ると桜子は空いているデスクに腰掛けて、ハンドバッグから眼鏡を出し、目を通しはじめた。
「ほれっ、お前えらぼうっとしてねえで、お母ちゃまにお茶でも出して差し上げろ」仲野が指示する。
「あ、はい…」正治が慌てて炊事場に行こうとすると、鈴子がそれを止めた。
「いいわよ。あたしがするから、ここにいなさい」
「あーっ!鈴子またかばっちゃって、ひいきひいきい!」再び玉江が冷やかす。
「うるさいっ!馬鹿ねっ!」
「そこの年増二人っ!うるさいのはあんた達っ!人が企画書読んでるときぐらい、もうちょっと静かにできないのっ?」桜子が眼鏡越しに睨みつける。
「はーい」
「末次さん怖ーい…でも、年増だけ余計よねえ…ちょっと末次さんには言われたくないんですけど…」
「あははは…いいのよ。私ゃそういう次元はとうに越えてるんだから。うだうだいってないで早くお茶入れてきて頂戴」
「はーい」
正治が昨日の社内企画会議の意見を受けて書いた企画書は、4月前の日曜日の昼間放送を前提とした子供向けの春休み特別番組だった。表紙には『春休みこども特別番組 クイズ・どうぶつ大集合!(仮題)』とある。ざっくり言うと、スタジオに小学生の子供たちを集め、回答者として競わせるクイズ番組で、実際に沢山の動物をスタジオに集合させ、お笑いタレントや人気歌手をゲストに迎えて賑やかしながら、コントやVTRで動物の生態をテーマにした出題を進めてゆく、といったクイズ番組とバラエティー番組と科学情報番組をミックスしたような内容だった。
正治は会議の席で飛び交った出席者たちの勝手なバラバラの意見を全て汲み上げ、細かいアイデアで繋ぎあわせ、一晩で90分の特番にまとめ上げたのだった。そういう意味では、満足できる企画に仕上げられたと正治は思っている。
企画書を読み終えた末次は、固唾を呑む想いで傍らに立つ正治を見上げた。
「上手にまとまってるじゃないの。細かいとこで言いたいこともちょっとあるけどさ、概ね面白いし、いいんじゃないの?先方は急いでんだから、これで充分じゃない?ねえ、仲野ちゃん」
「もう、お母ちゃまがそう言うんだったら、いいんじゃないの?じゃ、早速持ち込んじゃう?」
「いいわよ。鉄は熱いうちに打てってね」
「合点承知の介!」
仲野は手近の受話器を取り、内線番号を回した。
「…あー、もしもし、編成局さん?伊達ちゃんは来てるかな?…あ、テレコープの仲野です。はいはい……おー、どうしたよ、ゆうべあれから真直ぐ帰った?……くかかかか、馬鹿だねえ、俺みんなに喋っちゃおうかなあ……え?…ぐははは、そりゃそうだわ……お前さんも悪いねえ…ん?…まー、そのうちに俺が何とかしてやるって…分かってるって…ははは…ばーか、俺がそんなことでいちいち電話するわけないじゃない、分かってないねえ……お仕事、おしごと!ほら、昨日打合せしただろう?……そうそう、あれね、もう企画書上がったから……ん?…何言ってんの、うちはね、仕事早いのよ。優秀な子がゴロゴロしてんだから、おたくら温室育ちのボンボンとは出来が違うのよ、あははは…そうそう、企画なんてちょいちょいよ、ほんとに…あのね、今日代理店の担当来るからさ…そうよ、うひひひ…抜かりはねえよ。……ん?11時。だからさ、その前に目え通しちゃってくれたら、話は早いじゃん。ね?…そう…だから、これから企画書コピーしてそっち行くからよ。末次のお母ちゃまと優秀な坊やとディレクターと連れて…んーんー…場所用意して楽しみに待ってなさい。ちゃんとそこにいるんだよ。フラフラ出歩くんじゃないよ。…あははは…じゃね、よろしく」
仲野は電話を切ると、顔を上げて指示を出した。
「オーケー。あのね、企画書、そうねえ…10部くらいコピーして頂戴。ちゃんと表紙つけてね。そういえばクマはどうした?」
『クマ』というのは、このプロダクションのナンバーワン・ディレクターと言われている前山俊和である。髭面の眼光鋭い大男で、誰が付けたのかは知らないが、見るからに『クマ』というあだ名がピッタリくる。普段は人気幼児教育番組のチーフディレクターを担当していて、昨日はこの企画会議にも参加していたので、多分企画の担当ディレクターに名乗りを挙げているのだろう。
「クマさん、まだ見てませんよ」
「しょうがねえなあ…朝一で出社するように言っといたんだけどなあ…」
「まさかこんな早く企画書が上がるとは思ってないんじゃないのかしら?」と、末次がかばう。
正治達が大急ぎで企画書のコピーを作っていると、前山がいつものように週刊誌を片手に不機嫌そうな顔つきで登場した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?