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大矢のカンガルー 1

この物語は、昭和50年代初頭のこと、日本のテレビ業界がようやく2世代目を迎えた頃の話...
40年以上前の私自身の日常と体験、また私が関わってきた様々なテレビマンの体験をベースに、新たに組み上げたフィクションです。

設定や登場人物・団体は全て実際の状況や実在した人物・団体をモデルにしていますが、ストーリーを構築する上で、私的なイマジネーションや多くの脚色を加え、あくまでも架空の物語として描き出しました。

登場人物がやたらと多いので戸惑うかも知れませんが、全ての人物が私の印象に強く残った方達ですので、どうぞご容赦ください。
                                作者


第1章 若きテレビアシスタントたち


正治は寝不足の目を覚醒させようと、背筋を伸ばして早朝の北風に顔を晒した。透明度の高い大気が、青空に浮かぶ小さな雲の輪郭を遥か遠くにくっきりと浮かび上がらせている。脇に抱えたコートのポケットから鍵をとりだし、運転席のドアを開け、鞄とコートを放り込んで、薄いブラウンの小さな乗用車に乗り込んだ。

チョークレバーを引きながらイグニッションを回し、冷えきったエンジンをしばらく暖める。煙草を一本取出して火を付ける。ダッシュボードのカセットテープをカーステレオに挿入すると、スライ&ザ・ファミリーストーンの重厚なビートが車内に流れる。正治は車を大通りの流れに乗せた。


新宿のはずれにあるテレビ局の広い敷地に隣接した局員用駐車場の片隅に、車を滑り込ませる。

車を降りると、朝の冷たいビル風が針のように頬を貫く。コートを着て襟を立て、裏門を抜け、大きなビルの通用口に向かった。

「おはようございます!」警備員に挨拶をして頭を下げる。
「おはようっす!毎日早いね。ご苦労様です」
「テレコープの制作室、鍵届いてます?」正治が所属しているのは、この局内に設置された局資本の制作プロダクションである。

「うーんと…届いてないみたいだねえ…また誰か泊まってるのかな?」
「分かりました。どうも」
「はい。よろしく!」

長い廊下を抜け、建物の東隅に増築されたタワービルのエレベーターホールを目指す。朝のテレビ局は、地下のスタジオエリアと1階の報道局の一角以外は休みの日の学校のようにガランとしている。2階の長い廊下に正治の靴音だけが響く。


エレベーターに乗る。10階のボタンを押すと、エレベーターはタワービルを上昇しはじめる。何故か、エレベーターは手前8階でいったん止まり、ドアが開く…

正治は心得たように、深々と頭を下げて「お疲れさま…」と小さくつぶやく。何故、正治が誰もいない8階のエレベーターホールに頭を下げたのか…その話は後回しにしよう。

エレベーターは再び上昇し、目指す10階に到着する。ホールを右手に『テレコープ制作部』のプレートが貼られた大きな扉がある。ここが半年前から正治が所属する制作プロダクションの制作室である。警備員の言う通り室内には誰かがいるらしく扉の鍵は開いていたが、中に入ると照明は全て消えていて、人気のない薄暗い空間が広がっていた。

広い制作室には60余りのデスクが、いくつかのセクションの島に分けられて配置されている。もちろん自分のデスクを持たない契約社員やアルバイトも出入りしているので、日常それ以上の人数のスタッフが出入りしている。

幼児教育番組を扱うセクション、科学情報番組のセクション、社会派ドキュメンタリー番組のセクション、歌謡番組などバラエティー番組のセクション、美術番組のセクション、ドラマ番組のセクション、企画全般を専門としたセクション、制作部全体の事務・経理を行なうセクション、他局や広告代理店からの依託制作を扱うセクション、本部長を中心とした制作部の統括セクション、作業場兼会議室スペース、応接スペース、本棚ロッカーなどの資料スペースが混然としてこの広い一部屋に押し込められている。

各デスクの上や足元には、台本や資料が積み置かれ、壁には番組ポスターやスケジュール表、収録の手順を記した香盤表や外部の相手先電話リストなどがベタベタと貼られ、デスク間の通路脇にも番組宣伝用のグッズや美術小道具の一部などが段ボール箱に入れられ、所狭しと積まれている。かろうじて僅かにスペースのあるデスクやテーブルの上には、メモ用紙や書類が散乱し、さらにその隙間に吸い散らかされた灰皿と電話機、飲みかけのお茶やコーヒーが入ったカップが乱雑に放置されている。

正面の壁に貼られた『後片付け、整理整頓を心がけよう!』の大きな文字が何とも空しく、苦笑を誘う。正治はここで一日の大半を過ごすのである。

前日の戦場の跡を確認するように部屋を見渡すと、正治はデスクの間の狭い通路を進んで、部屋の一番奥に配置された『企画セクション』の5つのデスクの一つに向かった。コートを脱いで壁脇のハンガーに掛けると、一番近い窓のブラインドを開く。眩い朝の光線が眼球を貫いて脳の奥に突き刺さった。

デスクの上に鞄を置き、炊事場に向かう。湯沸し器に火を入れ、取っ手付きの大きな篭とブリキのバケツと雑巾を持つと、部屋のデスクの島を巡り、一つ一つのデスクの灰皿の吸い殻とカップに残った飲み物をバケツに空けてゆく。空になったカップは篭に入れて回収し、デスク上に散乱するメモや資料を束ねて脇に移動し、軽く雑巾をかける。回収したカップは全て炊事場に運んで洗い、水切りに上げておく。

炊事場の作業を終えると、正治は自分のカップにインスタントコーヒーを入れ、デスクに戻って一服しながら考えた。

『おかしいなあ…誰もいないみたいだなあ……あ、そうだ!』応接室の掃除を忘れていた。

一旦カップを置き、部屋の入口付近にパーテーションで仕切られた応接室に入った。案の定応接セットの長いソファーの上で、ジャンパー姿のスタッフが一人ぐっすりと寝ていた。テーブルの上に散らかされた菓子パンの包装紙や牛乳瓶をそっと片付けながら顔を覗くと、正治の入社以前からこのプロダクションに契約社員として勤める先輩アシスタントの大矢おおやだった。

大矢は中肉中背、見るからに人のよさそうな顔つきでニコニコと物静か、いつも着古したジャンパーにジーパン姿で忙しそうに制作室や現場を走り回っている。

相当粗忽でうっかり者らしく、制作室や現場ではいつもディレクターやプロデューサーから怒鳴られ、他のスタッフからも文句ばかり言われている。当の大矢は、いくら怒られても怒鳴られても全くへこたれることも腐ることもなく、ニコニコと飄々とこの制作室に通い、また怒鳴られまくるのである。

一度も一緒に仕事をしたことはなかったが、この制作室に出入りしはじめた当初から、「おいっ、おーやっ!」「なにやってんだっ、おーやっ!」「おいっ、おーやはどこ行ったっ!おーや呼んでこいっ!」と、毎日のように頻繁に耳にするので、顔も名前も真っ先に覚えてしまった。

歳は正治よりも3歳ほど上で、アシスタントとしては高年齢である。有名放送作家の弟子で、制作現場の勉強のためにこのプロダクションの社長が預かったという話である。

部屋の片付けを一通り終えると、正治は書きかけの企画書を仕上げるために、部屋の照明のスイッチの一つを入れた。時計は9時を回ろうとするところだった。部屋の3分の1のエリアに蛍光灯が灯り、視野の色彩が一変する。
『よしっ、やるか…』正治は企画書の仕上げにとりかかる。


正治が完成した企画書を読み直していると、部屋の残りの照明が一斉に点灯した。

「おはよー!」
入口からニコニコと元気よく登場したのは、制作デスクの浅田鈴子だった。明朗快活を絵に描いたような鈴子は、旅行とスポーツが大好きな頼れる姉御肌で、この制作室の女子社員たちのまとめ役である。彼女が出社するということは、間違いなく10時10分前である。

「おはようございます」
「川村くん、いつも早いねー。なになに?今日もお掃除してくれちゃったりしてた?」
「うん。ざっとだけど…」
「ありがとー!はい、これ、お礼ね。どうせ、朝ご飯まだでしょ?」と、小さな紙袋を手渡す。中を開けてみると、おにぎり一つと、ウインナソーセージと沢庵がラップに包まれて入っていた。

「うわっ、旨そう!有り難う!」
「コーヒー、入れてきてあげようか?」
「いや、大丈夫。もうお湯沸かして飲んでるから。」
「あらそう。じゃ、あたしもコーヒー貰おっかなあ…」

鈴子が鼻歌を歌いながら炊事場に行くと、他の女子事務員数名が出社し、続いて雑用係のアルバイトや契約アシスタントらが姿を見せはじめた。

「おはよう!」
「おはよー!」
「おはようございますっ!」
「うっす!」
「はよっす!」
「ういっす!」
「おはようっす!」

様々な挨拶があちこちで飛び交い始め、制作室は一気に活気を帯びる…応接室から寝惚け眼を擦りながらようやく大矢も起きてきた。

「川村ちゃん、お早う!」
「あ、お早うっす!」
声を掛けてきたのは、通称シゲこと吾妻茂、バラエティー番組の契約アシスタントである。小太りで、食いしん坊で、ずる賢く、上にへつらい下に横柄な『虎の威を借る狸』という感じで、まるで絵に描いたような生粋のアシスタント根性丸出しの人物である。

「ちょっといい?」
「なんすか?」
「うん、ちょっとちょっと…」と部屋の隅の物陰に連れていかれる…人目を離れると吾妻は正治を拝むようにいきなり目の前で両手を合わせた。

「川村ちゃん、お願いっ!2000円貸してっ!」
「えー?またですかあ?」
「もう昼飯食う金もないんだよ。ね、お願いっ!」
「仕様がねえなあ…ちゃんと返して下さいよ」
「分かった、前の分もちゃんと返すからさあ…」

正治はポケットから数枚の札を取り出すと、中から千円札を2枚抜いて渋々手渡した。
「有り難う。恩に着るよ。給料入ったら絶対返すから」

契約アシスタントの給料の安さは良く知っていた。大体一日3000円で1割税金が引かれる。その他は残業手当も交通費も何もない。月の内には仕事のない日もあるわけで、1ヶ月に6〜7万円も稼げればいい方である。もちろん、夜中だろうと早朝だろうと、来いと言われれば出社しなければならないので、他の仕事で収入を補うこともできない。実家が東京にあるか、パトロンがいるか、親からの仕送りを受けているかでなければ、とても務まる仕事ではないのである。

そういう意味では吾妻はよく頑張っていると正治は思っている。長いこと新宿に四畳半一間の小さな古アパートを借り、自活していた。最近ようやくフロアーのチーフ(スタジオ撮影の際に、調整室にいるディレクターに代わって撮影現場の指揮を摂る役割)も務められるようになり、僅かながら手当ても増え、最近は風呂付きのアパートに引っ越したという話も聞いていた。

引き返すと、正治のデスクの上を勝手に引っ掻き回している不届き者がいる。同じく契約アシスタントの梶井である。

「梶井さん、何やってるんすか?」
正治が後から声を掛けると、梶井はビクッと驚いて振り返った。
「ちょ、ちょ、ちょっとよ、昨日のゆうべの、進行のよ…お前、言ったじゃん、打合せでよ…ほら、何だっけ…三木さんに言われちゃってよ…まとめとけってよ…ほら、あれだよ、あれっ!」
口をとんがらせて懸命に説明されるが、何を言っているのかさっぱり分からない。梶井はいつもこうである。

専門学校出の梶井は正治よりも二つほど年下であるが、アシスタントのキャリアは3年以上もあり、正治にとっては一応先輩である。このプロダクションに入ってからは、よく一緒に現場に立つことがあり、撮影はさすがに手慣れていて、こまごまと機敏に動くのだが、物事を大枠で理解するとか、作業段取りをまとめるとか、物事を調査して掘り起こしてゆくといった能力に著しく欠けていて、普段の言動にもそれが顕著に表れている。

正治がキョトンとしていると、梶井はイラついて話を続けた。
「だからよっ、ゆうべ飯食ったろう?」
「はい、三木さんと三人でね。中華屋で天津丼。あそこ旨いっすよね」
三木とは梶井の直属のディレクターで、小さな科学情報番組を担当している。

「馬鹿!お前が何食ったかなんて知らねえよっ!その後、ここでよ、打合せしたじゃん。日曜の撮影のよっ…」
「はいはい、現場の人数が足りないからって、手伝いに来てくれって頼まれましたけど…行きますよ俺、ちゃんと。ここ9時ですよね」
「そんときよ、撮影のよ、段取りとか順番とか話してたじゃん、お前。三木さんとよ」
「あー、実験のね。放電とプラズマでしょ?あれは、専門家が現場でちゃんとやってくれるんですよね」
「そりゃそうなんだけどよ、撮るときどうするとかこうするとか、いろいろ言ってたじゃん、お前…」
「どんな実験か説明して貰ったから、じゃあ、こことここはあとで寄りカットで抜こうとか、何回やってもらおうとか、そういう話?」
「そうそう、それそれ。そん時お前、何か書いてたじゃん、紙によ。あれ、見せて。俺、まとめとくように言われちゃったからさ」
「え?あんなのすぐ捨てちゃいましたよ。説明んときのなぐり書きだもん。梶井さんも一緒に聞いてたじゃないすか」
「ちょっとよ…その…よく分かんなかったんだよな…俺…なんなのあれ?」内容自体が分かっていないのだ。

「そうか…いいですよ。あとで一緒にまとめましょう。ただ俺、今日は午前中はちょっと忙しいから、午後時間作りますから。いいすか?それで」
「おう、たのむわ。悪いな。いろいろ忙しいだろうけど、頑張れよ」
「はい...」

肩越しに二人の会話を聞いていた鈴子がケラケラと笑っていた。
「偉そうに…ほんとにもう…川村くんも大変ねえ。はやくおにぎり食べちゃいなさい。親分来ちゃうわよ」

第2章につづく..

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