見出し画像

翼が消えるとき 2

憂鬱の章(2)


昨夜仕上げたプレゼン用の企画書を見直していると、案の定トッキーがタオルで髪を拭きながら風呂から上がってきた。

「あーっ!さっぱりしたあ!よしっ、1時間!」
「1時間と28分よ」玲奈が時計を見上げて訂正した。
「まあ、いいよ…おいトッキー、今月の給料振り込んどいたからな」
「あ、大丈夫だったんすか?」
「ま、何とかな…支払いは遅らされるわ、仕事はなかなか決まらないわで、相当厳しいけどな。お前もそろそろ見切りつけて転職考えた方がいいぞ」
「俺なんか雇ってくれるとこなんてどこもないすよ…」
「何だよ、うちは慈善団体かよ…」

「ねえ、塾の授業料はちゃんと払ってくれた?」玲奈が訊く。
「そっちは大丈夫だよ。お前の方とお婆ちゃんの方の諸々はちゃんと引き落とされてたよ」
「今月のお小遣いは?」
「あ、そうか…いくらにしたんだっけ?」
「3000円よ。2ヶ月前から…」
私は慌てて財布を取り出して開いた。

「おっと、細かいのがねえなあ…五千円札しかねえや」
「あ、俺細かく出来るよ」
トッキーがジーパンの尻のポケットから鎖に繋がれた布製の財布を取り出し、隠すように後ろを向いて中を探り始める…

「えーとお…1、2、3、4…あ、4700円しかないや…」
そう言って千円札4枚と小銭を差し出した。

『はあ…またか…』
いつものこと、彼の常套手段なのだ…何とも苦々しいものが込み上げたが、呑み込んだ。

「それでいいよ…ほら」と、差し出された4700円と五千円札を交換した。
「へへ…やっりーっ!じゃ、300円は両替料ってことで…」
いつものことだが、トッキーは嬉しさを隠そうともしない…

中から3000円を玲奈に渡す…
「ありがと…」玲奈はそう言ってビニール製の黄色い財布に小遣いを仕舞うと、トッキーを見上げた。
「ねえ、トッキーっていくつ?」
「え?俺?28…」
「全く…いい歳してそういうのやめてよ。男のケチって…ほんっとサイテーっ」
玲奈は吐き捨てるように言い放った。私も同感だ…
「へへ…儲けたもん勝ちなの」トッキーは全く怯(ひる)む様子がない。

そう…いくら指摘してもトッキーが一向に直そうとしないもののもう一つは、このあからさまにケチな性分なのだ。

「それよりトッキー、昨日頼んどいた企画コンテはやったのかよ?」
「やりました~。出来てますう~。はい、これ」

得意満面の表情で渡された絵コンテに目を通す…
私が昨夜なぶり描きで描いたラフコンテがケント紙上に見事な絵コンテに姿を変えていた。

「おう、相変わらず絵だけはさすがだな…でも、このカット上下(かみしも)逆だぜ」
「いや、こっちの方が絶対構図がいいのっ!」
「駄目だよ。前のカットと繋がんねえだろ?カメラはこっち。イマジナリライン越えちゃうだろ」
「あ、そうか…すぐ描き直します」
「頼むわ。夜代理店に届けるから」

「あ、そうだ。代理店で思い出した。昼前に共和宣広の高梨さんって人から電話がありましたよ」
「高梨?なんだって?どうせプレゼン駄目でしたって話だろ?あいつ力ねえから…」
「ううん。決まったから、電話欲しいって…」
「嘘だろ…そんな大事な話、何で一番後回しにすんだよ、全く…すぐ電話しなきゃ…」
「ねえ、お父さん、学校の面談忘れてないでしょうね?」
「あ、今日だっけ?」
「ほらね、やっぱり忘れてる…3時45分から。あと20分しかないわよ」
「分かった分かった。いやあ良かった。危うく忘れるとこだった…ちょっと一本電話したら、すぐ向かうわ…」
「全く…うちはお父さんしかいないんだから、もうちょっとしっかりしてよね」
「いや、悪い悪い…はは…」


娘の玲奈には悪いと思っている。こうなったのも全て周囲の大人の都合だ。玲奈の母親はモデル出身の女優だった。170センチ足らずの身長の私よりも背の高い女性だ。モデルとしては今一つ頭角を現せず、女優に転身したが、役者としての才能も存在感も彼女を世に押し出すには充分とは言えなかった。言って見れば芝居心のあるモデルといったポジションに甘んじていた。必然的に彼女の活躍の場は広告媒体に限られてしまっていた。いわゆるCMタレントだ。

当時私は売り出し中の若手広告プランナー・ディレクターとして大手広告代理店資本のプロダクションに所属していた。彼女と初めて会ったのは担当していたクライアントのCM制作の現場だった。縁があったのだろう、別のクライアントの現場でも彼女が起用されていた。幾度か現場を重ねる内に私たちは必然的に付き合うようになっていった。

確かに好きだった。負けず嫌いで男っぽく、潔(いさぎよ)い性格に惹かれた。彼女の方は……私の才能と未来に賭けてみたいと言っていた…

二人が結婚に至るにはさしたる時間は掛からなかった。今考えれば不相応なマンションを借り、何処に行くにもローンで購入した高級欧州車を乗り回していた。彼女はしきりと子供を欲しがった。あの頃、彼女の興味は自分の仕事から人生の向上にシフトした様だった。

こうして玲奈が生まれた。同時に私は3つ目のメジャーな広告賞を獲得し、仕事は絶好調だった。たった一晩で捻り出した自分のアイデアが数千万、いや時には億以上の広告予算に姿を変えていくのだ。自分でも意識せずに自分を過大評価するようになっていた。私も彼女も所属プロダクションから毎月支払われる契約料がフェアな額面ではないと信じるようになった。

そして10年前、独立した。
都心に個人オフィスを構え、より大きく飛翔したいとの意識から社名を『Wing』と名付けた。

そして、世の多くの商業クリエイターがそうであるように、独立を境に一時期の名声はあっという間に先細りとなっていった…メジャーな仕事は激減し、小さな仕事を数多くこなさなければならなくなった。

ただ諦めたくない一心でがむしゃらに働いた。それを乗り切ることが出来たのは、私自身の潜在的な器用さだった。元々学生時代にはミュージシャンを目指したこともあって、音源のプロデュースも出来たし、文章には苦手意識が全くなかったのでコピーライターの仕事も脚本の仕事も受けた。コンテも自分で描いたし、ネット環境にも慣れている。
紙媒体、電波媒体、ネット媒体、ストアプロモーション等、新興企業の統合的な広告戦略プランにも手を出した。

広告プランナー、演出家、コピーライター、CM音楽プロデューサー、Webプランナー、SPプランナー、ライター…私に肩書きを付けるとすると、やたらとテリトリーの広い器用なクリエイターということになってしまう。

こうして私は、瞬発的なアイデアと個性で時代を創るスタークリエイターから、どんな仕事でも定められた予算の中で一定のクォリティーに仕上げる堅実で職人的なクリエイターへと姿を変えた。そして何とか危機を乗り越えたのだ。

彼女は私の変貌を受け入れてはくれなかった。
「私が結婚したのは今のあなたじゃない」と言われた。
そして、ある日、まだ一歳の玲奈を連れて愛人の元に去ってしまった。結婚3年目の事だった…

『思い上がりのツケだ…』それで全てを受け入れた。
住居とオフィスを収入相応な場所に変えた。車も実用的な国産の小型バンに乗り換え、一人での移動手段は主にスポーツ自転車に変えた。


その2年後だった。
離婚後全く連絡を断っていた彼女から突然携帯に電話が掛かってきた。曰く、親権は一切放棄するので玲奈を引き取って欲しいとの事だった。

金銭的な問題ならば、何とでもすると申し入れたが、とにかく引き取って欲しいとの一点張りだった。別に理由は知りたくもなかった。離婚が決まった時も親権は法的に母親が有利と、はなから諦めていたし、新しい伴侶がいるのなら自分の出る幕はないと身を引いていたからだ。

彼女の突然の申し出は、実は私にとっては降って湧いた喜びだった。一も二もなく了承し、指定された日時に車で玲奈を引き取りにいった。

贅沢とはほど遠い郊外の小さなマンションだった。玄関には男物の革靴もあった。果たして玲奈は3歳児に成長していた。中には入らず、玄関先で2つの大きなバッグと玲奈を引き取った。

「時々は会いに来てやってくれるんだろう?」私がそう訊ねると、彼女は目を伏せた。
「いいの?」
「当たり前だろ。母親じゃないか」
「あたしは会いに来て欲しくなかった…」
「そうみたいだな…だから、来なかっただろ?」
「ごめんなさい…じゃ、もし玲奈が会いたいって言ったら連絡頂戴」
「ああ、分かった。君も会いたくなったらいつでも電話してくれ」

彼女が顔を上げて私や玲奈の顔を見ることはなかった。玲奈も予想に反して愚図ったり泣いたりすることは一切なかった。

車の後部座席で玲奈は何事もなかったかの様に無邪気にはしゃいでいた。

「あ、ごめんな。チャイルドシート用意してなかった。大人しくしてろよ」
「玲奈、この自動車好きっ!おじさん、玲奈の本当のお父さん?そうなの?」
「ああ、そうだよ…これから一緒に暮らすんだよ」
「本当のお父さんだから玲奈のこと、助けに来てくれたの?王子様みたい?」
「はは…王子様にしちゃ、少し歳食っちゃってるけどな…お父さんは一体何から玲奈を助けたのかな?」
「…悪者…あのねえ、内緒の悪者…」
「へーえ、どんな悪者?」
「それはね、言っちゃいけないの。内緒だもん…ねえ、お父さんのお家には新しいお母さんもいるの?」
「そんなのいないよ。お父さんと二人だけだ。はは…誰が言ったの?お母さん?」
「ううん。玲奈がね自分で考えたの。そうかなあって…」
「新しいお母さんが欲しいのか?」
「いらない。お父さんと二人がいい…」

こうして7年前のその日から私と娘、二人だけの生活が始まった…

その後も玲奈は母親と暮らした2年間のことについては一切口にしなかった。何しろ僅かに3歳までのことだ。もう忘れてしまったのかも知れない…

第3話につづく…

第1話から読む...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?