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翼が消えるとき 1


憂鬱の章(1)


銀行のATMから通りに出たところで、ポケットから携帯を取り出し、一つ大きく深呼吸をして電話を掛けた。

「もしもし、ウィングの脇坂(わきさか)ですが、井出(いで)さん、いらっしゃいますか?」
『あ、脇坂さんお早う御座います。ちょっと待って下さいね、今その辺に……あ、いたいた。社長、脇坂さんからお電話ですよ』
『……はい、もしもーし!井出でーす』
「脇坂です。あのお…編集費また、振り込まれてませんけど…」
『ああ…申し訳ないっ!昨夜電話しようと思ったんですけど、ちょっとドタバタしちゃって…本当に申し訳ないっ!今月末には絶対入れますから、もう少し待って貰えませんか?』
「しょうがないなあ…そろそろうちもやばいんだよねえ。元々うちがアレンジした仕事なんだから、優先して払って貰わないと…この程度の金額でガタガタ言いたくないんだけど…せめて前回の分だけでも何とかなりません?」
『そうですか……ちょっと待って下さいね…』

飲料メーカーの広報誌編集…
かつてCMのプランニングを引き受けた折にクライアントから面倒を見てくれないかと頼まれた、言わばおまけの様な小さな仕事だ。仲介した代理店も面倒がって「直接やって頂いて結構ですよ」と、すんなり譲ってくれた程だ。私も一人で引き受けるには手間が掛かりそうだったので、当時発足したばかりの知り合いのプロダクションに取り回しを依頼したのだ。しかし、業界に大不況が吹き荒れる今となっては、私にとっても貴重なレギュラーワークとなっている。

『もしもし?今経理と相談したんですけど、先月分だけならなんとか明日振り込めます。残りはどうしても月末まで待って頂きたいんですけど…申し訳ないんだけど…』
「分かりました。仕方ないか…その代わり月末には必ずお願いしますよ。あ、それと。次号のカンプ、データで送りますから、クライアントの方にチェックして貰っておいて下さいね」
『分かりました。すぐに進めます。また連絡しますんで…』
「宜しくお願いします。ご免ね、こっちも厳しいんで…」
『いえ、御迷惑お掛けしてるのはこちらですから…』
私は電話を切って再び大きく深呼吸をした…


玄関前の小さな駐車場脇に愛用の自転車を停める。我が家は小振りな家なのに入り口のドアが二つある。かつて母親が一人暮らしをしていた家を5年前の同居を機に改装し、一階の一部をオフィスにしたのだ。その母も今は認知症が進み、郊外の施設に入所している。

オフィス側のドアを開け、小さな玄関で靴を脱いで中に入ると、十六帖程の板敷のオフィスの奥に置かれたデスクで娘の玲奈(れな)が一心不乱にPCゲームに興じている。直ぐ脇の広い窓から差し込む初夏の陽光が目鼻立ちの整ったはっきりとした彼女のプロファイルを照らし出す。ああやって真剣に一点を見つめる顔はまるで彫刻に彫られた女神像の様だ…

「ただいま…」声を掛ける…
「あ、お父さん、お帰り」モニターから目を離し、こちらに向かって微笑むと、やはりまだまだ幼さの残る子供の表情に戻る。
「あれ?トッキーは?」
「トッキー、お風呂よ…」玲奈は再びモニターに視線を戻す。
「またかよ…あいつ、ちょっと目え離すとすぐ風呂だな…」

トッキーこと佐々木時広(ときひろ)は5年前から私のオフィスに勤めるアシスタントだ。大分以前、大学時代所属していた軽音楽クラブの同窓会の後で、久々に再会した友人の家に誘われた。トッキーはそこに居候していた親戚の美大生だった。

それから数年経ったある日、以前に手渡した私の名刺を手に突然訪ねてきたのだ。彼はその後美大を卒業はしたものの、仕事を全く見付けられず、藁(わら)をもすがる思いで私を訪ねたのだと言う。学科を訊ねると壁画科だと答えた。暫くは美術プロダクション関連の伝手(つて)を探してあげたが、もう既に業界の不況は始まっており、彼の就職先は一向に見付けられなかった。

丁度その頃、母親がアルツハイマーに冒されていることが分かり、私はそれまで借りていた住居用のマンションと都心のオフィスを引き払い、オフィスごと実家に戻ることにしたのだが、その折も折、それまで雇っていたアシスタントが業界を見限って郷里に帰ってしまったのだ。

アシスタントが辞めたことを聞き付けたトッキーは、ここぞとばかりアルバイトでもいいので他に就職先が見付かるまでの間置いてくれないかと日参し始めた。「君はうちの仕事には向かないよ」と何度断っても、あくる日にはまた訪れて同じ依頼を繰り返すのだ。正直言って、あのしつこさとバイタリティーには驚かされた。しかも当時は引っ越しやら実家の改装やらで、ドタバタの真っ最中。新たにアシスタントを探すのも面倒だったので、乗り掛かった舟、一時(いっとき)のことならと了解したのが運の尽きで、そのままちゃっかり居座られてしまった。

まあ、全く使い物にならないと言う訳ではない。さすがにデッサンは目を見張るほど上手いし、性格も至って温厚で仕事に対しては実直だ。ただし小さい頃から絵ばかり描いてきたせいなのか、著しく常識が欠落している。

当初は外部スタッフにまともに挨拶も出来なかった。周囲への気の遣い方も分かっていない。体毛が濃く、骨太でおでこと頬骨の張ったがっしりとした容貌は一見凶暴にも見えるので、第一印象もあまり良い方ではない。

特に、制作マンにとって口の利き方を知らないのは致命傷とも言える。制作現場ではトラブル続きだったが、それは彼を大卒の大人だと思うからで、子供のつもりで向き合えばそれ程腹も立たない。一つ一つ丁寧に教えれば、本人も努力して改めようと心掛け、「あー、そうだった」「またやっちゃった」「駄目だ、こんなんじゃ」としきりに自分を鼓舞して、時間を掛けて少しずつ改めてくれるのだ。5年経った今では、何とかそこそこは役割が果たせるようにはなっている。

ただし、いくら諭しても直らないことがある。その一つが入浴だ。彼がここに通い始めた頃、取引先への届けものから戻ってくると、真剣な顔で私に話しかけた。

「あのー…俺、今から少し暇だったりするんだよねえ?」
「違うだろ?この後何か用事がありますか、だろ?」
「あ、ああ…何か用事ありますか?」
「何で?何かやりたいことでもあるの?」
「いや、ちょっと、その、風呂貸して貰おうかなって思って…」
「風呂?まあ、別にいいけど…洗面所の奥、使い方分かるか?タオルは洗面所の棚の中、どれでも使っていいよ」
「えへへへへ…んじゃ、ちょっと…」

トッキーは嬉しそうに微笑むと我が家の風呂場に向かった。一人暮らしのアパートに風呂が無いのか、前日銭湯に行く時間がなかったのか、ま、そんなようなことだろうと別に大して気にも留めなかった。

暫く依頼された企画書作りに没頭していると、当時まだ幼稚園に通っていた娘の玲奈が帰ってきた。

「お父さん!何でバスんとこまで迎えに来てくれないのよお!」
「あ、悪い悪い、ついつい仕事に没頭しちゃって…時計見てなかった…ご免な。でも、すぐそこだろ?」
「あのね、必ず迎えに来て下さいって、決まってるのよ。シンちゃんのママがいたから良かったけどさ…それより、誰がお風呂に入ってるの?鍵が掛かってて洗面所使えないよ」
「え?あいつまだ風呂入ってんのか?」と、時計を見ると、もう2時間以上も経っている。
「…何だよ…何かあったのか?まさかぶっ倒れてんじゃねえだろうな…」
「誰?トッキー?」佐々木時広をトッキーと呼び始めたのは玲奈だ。
「全く…」私は急ぎ鍵のかかった洗面所のドアのところに行き、ノックした。
「佐々木君?どうした?佐々木君っ!」…返事がない…

耳を澄ますと、浴室のチャプチャプという水音の隙間に時折「あ~~~っ…」「ふ~~~ん…」というトッキーの低いうめき声が聞こえる。

私は慌てて仕事場からドライバーを取って返し、ドアノブの中心に差し込んで捻った。洗面所に飛び込んで風呂場を仕切るガラス戸を叩いて声を掛けた。
「おいっ!佐々木っ!大丈夫かっ?」
「はーい…なんすかあ?」
「なんですかじゃねえよ…お前、大丈夫かっ?」
「べーつにいー。ぷはーっ…風呂入ってるだけっす…はあーっ…」
「お前、一体何時間入ってるつもりだっ!もういい加減に出ろよ」
「えーーーっ?風呂ぐらいゆっくり入らせてよーー…」
別に何かが起きた訳ではなさそうだった…

「いいからもう出ろ。お前まだ仕事中なんだぞ…」
「ふあ~~~い」

トッキーが風呂から上がって来たのはそれからさらに30分以上も経ってからだった。入浴を中断されたのが余程気に入らなかったのか、その日は夜の終業まで恐ろしくぶっきらぼうで機嫌が悪かった。その場でクビにしてやろうかとも思ったが、それも大人気ない気がして思いとどまった。

翌日、タイミングを見て切り出した。
「佐々木君、人ん家(ち)の風呂を借りる時はさ、あんまり長風呂しちゃ駄目だぞ」
「えーっ?ちゃんと早めに出たじゃない」
「2時間半(本当は3時間近くだったのだが…)のどこが早めだよ」
「俺にとっちゃ早めなのっ!そんなの人それぞれじゃん…」
何故か完全にむきになっている…何故むきになれるのか、意味不明である。

「あのさ、お前、自分のアパートに風呂ないの?」
「あるけどさあ…毎日使うとガス代も水道代も凄え上がっちゃうんだよなあ…でも、毎日入りたいじゃないっすかあ」反論するのも馬鹿馬鹿しい…

「とにかく好きに入りたかったら仕事以外の時間にどっかよそで入ってくれ。うちの風呂使う時は1時間まで。それ以上長く使うのはやめて貰うから。な?分かったな?」
「何だよお、風呂ぐらいでガタガタ言うなよなあ」張り倒してやりたい気持ちをぐっと堪えた。

「ま、仕事場で風呂使うんならその位守ってくれ、仕事にも差し支えるから」
「じゃあ、トイレはどうするんだよお。トイレ長い奴だっているだろう?」トッキーはどうだと言わんばかりにほくそ笑んだ。

「もし、うちのトイレを普通に3時間占拠する奴がいたら、その場でぶっ殺してやる…」
私が堪え切れずにそう呟くと、トッキーはそれ以上の反論を断念した様だった。

「あはははは……トッキーって、変な人お!」二人の会話を傍で聞いていたまだ5歳の玲奈が大笑いしていた。
以来、トッキーは私の留守を狙って風呂を使う様になった。私が戻ると暫く経ってタオルで髪を拭きながら風呂から上がって来る。そして時計を見上げて必ずこういうのだ。
「あーっ!気持ちよかったあ!よしっ、丁度1時間っ!」

第二話につづく…

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