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仙の道 6

第三章・醒(2)


食事を終え、アパートを出ると、2人は急ぎ駅に向った。
「すいません。付合わせちゃって…」
「いやあ、久し振りの家庭の味って感じで、旨かったなあ…楽しかったよ。酒さえ飲まなきゃ、いいお袋さんなのになあ…」
「何回も電話掛かってたみたいでしたけど…大丈夫ですか?」
「まあ、何とかな…未成年に心配されるようじゃ、俺もおしまいだな…はは…」
「すいません…」

駅の手前で戸枝は突然何かを思い出したように立ち止まり、真顔で礼司に切り出した。
「お前、もうお袋さんのとこには戻れないかも知れねえんだぞ。今から、どっか逃げた方がいいんじゃねえか?な、そうしろよ。俺、途中でまかれちゃったことにしといてやるから。そうだ、お前から貰った80万、まだここにあるからよ、これ持って、お袋さん連れてどっか逃げろ。な、そうしろ」
「はは…ありがとうございます。でも戸枝さん…それじゃ、何にも解決できないし、戸枝さんにも迷惑かけちゃうじゃないですか。大丈夫ですよ。僕は大丈夫ですから…」
「うーん…でもよ…」
「いいから、行きましょう。ね、急がないと、また怒られちゃいますよ」


戸枝の事務所は、電車で2駅先、裏通りの古い小さなビルの二階だった。扉には『即日御融資!無担保・無保証人 ハッピーローン・サンキ』のプラスティックパネルが貼ってあった。

「俺からも頼んでやるから…いいか?大人しくしてるんだぞ」ドアの前で戸枝がそっと囁いた。
「はい…」

戸枝がドアを開き、中に入る…礼司も後に続いた。
「お帰りなさい!」
「お疲れさまっす!」

事務所の中は思ったよりも広かった。
中にいたのは若い社員が3人。皆一応スーツを着用しているが、明らかに堅気のサラリーマンとは異質の雰囲気を漂わせていた。

「部長、奥で社長がお待ちです」
「おう…悪かったな気い揉ませて…」

カウンター前を横切り、応接セットの奥のドアに近付くと、中からやけに化粧の厚い女子社員がいくつかの空の茶碗を載せたお盆を持って出てきた。

「あら、遅かったじゃない…社長機嫌悪いわよ。この子がそうなの?何よまだ子供じゃない…いらっしゃいませ。どうぞ…社長っ!戸枝さん戻りましたよっ!」
「おう、入れ!」中から太く擦れた声が応えた。
「失礼します!」戸枝が一礼して中に入り、礼司を招き入れた。
「連れてきました…」
「どうも…お邪魔します…」礼司も一礼した。

見たところは60過ぎ、がっしりとした首周り、太めで肩幅が広く、つるりと剥げた頭にぎょろりと大きな目の社長は部屋の一番奥に据えられた大きなデスクの向こうの椅子に、背をもたれかけ、捲った派手なピンクのシャツから太い腕を覗かせて腕組みをしていた。その手前に置かれた応接セットに2人の男が座っていたが、戸枝を見ると立ち上がって「ご苦労様っす!」と頭を下げた。2人の内の一人は、昼間礼司を訪ねた大柄だった。右腕はギブスで固められていた。

「これがその坊やか?」
「初めまして…春田です…」
礼司が挨拶をすると、社長は一瞬鋭く礼司を睨み、それから一転笑顔を浮かべて、「なんだ…普通の青年じゃないか。まあ、そこに座りなさい」と応接のソファを指差した。

「おい、お前えらは、そっちどけ!」戸枝が首を振ると、2人は慌てて部屋の隅に移動した。戸枝と礼司は社長に向かい合うようにソファに並んで腰掛けた。

「春田くんだったね…うちの戸枝がお世話になってるそうで…社長の中川です」
「いえ、お世話になってるのは、僕の方です。初めまして、いろいろと…すいません」
「君は、まだ未成年だって?」
「はい、今年4月に20歳になりますけど…」
「若いのに、随分肝が据わってるねえ…こんなとこに連れて来られて、怖くないの?」
「いえ…大丈夫です…」
「君、見たところ、素人さんのようだけど…武道かなんかやってるの?」
「いえ、そういうのは、やったことありません」
「じゃ、喧嘩が強いんだ」
「いえ、喧嘩はしません。嫌いです」
「誰かと喧嘩したことは…ないの?」
「はい。喧嘩はしません」
「おい、マサ!お前ら、本当にこの細っこい坊やにやられたのか?」
「はいっ!間違いなく…こいつです」
「春田くん…」
「はい?」
「こいつらはね、知合いの組から預かってる回収屋…つまり、借金の取立屋だ。まあ、言ってみれば、脅しと喧嘩のプロだな。マサっ!」
「はいっ!」
「お前え、確か元ボクサーだったな?」
「はいっ!ウエルターの6回戦でしたっ!」
「空手もやってたんだよな」
「はいっ!初段です」
「ほら…ね?荒っぽいうちらの世界だって、弱い部類の奴じゃないんだよ。それがさ、見てみなよ、腕へし折られちゃって…君は見たところ…どこも怪我してる様子は無いよねえ?」
「はい…僕…別に、喧嘩してませんから…あの…」
「何?」
「もう一人の人は…大丈夫だったんですか?」
「ああ…あいつは、可哀相に、両腕いかれてて、片っ方は複雑骨折だ。手術しないと駄目だから、暫くは入院だ。あいつだって別に弱い奴じゃねえ…」
「そうですか…」
「おい、マサ…」
「はいっ!」
「お前、この坊やにどんな風にやられたんだ?」
「あ、あの…どんな風って…ちょっと、脅しでヤキ入れてやろうと思って…最初は腹に膝食らわせようとしたら…そしたら、なんか身体がふわって浮いちゃって、倒れちゃったんです」
「それでやられたのか?」
「いや、涼しい顔してるんで、俺、頭来て、トシの野郎に押さえとけって、羽交い締めにさせて、腹に一発食らわしてやろうと思って…」
「で、どうした?」
「殴った…と思ったら激痛が走って…あとは…もう、痛くて…」
「トシはどうなったんだ?」
「あいつも同時に吹っ飛んでました」
「この坊やが何したか見なかったのか?」
「それは…見てません…」
「君…こいつらに、何やったの?」
「戸枝さんにも話しましたけど…僕は何もしてないんです、本当です」
「面白いこと言うねえ…君は…何もしてないのに人が怪我することはないだろ?」
「僕は何もしません。だから、僕に何もしなければ、誰も怪我をすることはありません」
「ははは…何だか、脅されちゃってるみたいだな、その言い方は…坊や、何があったか知らないけど、こっちは大事な舎弟2人も怪我させられたんだ。こういう場合はね、落とし前をつけて貰わないとね。そういう世界なんだ、うちらは…」
「落とし前っていうのは…どうすればいいんですか?」
「ま、普通は、金か身体だな」
「お金は、今はありません。今日用意したお金…少しですけど…全部その人に渡しちゃいました。領収書はちゃんと貰いましたけど…」
「それは、借金の分だろ?そういうことじゃないんだよ。まあ、慰謝料だな慰謝料」
「なんで僕がその人に慰謝しなきゃなんないんですか?」
「だって、そりゃ、怪我させたからだろう…」
「怪我させようとしたのは、その人ですよ。母の借金をちゃんと返せないことは、悪いと思っています。それは、戸枝さんにも伝えましたし、自分なりに出来ることは一生懸命、誠意を持ってやろうと思っています。勿論、それが充分でないことも分かっています。でも、僕が何でその人に謝らなきゃならないんですか?僕がその人を殴ったんだったら、何度でも謝りますけど、僕はその人には何もしていません。したのは、その人でしょ?こういう言い方は、したくなかったんですけど…その人は、自分で勝手に怪我したんですよ。自分で転んで勝手に怪我した人の責任を、何で僕が取らなきゃならないんですか?」横に座っていた戸枝は、礼司の言葉を聞いて、思わず頭を抱えた。

「君は……俺をおちょくってんのか?おい、事務所の連中、全部帰せ…どうも、この坊や、何か勘違いしてるみてえだ。金のことは、もういい…おい、身体で支払うってこと、教えてやれっ!」

大柄が慌てて事務所の社員たちに、「おい、もう帰れ!」と声を掛けた。仕事をしていた社員たちは、慣れた様子で事務所を出ていった。
大柄がギブスをしたまま、おどおどと、社長室のドアの前に立ちはだかり、「皆、帰りました…」と報告した…

「親父さん…こいつ、まだ子供に毛が生えたくらいの坊やですし、本当に素人ですよ。そんなにむきにならなくてもいいじゃないですか?勘弁してやってくれませんかねえ…」戸枝が恐る恐る助け船を出した。

「トエ、お前え、いつから俺に指図出来るようになったんだ?あ?」
「いや…すいません…」
「しかし、ま、言われてみりゃ、それもそうだな。ただ、子供にはちゃんと教えてやらねえとな。おい、少し手加減してやれっ!」中川の言葉で、大柄と一緒にいたもう一人が、礼司に近付いてきた。手には木刀を持っていた。「坊や…こっちに立ちな…」

「おい…痛くても、抵抗するんじゃねえぞ…」戸枝が礼司の耳元にそっと囁いた。

礼司は、やれやれといった表情でソファから立ち上がり、男が示した場所に移動した。

「覚悟は出来てるか?ちょっと痛えぞ」そう言いながら、男は礼司の足を狙って木刀を振り下ろした。次の瞬間、『バキッ』っと乾いた亀裂音が響き、木刀は粉々に砕け散り、部屋中に散乱した。その破片の1つが男の頬に突き刺さっていた。木刀を持っていた男の手の平はぱっくりと大きな裂傷を負っていた。

「おおおお…」男は見る見る血に染まる片手を押さえ、床にへたり込んでいた。自分の体験が蘇ったのか、ドアの前に立っていた大柄は、脅えた様子で身を屈めていた。

「大丈夫ですか?…」礼司は、足元に座り込んでいた男の傍に寄って、声を掛けた。
「ひっ!」男は礼司を見て、座ったまま慌てて壁際に後ずさった。

「お、おい…な、なんだ?なんだ?おい、何があった?どうしたんだ…」中川は目の当たりにしたことが理解できず、丸い目をさらに大きく見開いたまま、宛の無い質問を繰り返していた。

『このおじさん…どっかで見たことあるな…あ、そうだ、子供の頃飼ってた…金魚だ…』礼司は可笑しさを堪え切れず、くすっと笑って、同じく呆然としている戸枝に話しかけた。
「あの…他に何もないんだったら、僕、失礼します。明日、仕事が朝早いんで…」

戸枝からは何の返事もなかった。礼司が一礼をして部屋のドアに向うと、その前に屈んでいた大柄が脅えた表情のまま慌てて飛び退いた。


礼司が駅のホームで電車を待っていると、戸枝が駆け付けてきた。慌てて後を追ったらしく、息が上がっていた。
「はあ…良かった…間に合った…」
「戸枝さん…戸枝さんは、分かってくれます?見たでしょう?」
「あ、あれって…どうやったんだ?」
「だから、僕は何もしてないんです。戸枝さん、見てたじゃないですか」
「あれ…何かこう…念力みたいな…ことなの?」
「いえ…僕の意思と関係なく、起きちゃうんです」
「信じられないけど…本当みてえだな…参ったなあ…えれえことになった…」
「あの…僕はもう、家に帰りますから…戸枝さんは、会社に戻るんですか?」
「親父は、苦し紛れに連れ戻してこいって言ってたけど…あんなに慌てふためいた親父見るの、俺初めてだよ…」
「僕、もう、ちょっと眠いから…明日も早いし、悪いけど帰って寝ます。社長さんにはそう言っておいて下さい。まだ、何か話があるんだったら、また明日伺いますって…あの…中川さんって…ちょっと金魚に似てますね…はは…あ、すいません。これは言わないで下さいね」

電車がホームに到着した。礼司は戸枝に軽く頭を下げて電車に乗り込んだ。
「じゃ、また…」
「ああ…あ、お袋さんにご馳走さまって、言っといてくれよな」
「はい…」

礼司を乗せた電車が見えなくなると、深夜のホームに取り残された戸枝は呟いた…
「…金魚か…へへ……」

第7話につづく…

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連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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