私がわたしである理由18
第十章 東京大空襲(3)
潤治と正雄の一行は、赤坂からさらに坂を登り、ようやく麻布の高台に辿り着いた。本所・浜町から重いリヤカーを引きながらの道のりは既に2時間近くにもなっていた。
「よおし、ここまで来りゃあもう大丈夫だろう。どうだい?潤さん」
「ええ、この辺はもう標的の外の筈です」
「じゃあ、このへんで一息入れようぜ。運ぶ方も運ばれる方も疲れたろう。おい功夫、水筒の水、みんなに回してやれ。ちょいと一休みだ」
一行が麻布の高台から見下ろした下町一帯は既に一面火の海と化している…広大な火炎は空一面を真っ赤に染め上げ、ここ数キロ離れた麻布周辺も、その光で真昼の様に明るい。
「ああ…街が…街が、みんな燃えちまってる…」リヤカーから降りた正雄の叔母の八重は驚きで目を見開き、口に手をあてる。
広範囲に高く立ち上る炎…上空では交差する幾条ものサーチライトの光にキラキラと銀色に輝く敵機の大編隊が無数の焼夷弾をばら撒いている。所々の陸地から高射砲が上空に打ち込まれているが、虚しく上空で破裂するばかり…その高射砲やサーチライトを狙って、上空の爆撃機からキラキラと火花を散らす様に機銃が発射されている…
「お父さん…綺麗だねえ…」正雄の横に立った積子が呟く…
「お前…あの火の下でどの位の人が亡くなってると思ってんだ…滅多なこと言うもんじゃねえ。しかし、ここまで酷えとは…あれじゃあ、逃げ場も何もあったもんじゃねえ…」正雄は轟々と燃え盛りながら街を飲み込み続ける炎と黒煙を凝視しながら、繋いだ積子の手を強く握り直した。
少しの休憩を経て、再び一行は帰路を歩みだす…
程なく、桜田通りへと繋がる大通りに出た。
「おい、功夫、俺たちゃ年寄りもいるし、あとはゆっくり歩いてくから、お前え少し急いで一足先に帰ってくれねえか?この先ゃ一本道だからよ。うちのにこっちの事情話して、軽く食いもんと、お客さん用の寝床を用意してもらっといてくれ」正雄がリアカーを引きながら功夫に声を掛ける。
「はいっ、じゃ俺、一足先に帰ってますんで」功夫は軽くみんなに頭を下げると、ハンチング帽をしっかりと被り直し、急ぎ早足で行く手に遠ざかって行った。
正雄たち一行が百反の山口屋に帰り着いた頃、大規模な空襲を繰り広げた敵機はようやく東京の空から姿を消していた。
正雄は居間に戻ってきたきくに声を掛ける。
「どうしたい?婆あたち年寄り連中は無事寝たかい?」
「ええ、よっぽどお疲れだったんでしょうねえ。こんな大変な時にとても眠れやしないとか何とか言ってましたけど、お布団に入ったらあっという間に眠っちまいましたよ」
「子供達は?」
「とっくに寝ましたよ。あんた、積ちゃんに何か言ったんですか?」
「いや…何でだい?」
「積ちゃん、上の三階から暫く下町の火を眺めて、あの子、滅多に泣かない子なのに、ポロポロ泣くんですよ。火はあんなに綺麗なのに、あの中で沢山人が死んでるって…日本橋や神田は大丈夫なのか、深川や浅草は無事なのかって…ほら、うちの親戚のある場所を1つ1つ挙げてさ…まあ、暫く宥めてやったら、寝ましたけど…」
「ああ…俺たちだってすんでのとこであの火に巻かれちまうとこだったんだ。あん時、潤さんが言ってくれなきゃ、危うく家族を見殺しにするとこだった…全く…ぞっとするぜ」
「川出さん、本当に有難うございました。お陰様で叔母叔父も助けられましたし…あたし達ゃこれから川出さんにゃ足向けて寝られませんよ」
「いや、僕も咄嗟に気が付いて良かったです。それより、下町の他のご親戚の方達が無事だといいんですが…」
「ま、今ここで気い揉んでも仕様がねえや。昼過ぎりゃあ、少しゃ火も落ち着くだろう。心当たりを一回りしてくらあ。おいっ、功夫!お前え、そんなとこでうたた寝してねえで、上あがってちゃんと休んでこい」
「あ…はい…でも、店の準備の方もあるんで…」功夫が眠そうな目を擦りながら応える。
「今日は、店は開けなくていい。それどこじゃねえだろ。色々大変な目にあったんだ、ゆっくり休んでろ。潤さんも休んで下さいよ。まだ帰んなくて大丈夫なんだろ?」
「ええ、じゃあそうさせて頂きます。夕方からまた夜勤ですから…」
「あちらにお布団敷いてますから、どうぞ…」きくが隣の仏間を示す。
「有難うございます…」
潤治が目を覚ました時には時計はもう午前10時を示していた。
洗面を終え、台所に行くと、赤ん坊を背負ったきくが既に甲斐甲斐しく食事の準備を始めている様子だった。板床の上で次女のかよ子が妹の正子にお手玉を教えてあげている。
「まあ、おはようございます。良くお休みになられました?」
「ええ、お陰様で、お早うございます」
「みんな、まだ寝てますよ。昨夜は本当にお世話になりました。食事の準備が出来たら起こしてくれってうちのからは言われてますから、居間の方で少しごゆっくりされてて下さい。今お茶淹れますから」
「いや、僕、ちょっと電話を入れに出掛けてきます。昨日は上司と連絡取れなかったもんで…」
「ああ、お電話だったら、増田屋かスワンで借りりゃあいいですよ」
「ええ、スワンの康男さんのとこでお借りしてきます。直ぐ戻ります」
外は晴天だった。百反の商店街はいつもと変わりない様相だったが、坂道の切れ間から下町の方を眺めると、あちらこちらにはまだ煙が燻り、目立つ建物は殆ど姿を消している様だった。
「もしもし、二課・翻訳部の野瀬翻訳官をお願いいたします。はい、助手の川出と申します」
海軍省の交換手に伝えると、暫くして甲一郎から返事があった。
『もしもし?川出くんか?今、何処にいるんだ?』
「ああ、はい。昨夜は百反の方に泊めて頂きました。実は…」
『いやいや、詳しい話はあとで聞くから…それより、今日は少し早めに出省出来ねえか?』
「あ、はい、分かりました」
『伊東技兵は昼過ぎに呼んだから、それに合わせて来て貰えるかい?そこからなら、市電は動いてるからよ』
「はい、分かりました。伺います」
『じゃあ、そん時…』
「はい、後ほど」
「いやあ、昨夜は凄え空襲だったなあ。下町の様子見ました?酷いことになってるよ」カウンターの向こうでマスターの康男が眉間に皺を寄せて不安そうな表情を浮かべる。
「あの…お電話代の方は…」
「いいですよ、そんなもん。昨夜は正雄のとこにお泊りになったんですか?」
「ええ、あれから本所のご親戚を避難させに迎えに行ったんで…」
「本当ですか?それで、皆さんご無事で?」
「ええ、何とか。寸前でしたけど…」
「そりゃ、大変でしたねえ。この辺りも、そのうちヤバいことになるんでしょうねえ」
「暫くは大丈夫だと思いますけど、5月頃には危ないと思います」
「そうかあ…そろそろ考えないといけないか…」
「あたしゃ、やっぱり行ってくるよ」
食事の席で真剣な面持ちで言ったのは正雄の叔母の八重だ。
「叔母さん、そらやめといた方がいいぜ。今日のところは俺と功夫であちこち回ってくるからよ。年寄りがいたんじゃかえって足手まといだ。第一、まだ燻ってるとこもある様だし。必ず家の方は見て来てやるから」
「そうそう、叔母さん、そうした方がいいですよ。ここに暫くいて、また落ち着いたら行きゃあいいんですから」きくも必死で嗜める。
「そうだよ。英さんだって、あれじゃあ暫く身動き取れやしないじゃないか。兎に角遠慮なしで、ここでゆっくりしてりゃいいんだよ」久邇がぶっきら棒に言い放った。
「そうかい?...何だか申し訳ないねえ」
「いいんだよ。こんな時ゃ助け合うのが当たり前だよ」
「お父さん、あたしも行くっ!あたしも一緒に連れてって!」それまで大人しく控えていた積子が急に真顔で口を挟んだ。
「何言ってんだ、今日のところはまだ危ねえから、お前は家にいた方がいいだろう?」
「あたし手伝うっ!昨日だって、ちゃんと手伝ったでしょ?浅草のおばちゃんや深川の新兄ちゃんや神田の恵美子ちゃん家や…ね、いいでしょ?あたし心配でいられないの。みんなどうなったのか…お家の場所もよく知ってるから、手分けして様子見られるじゃない。あたし、足は丈夫だし、荷物も持つ。絶対に足手まといにならないから…お願いっ!」
「まあ、そこまで言うんなら…この子ももう大きいんだし、連れてってやってもいいんじゃないの?きっと、心配なんだよ」後押ししたのはきくだ。
「分かった。じゃあ、ちゃんと言うこと聞いて、手伝うんだぞ。音を上げんじゃねえぞ、分かったな?」
「はい…」積子は真剣に正雄を見詰めた。
その時、玄関先から声が聞こえた。
「こんにちはー、どなたかいらっしゃいますかーっ!」
「ん?誰だ?おいっ、積子、ちょっと見てこいっ」
「はーい…」
玄関には学生服にゲートルを巻き、肩下げ鞄と水筒を下げた誠治が立っていた。
「あ、誠治さん…」積子は思いがけない誠治の登場に少し頬を赤らめる…
やあ、積子さん、こんにちは。あの、お父様はいらっしゃいますか?」
「ええ…あ、はい。今、呼んできます」
居間に積子が飛び込んで来た…
「誠治さんよっ!お父さんいますかって…」
「え?誠治くん?おい、潤さん」
「ああ、俺も行きます」
正雄と潤治が玄関に顔を出す。
「何だよ、誠治くん、どうしたい?」
「ああ、良かった。お店が閉まってたから、誰もいないのかと…」
「いやいや、昨夜色々あってよ…ま、兎に角、少し上がっていきなよ」
「じゃ、ちょっとお邪魔します」
正雄は昨夜の顛末を説明した…
「誠治くんの家にもお知り合いが避難してるって言ってたよね?」潤治が尋ねる。
「ええ、で…朝からあっちこっち他の心当たりにも連絡してるんですけど、何処にも連絡が取れないんで、兎に角様子見に行ってみることにしたんです。正雄さんのとこもご親戚が一杯いるって聞いてましたから、何か情報が入っていないかと思って…」
「いや、実はよ、俺もこれからあちこち回ってみようと思ってんだよ。じゃあ、一緒に行くかい?こっちは功夫も積子も連れてくからよ。人数がいた方が心強えや」
「本当ですか?いや、僕、あっちの方は不案内なんで、助かります。潤治さんは?」
「僕はこれから海軍省の方に出向くんで、途中まで一緒に行きましょう。市電も東京駅あたりまでは動いているらしいですし」
「よしっ、じゃあそろそろ出発とするか。おい、功夫、積子、支度しろ」
潤治、正雄、誠治、功夫、積子の5人は百反坂を下り、大崎広小路から市電に乗り込んだ。
さすがに市電は間引き運転状態だったが、それでも甲一郎が言った様に東京駅近辺までは市電で移動出来る様だった。
見る限り街はほぼ機能停止状態で、人影はいつもよりずっと少ない。その人々の表情は何れも不安げだ。これまで見たこともない規模の大空襲の衝撃にまだ目が醒めていないのかも知れない…
「甲兄さんは、何か言ってたかい?」正雄は、誠治と功夫と積子3人が車窓から外を眺めながら話に興じているのを見て、こっそり潤治に語りかけた。
「いえ、兎に角早く来てくれということで…やっぱり、省内も相当ガタついているんじゃないですかね」
「だろうなあ…まあ、今度の空襲で世の中の雰囲気も変わるだろうぜ。うちのお袋も、どうやら心変わりしそうだし…お、そうだ、その辺のとこ甲兄さんに伝えといてくれ。いざとなったら世話んなるかも知れねえからよ」
「はい、分かりました。伝えておきます」
「よろしくな…」
潤治は霞ヶ関で下車し、4人と別れて海軍省に向かった…
つづく…
この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?