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仙の道 3

第二章『転』(1)


荒木は親しい不動産業の知人に頼んで、短期の仮住まいに都内の小さなアパートを用意してくれていた。
僅かに2週間ほどの滞在だったが、その間、荒木の予想通りマスコミはこの横領事件と大物政治家との関係を嗅ぎつけ、事件関係者に取材が殺到した。
工務店の社長、塩谷は当初搾取金は全て自分の遊興費や事業の資金繰りの為に使ったと主張し続けたが、押収された資料の中から次第にほころびが見え始めていた。

『詐欺』『横領』『エリートサラリーマン』『愛人』『裏金工作』『大物政治家』…
マスコミが飛びつきそうなキーワードのオンパレードだった。
テレビのニュース画面に、もはや誰も住んでいない春田家の玄関が何度も映し出されていた。

そして、事件発覚から1週間後、事件の鍵を握る隆司の愛人だった女性の射殺死体が静岡県の山中で発見され、事件はさらに大きな展開を見せていた。

礼司は予備校を退校した。
倹約の必要性は目に見えていたし、受験勉強はその気になれば独学で充分だと思えたからだ。


仮住まいも2週目に入った頃、ようやく礼司たち2人が転居する物件が見付かった。
横浜港北の丘の上に建つ二間に台所付の古い小さな木造アパートだった。礼司も昌美もかろうじて自分の部屋が持てるぎりぎりの間取りだったが、周囲は都内よりもずっと空が広く緑も多い。母子が心機一転生活を建て直すには恵まれた環境だと礼司には思えた。
昌美は駅前のインテリアショップにパートタイムで勤めることになり、礼司も受験勉強に影響のない範囲で近くのコンビニエントストアのアルバイトを得ることが出来た。
佳奈は新たに神戸の食品メーカーに事務員として採用が決まり、何とか自活にこぎつけたということだった。佳奈との連絡は携帯電話で行なっていたが、荒木の奨めもあってそれぞれの電話番号を変更し、極く親しい親族や友人以外には知らせないようにした。
住まいの近隣や新たに知り合った人々とも、一定の距離を保って付き合うことを心掛けるようにした。一家の社会との接点は極く限られたものになり、暫くは穏やかな隠遁生活が続いていった。

礼司たちが新しい生活を始めて間もなく、拘留されていた隆司と塩谷が地検から起訴され、身柄は拘置所に移された。隆司の起訴内容は業務上横領罪、及び背任罪だった。塩谷は詐欺罪で起訴された。殺害された愛人の検死結果からも、隆司と塩谷が彼女の殺害に直接関与していないことは明らかだったが、それは同時にこの横領事件の背後に2人以外の何者かが存在することを示していた。かつて隆司の上司だった建設会社の常務杉田は、不祥事の責任を取り早々に辞職したが、その後の取り調べによって事件に深く関与していることが露見しつつあった。

そして、捜査がいよいよ現役代議士の公設秘書にまで及ぼうとしていた矢先に、塩谷が拘置所内で自殺を図った。深夜見回りの刑務官が独居房の窓格子に衣服を掛け首を吊っている姿を発見した時には、既に塩谷は絶命していた。


「じゃ、そろそろ行こうか?」
デスクから必要な書類を手早く鞄に収めると、荒木は応接スペースのソファに腰掛けていた礼司に声を掛けた。ようやく父隆司に家族との面会が許されるようになったのだ。礼司は法律事務所から、荒木の運転で東京拘置所に向った。
当初は昌美も一緒に行く予定だったが、直前になって「やっぱりあたし…お父さんには、会いたくないわ」と言い始め、結局礼司と荒木だけで面会に行くこととなった。

拘置所は礼司が想像していた以上に巨大な施設だった。敷地内の広い駐車場を抜けてビルの玄関を入り、面会申込書を提出する。多くの面会人で混雑する待合室で小一時間も待つと、ようやく礼司たちの整理番号が電光板に表示される。検査室で持ち物の検査を受け、エレベータで指定された階の面会室に向う。

「さ、この部屋だよ」と荒木がドアを開け、礼司を中へと促す。
「おう、久し振り!」部屋を仕切る透明のアクリル板の向こう側に満面の笑顔の隆司が座っていた。あの朝以来久し振りに会った父親は、一回り引き締まった感じがした。

「お父さん…元気そうだね…」
「悪いな…もう少し大きな声で話してくれないかな。ここ、ほら、仕切りがあるから聞こえ難いんだ…」
「思ったより、お父さん、元気そうだって言ったんだ」
「ああ…心配掛けて悪かったな。俺は大丈夫だ。荒木がいろいろ助けてくれてるからな」
「僕らもすごい世話になってる。お父さん、身体の方は大丈夫なの?」
「ああ、禁酒禁煙だし、睡眠もたっぷりとれるし、なんてったって規則正しい生活だからな…はは…贅肉も大分取れたぞ。で…お母さんは…一緒じゃなかったのか?」
「うん…やっぱりまだ、会いたくないって…昨日までは一緒に行くって言ってたんだけど…」
「そうか…お前たちのことは荒木から詳しく聞いてる。いろいろ大変な思いさせて、悪かったな。お前だけでも来てくれて嬉しいよ。有り難うな…」そう言った隆司の目が少し潤んでいるのが分かった。
「しょうがねえよ…俺たちのことは俺たちで何とかするから、お父さん、頑張ってよね。変なこと考えないでよ」実のところ、礼司は父親が塩谷と同じ行動に走るのではないかと不安だったのだ。
「分かった…悪いな、心配すんな…そうだ、お前、勉強の方はちゃんとやってるのか?」
「うん。バイトしながらだけど…お母さんも、荒木さんも頑張れって言ってくれてるし…」
「そうか…荒木、何から何まで、本当に申し訳ない…」隆司は礼司の隣に控えていた荒木に深々と頭を下げた。
「まあ、いいよ。春ちゃんとは腐れ縁だからな。それよりお前、礼司くんに話したいことがあるんじゃないの?なんだったら、俺、席外そうか?」
「いや、一緒に聞いてて欲しい。礼司…お父さんな、本当に馬鹿なことをした…っていうか…ここで、毎日、自分のやったことをじっくり考えたら…自分で自分が何をしてるのか、良く分からなくなってたような気がするんだ。なんだか無責任な感じに聞こえるかも知れないけど…3年前、お父さんほら、営業部から外されただろう?いきなり会社や会社の経営陣たちから裏切られたような気がして、ちょっと自暴自棄になってたのかも知れない…何十年も会社のために働いてきて…家族のこともそっちのけで…気が付いたらお前たちはすっかり大人になってて、お母さんはお前たちのことで頭が一杯で、今更俺が仕事の愚痴をこぼせるような筋合いはないって思えたし…それでも会社が俺のことを認めてくれないんだったら、この辺で一寸くらい良い思いしたって構わないだろう、そんな感じだったんだ。でも…結果的にお母さんやお前たちのことを裏切ることになっちゃって…本当は一番大切だと思っていた家庭や家族を台無しにしちまった」

「そんな…会社なんて、気に入らないんだったら、あの時とっとと辞めちゃえば良かったんだよ。会社に認められたって認められなくたって、俺たちにとっちゃ、お父さんはお父さんなんだから…」
「そうだよな…そんな簡単なことが分かんなくなっちゃってたんだよな…今更言っても仕方ないけど…結局、お母さんやお前たちの生活まで奪うことになってしまった…本当に、本当に申し訳ない…」
「もういいよ。それより、俺たち…これからのこと、考えなきゃ…だろ?」
「お前…知らない間に随分大人になったな…せめてお母さんやお前たちのことはちゃんとしてやりたいけど、こんな状況じゃどうしようもないんだ。正直言って、お父さん、今は自分を何とか保つだけで精一杯で…荒木にはお前たちになるべく被害が及ばないように頼んであるけど、俺はもう暫くはまともに稼ぐことも出来ないし、うまくここを出られたって、お母さんもきっと、もう受け入れてくれないだろうしな…あとはお前がしっかりしてお母さんや佳奈を支えて欲しいんだ。虫のいい話だけど…お前が来たら、それだけ言いたくってな…すまん…」
「分かった…俺、頑張るから…お父さんも、しっかりしてね」
「ああ…悪いな。今はそんなことしか言えない。荒木も、宜しく、頼む…」
「おう、いい息子さんで、良かったな、春ちゃん…」

面会時間は僅かに20分足らずだった。


その後も、礼司は父親が拘置所にいる間、何度も面会に行った。
事件の展開は荒木から細かく聞いていたので、会話はいつもお互いの心情を確認し合うだけだったが、家族との面会は余程嬉しいらしく、いつも隆司は満面の笑顔で迎えてくれるので、礼司はその笑顔が見たくて時間を作っては足を運んでいた。しかし、何度誘っても、母親の昌美が同行することは一度もなかった。

荒木は会社との示談交渉を進め、民事訴訟が起こらないように手早く事を収めてくれた。その結果、春田一家は家を失った。示談が成立したことは、隆司の量刑を軽減させることになると、荒木は喜んでいたが、財産の殆どを失った礼司たちの生活は次第に苦しくなっていった。
荒木は援助を申し出てくれたが、弁護費用も満足に支払えない礼司たちにとっては、そこまで甘える訳にはいかなかった。礼司はアルバイトの時間を増やし、定期的に深夜のパートも受け持つようになった。取り敢えず、大学進学は諦めざるを得ないと半ば覚悟していたが、昌美が気落ちするのを恐れ、形だけは勉強を続けていた。

事件の背景については、相変わらずマスコミの取材が先行し、世論の後を追って検察特捜部が動くという構造が出来上がっていた。大手企業の幹部と大物政治家との関係、そしてそこから新たに国土交通省の幹部事務官の関与や、さらには重要参考人の射殺事件に大きな暴力団組織が関与しているという話も浮上してきていた。その分、事の発端であった横領事件の容疑者・隆司の存在はいつの間にかすっかり舞台の隅に追いやられてしまっていた。
弁護士の荒木は、そういった事件の背景の広がりは、隆司が大きな陰謀のほんの一つの駒でしかなかったことを証明するものであり、情状酌量を求める絶好の材料だと言っていた。


事件の背景について今だ不透明な点が多いせいか、隆司の公判日程が決まったのは7月の中旬も過ぎてからだった。罪状は明らかだったが、荒木は独自に調査を進め、事件の背景に関わる提出用の証拠資料を集めているようだった。礼司たちは慎ましいアパートでの日常生活にもようやく慣れ、昌美の精神状態も落ち着いているようだった。

公判が間近に迫ったある日、荒木の法律事務所の若い弁護士から電話が掛かってきた。
この2日の間に荒木が礼司たちのアパートを訪ねてはいなかったか、という問合せだった。一昨日前から、荒木の消息が分からないということだった。事務所のスタッフはきっと公判前の調査に奔走しているのだと思っていたが、昨日も丸一日、本人とは全く連絡がつかなかった。
事務所のスタッフは事件性を感じて警察に捜索願を出した。彼の話では、荒木は失踪する前日、裁判所と検察側に証拠書類を持って根回しに行くと言っていたらしい。しかし、その後の確認で、荒木は約束の時間にいずれにも現われなかったとのことだった。

荒木は証拠資料を抱えたまま、突然消えてしまった。公判が間近に迫っていたため、同じ事務所の弁護士が後を引き継ぐと申し出たが、隆司はそれを断り、あとは国選弁護士に任せたいと言って譲らなかった。本人からの依頼が無い以上、荒木の事務所のスタッフは手が出せないという。礼司は慌てて、隆司に会いに拘置所に赴いた。


これまでとは打って変わって、隆司は憔悴し切っていた。
「礼くん、もういいんだ。もういいんだよ」
「だって…荒木さん、執行猶予に持ち込めるって言ってたんだよ。事務所の人に引き継いで貰おうよ。国選じゃ駄目だって…」
「いや…いいんだ。お父さん、これ以上人を巻き込みたくないんだ…もしかしたら、お前やお母さんまで危険な目に合わせるかも知れない…どうやら、俺はとんでもないことに首を突っ込んだみたいだ。ついこの間まで俺の周りにいた人たちが、どんどん居なくなっていく…それに、どんな事情があったって、罪は罪だからな。確かに俺は会社の金を使い込んだんだから…大人しく刑務所に行ってくるよ。俺はもう、何も言わない。言い分けもしない。な、それが一番いいんだ。最初っから、そうしてれば良かったんだよ…お前も、変に騒いだり嗅ぎ回ったりするなよ。いいか?俺は会社の金を横領した。それだけのことだ。分かったな…」


隆司の意思は固かった。裁判は3ヶ月間を費やし、結審した。判決は懲役4年の実刑、拘留期間を差し引いても3年半の懲役が課せられた。

母親の昌美の様子がおかしくなったのは、裁判期間中のことだった。以前は殆ど飲まなかった酒を飲むようになった。最初は安物のワインを少しずつ飲んでいるようだったが、次第に空瓶が頻繁に目に付くようになり、隆司が拘置所から刑務所に移送される頃には空瓶はワインからウィスキーに変わっていた。
家に居ても空ろな状態が多くなり、母子の会話も次第に減っていった。

「俺、受験やめて働こうかと思うんだけど…」礼司がそう切り出した時も、昌美は「そうね…」と応えただけだった。

年末を迎える頃には、家に未払の光熱費の督促状が頻繁に届くようになった。昌美は一日中家にいることが多くなっていたが、フルタイムのアルバイトに加え夜勤も申し出ていた礼司には母親の心を支える余裕はなかった。

第4話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。
カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com




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