見出し画像

仙の道 4

第二章・転(2)


正月には、久し振りに佳奈が戻ってきた。時々電話で近況を伝え合ってはいたが、昌美の様子を目の当たりにして、あまりの変貌に仰天していた。

「どうしたの?お母さん…」
「どうしたって…何が?」昌美はおぼろげな笑みを浮かべていた。
「だって…髪が真っ白じゃない…そんなに痩せちゃって、お化粧だって全然してないし…」
「いいのよ…あたしはどうせもう歳なんだから…その分佳奈ちゃんが奇麗になればいいの」
「そんな…」
「さ、それより、久し振りに三人でおせち頂きましょう。佳奈が帰ってくるって言うから、錦卵も買っておいたわよ。好きでしょ?あなた…」そう言いながら昌美は小さなテーブルの上に、用意していたお節料理を並べ始めた。それから、自分のグラスにウィスキーを注ぎ、両手で大切そうにグラスを持ち上げると、まるで水を飲むように一気に飲み干し、満足そうに大きなため息をついた。
「あー美味しい!やっぱり、お正月はいいわねえ…皆が揃って…あなたたち、お節全部食べちゃ駄目よ。もしかしたらお父さんが帰って来るかも知れないでしょ?」
「そう…そうね…少し残しておかなきゃね…お父さん、黒豆好きだったもんね」佳奈は目を潤ませて、必死に母親に話を合わせていた。

「そうよ…ふふ…知ってる?お父さん、本当は黒豆と一緒に食べる丁呂木ちょろぎが好きなのよ。あたし、丁呂木なんて、あの人と結婚するまで知らなかったわ。赤くて、しょっぱいだけで、でもお父さん、口尖らせてカリカリって嬉しそうに食べるのよねえ…ふふふ…変な人…あー、変な人と結婚しちゃったなあって…お正月が来る度に思うのよねえ…」そう言いながら、昌美はグラスになみなみと注いだウィスキーを再び飲み干した。既に昌美の視線は中空を漂い始めていた。

「ほら、お母さん、お酒飲みすぎだよ。少し何か食べた方がいいよ」
「あたしはいいの。あなた達の為に用意したんだから…あなたたちが食べなさい。礼くんははも板と焼き雑煮、佳奈は錦卵と数の子、お父さんは黒豆と丁呂木…ふふふ…じゃ、あたしが好きなものはなあんだ?あなたたち、知ってる?」
「そうねえ…お母さんは何でも食べるし、お料理、得意だし…好き嫌い言わないじゃない」
「あたしが好きなものはね…あなたたちが好きなものを作ること。あなたたちの…美味しそうに食べる顔を見ること…あたしはね、何でも好きなの。何でも好きっていうことは…何にも好きじゃないっていうこと…あたしはね、あたしは…箱なの」
「箱?」礼司は思わず聞き返した。
「そう…箱…始めからなんにも無いの…空っぽなの…あなたたちが好きなものが好き…お父さんが好きなものが好き…でも、あたしが好きなものはなんにも無いの…だからお父さんにも飽きられちゃったのよね…ふふ…」昌美はもう3杯目のグラスを片手に呂律が回らなくなり始めていた。

「そんなことないよ…お父さん、必ず帰って来るから…大丈夫だよ」
「そうかしら…あの人、忙しいから…」
「大丈夫。その内、お勤めも終わるから…そしたら、真直ぐお母さんのところに帰ってくるから…大丈夫だから…お父さんは…お母さんのことが本当は大好きなんだから…だから…お父さんのこと、待っててあげよう…」
「そうね…そうだと、いいな…お節全部食べちゃ駄目よ…」

久し振りに3人揃った食卓に昌美は嬉しそうだった。以前の日常のように暫くたわいない会話を続け…やがて朦朧とし始めた。
礼司と佳奈は母親を寝床に運ぶと、再びテーブルに戻り話し始めた。

「お母さん…いつも、あんな感じなの?」
「そうだね…俺もバイトが忙しいから、あんまり看てられないけど…目を覚ます時にも酒がいるし、寝る時にも酒がいるし…もう、寝てるか酔ってるか、どっちかだな…」
「そう…じゃ、ここの生活費は…あんたが稼いでるってこと?」
「だね。だって、お母さんお店首になっちゃうしさ…俺が稼ぐしかないもん」
「まあ…あれじゃ仕事は無理ね…でも、あれヤバいよ。完全にアル中じゃない。もう完全に病気よ、依存症…病院とかに連れていった方がいいんじゃないの?」
「そんな余裕ないよ…でも、今ちょっと相談してるんだ…」
「相談って、誰に?」
「バイト先の店長。早川さん。コンビニのねオーナーの息子さんなんだけど…そこ今度3軒目の店出すことになってさ、で、受験しないんだったら正社員にならないかって言われてんだ」
「あら…ちょっといい話じゃない」
「うん…で、俺、隠してちゃまずいかなって思って、全部話したんだ。お父さんのこととか、お母さんのこととか、大学受験諦めたこととか…そしたら、なるべく早く正規雇用にしてくれるから頑張れって言ってくれて…社員になれば保険も使えるから、お母さん病院に連れてけるし…」
「そう…良かったね。良さそうな人じゃない…その、早川さん」
「うん。受験はもう無理だけど…何とかなりそうな感じなんだ」
「今は、お金は大丈夫なの?」
「お母さんが仕事しなくなって、貯金は全部無くなっちゃった。支払もここんとこ溜まってきちゃってる…家賃も2ヶ月分待ってもらってるし…でも、今年から俺、収入も少し増えるようになるから、すぐにってわけにはいかないけど、頑張ればなんとか出来ると思うんだ…」
「ごめんね…礼くんにばっかり頼っちゃって…あたしももっと頑張って、少しずつでもお金送るようにするから…」
「姉ちゃんは、今度の会社は大丈夫?」
「うん。今度は大丈夫。小さい会社だし、みんないい人たちだし、お給料は安いけど…贅沢言ってられないしね…」

その晩、2人は久し振りに遅くまで話をした。あの日から今までのお互いのこと…子供の頃の一家の思い出…これから生活をどう建て直していくか…そして、自分たちの未来…良く考えてみたら、礼司は姉の佳奈とこれほど長い時間向き合って話をするのは初めてだということに気が付いた。


礼司はその年から正規社員として働き始めた。会社とはいっても大手コンビニチェーン店を3店舗持つだけの小さな家族経営会社だった。
母のアルコールへの依存は相変わらずだったが、正月以来、昼間は飲まずに仕事を探しに行くと言って出掛けることが多くなった。
最初の給料で溜まった家賃の残金を何とか支払い、いよいよ母親の治療を考えなければと思っていた矢先のことだった。携帯電話に聴き覚えの無い男性から電話が掛かってきた。相手は金融会社の社員ということだった。

『春田昌美さんの御長男さんですよね』
「ええ、そうですが…」
『お母様の借入金の御返済についてですね、ちょっと息子さんに相談させて頂きたいんですが…』
「母がお金を…借りてるんですか?」
『ええ…そうなんです。で、ですね…一度ちょっと、どこかでお会いできないですかねえ?御都合のいいところに伺いますんで…』

丁寧だが、手慣れた、有無を言わさぬ凄みのある口調だった。仕事が終わる夜に駅前のファミリーレストランで待ち合わせることにした。

その男は窓際のテーブルにコーヒーカップを置いて待っていた。礼司が店に入ると、腰を上げて軽く会釈を送った。見た目には40代半ばといったところで、きちんとスーツを着ていたが、どことなく品が悪く、明らかに堅気の人種には見えなかった。

「春田さんですか?」
「あ、はい…」
「すいませんねえ、お忙しいのにお呼び立てしちゃって」
「いえ…」
「御長男さんはお若いんだねえ…あ、コーヒーでいいすかね?」
「いや、僕はいいです。お話し伺ったら、すぐ帰りますから…」
「まあまあ…おい!ちょっと!こっち、コーヒーもう一個!…はは…少し話、長くなるかも知れないからね。さっきは突然電話で失礼しました。戸枝といいます」
男は名刺を一枚差し出した。名刺には『株式会社サンキ 営業部長・戸枝勲男』と記されていた。
「あ、はい…すいません…で、母がお金を借りてるって…」
「ああ…知らなかったんだよね…いやあ、息子さんに連絡しようかどうか、大分悩んだんだけどねえ…御本人と話しても、どうも埒があかなくてねえ…こっちも困っちゃって…で、一度相談してみようと思ってさ。御家族、息子さんだけなんだよね?」
「ええ…はい、2人暮らしです。それで…母は、どの位お借りしてるんですか?」
「うーん…それが、結構な額になっててねえ、これ、一応この間お母様にも渡してあるんだけどね…」戸枝はそういって脇に置いた鞄の中から一枚の計算書を出し、広げて手渡した。礼司はその額面を見て驚いた。

「……これって…この…4百万…って、ことですか?」
「ま、そういうことだね。今のところ、この405万2千6百円ていうのが、負債総額だね」
「でも…こんなに…なんで母が…」
「ここに契約書の写しもあるんだけど、ほら。最初にうちに来たのは去年の5月。保証人なし担保なしで100万借りたいって…パートで働いてて、御主人とも別居中ってことでしょ?そりゃ無理ですよって言ったんだけどねえ…ま、無理じゃなきゃうちみたいな街金には来ないんだろうけどさ。身なりはちゃんとした奥さんみたいだったから、いろいろ事情を聞いたら…何て言うか…まあ、ちょっとほだされちゃってね。で、おやじ…いや、社長とも相談して、うちは金利も高いから、なるべく早く返済して下さいって、出してあげた訳よ。それで…次はこれ、7月の50万、それと九月の20万…九月の時はもうすっかり様子が変わっちゃってて…あれ、酒だろ?駄目だよ、お母さん、酒やめさせないと…そっからはもう、ねえ…何度連絡したって、返済能力なしって感じだもん…もちろん、その後はもう、お貸ししてないんだけど…うちはほら、利息が高いからほっとくとこういうことになっちゃうんだよねえ…」
「…でも…こんなお金…俺、今すぐには…とても返せないです…」
「分かってる分かってる。まあ、ちょっと話聞いてよ。この間ね、お宅のアパートにも行ったんだよ。息子さんが仕事で留守の時だったんだけど…ちゃんと家賃も払って、息子さんも毎日働きに出てるって言うから…じゃあ、息子さんと相談させてもらうって言ったんだけどね。何とかするから息子には黙っててくれって、泣かれちゃってさ。で、こりゃあいよいよ無理かと思ってさ、事務所に戻って社長に相談したんだよ」
「すいません……」
「いや、君は知らなかったんだから…そしたら、おやじが怒ってさ、ほらここ…」指で示した額の横に小さな傷と痣が残っていた。
「あ、これ脅しじゃないからね。うちの中のことだから…でも、このまんまじゃどうにもなんないだろ…正直言って、うちらの業界はね、最近厳しいんだよ。貸金業法っていうのがあってさ、うちは裏稼業だからね、お母様にお金貸したんだって本当は違法なわけよ。ところで、息子さんは、お幾つなの?」
「19です…」
「そう…未成年じゃ、今更保証人になってもらう訳にもいかないしなあ…でも、こっちもこのまんまにしておくわけにもいかないし…どうかなあ…全額は無理としても、何とかある程度まとまった額、用意できない?この辺で示談回収ってことにしちゃいたいんだよねえ」
「でも…まだ…僕、先月からちゃんと雇われたばっかりだし…」
「親戚とか、知合いとか、勤め先から前借りとかさ…」
「……」
「ま、ちょっと考えてみてよ。またこっちから連絡するから。ね。あ、法律事務所とかやめてよね。うちは弱い立場だけど、裏には裏の面子があるから、そのまま泣き寝入りは、絶対にしないからね」最後の一言を加えた戸枝の脅すような目つきが、事の重大さを語っていた。


礼司がアパートに戻ると、昌美はいつものように家にいた。礼司のために簡単な食事が用意されていたが、昌美はグラスを片手に、ぼんやりと中空を見つめていた。昌美に相談すべきことは何もなかった…

その夜、礼司は久し振りに目ぼしい親戚に電話を入れてみたが、事件発覚以来マスコミ攻勢や、物見高い周囲から被害を被った者も多く、快く援助を引き受けてくれる親族は殆どいなかった。ただ、父方の伯父と母方の伯母の二人だけが渋々いくばくかの援助を送金してくれることになったが、合わせても僅かに数十万にしかならなかった。もちろん、姉の佳奈にも相談の電話を入れ、状況を報告した。
『ごめんね…あたし、あんまり力になれなくて…』
「しょうがねえよ。でも…何とかしなきゃ…」
『荒木さんのとこの事務所に相談したら?』
「あの事務所…荒木さんがいなくなって、暫くしたら…無くなっちゃった。もう…誰もいないんだ…それに…法律事務所なんかに相談したら、何されるか分かんないし。俺はいいけど…お母さん、そういうの駄目だろ?ますますおかしくなっちゃうよ…」
『あたし、お母さん引き取ろうか?あんただけだったら、何とかなるんじゃない?』
「いや…そりゃ無理だろう。それに、姉ちゃんがいることは向こうに話してないんだ。俺は今んとこまだ未成年だから、向こうも手出しできないみたいけど、娘がいるって分かったら、きっとそっちに押し掛けるよ。そうなったら、危ないと思う…姉ちゃん、ここにいなくて良かったよ」
『そうか…お母さんは、どうしてるの?』
「相変わらずだよ。もう、お酒やめてくれって頼んだら…分かったって一応言うんだけどさ…すぐその後でもう飲んでる。ま、今までもそうだったけどね」
『どうしたらいいのかなあ…お母さん…』
「入院とか治療とか、いろいろ方法はあるらしいけど、本人が何とかしようと思わなきゃ駄目だって話だよ。もう、お母さん、人生投げちゃってるからなあ…」
『伯母さんは、何だって?姉妹でしょ?』
「心配してくれてるんだけど…伯父さんからね、もううちとは付き合うなって言われちゃったんだって。お金は少し送ってくれるって言ってたけど…お母さんの面倒までは看られないってさ」
『冷たいね…』
「しょうがねえよ。きっと、いろいろ迷惑掛けちゃってるんだろうし…」
『礼くんは、大丈夫なの?』
「俺?大丈夫って…何が?」
『だって…あんた、まだ19でしょ?お父さんのことがあって、大学受験諦めて、お母さんがあんなになっちゃって…で、今度は借金でしょ?逃げ出したって誰も文句言わないわよ。よく落ち着いていられるわねえ…』

「そうかなあ…」言われてみれば、そうかも知れない…小さい頃からいたって穏やかだった礼司にも、人並みに小さないざこざや虐めに遭ったことがなかった訳ではない。しかし、予想できない窮地の中でも、あまり慌てふためいた記憶はないのだ。礼司本人にしてみても、まあそんな性格なのだろう、と自覚するしかなかった。

『あんた、小学生の時に上級生と喧嘩してさ、相手に大怪我させたことがあるじゃない?お父さんに、もう絶対に人と喧嘩するなって…切れると何するか分からないって…言われたの覚えてる?あんまり溜め込んで、無理しちゃ駄目よ』

そう言えば、そんなことがあった。大人しそうな礼司のことを、面白がって目の敵にし続けた上級生たちがいた。罵声を浴びせられても、脅されても、何故か礼司にとっては大した事には思えなかった。たまに物が飛んできたこともあったが、礼司にぶつかることは一度もなかったので、本気ではないのだろうと気にもとめなかった。ところがある日、休み時間に校舎の裏に連れていかれた。明らかに虐めがエスカレートした瞬間だった。
礼司よりも一回りも大きい上級生2人に両脇から腕を押さえられ、もう1人が正面に立ち「生意気だから殴る」とはっきり断言された。そこまでは礼司も覚えている。しかし、その後の記憶は全くない。気が付いたら3人の上級生は悲鳴をあげながら地面に転がっていた。
心配して様子を見にきたクラスメートが驚いて担任を呼びに行き、大騒ぎになってしまった。
3人とも全員利き腕を骨折していたのだ。
虐めの状況ははっきりしていたので、被害者の家族も大ごとにはしなかったが、3人の治療費は礼司の両親が負担した。両親には申し訳ないとは思ったが、暴力を振るった記憶も意識もなく、心を乱すようなことは何もなかった。

「うん分かった。でも…俺が何とかするしかないから…」
『そうね…でも、本当に無理しないでよ。なんかあったら、すぐに連絡頂戴』
「分かった…」

第5話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?